臆病なビーズ刺繍

 臆病なビーズ刺繍にありにしも
 糸目ほつれて今朝の薔薇薔薇

あなたの一首(ひいらぎさんの作品)

2010年04月10日 | あなたの一首
○  幼子を成長させてゆくらしい絵本とボールと冬の陽だまり   ひいらぎ

 第十回「歌垣の里・白石─三十一文字コンテスト」に於いて、目出度く「一般の部・秀作」に選定された、ひいらぎさんの快心の作である。
 ひいらぎさん、おめでとうございます。
 この快挙を、私は心からお喜び申し上げます。
 そして、嫉妬も少々。
 私は、たまたま開いたひいらぎさんのブログでこの報に接し、急遽、「歌垣の里・白石─三十一文字コンテスト」のホームページで、その事を確認したばかりであるが、同コンクールは、著名な歌人の塘健氏らを選者として、佐賀県白石町の主催で行われる短歌コンクールであり、第十回の今年は、「愛」をお題として日本全国から、数多くの作品が寄せられたとのことです。
 この作品について、作者御自らがご自身のブログで、「我が子の成長を詠んだ歌です。/つい最近まで絵本を読んで聞かせていたのに、気が付けば、一人で読めるようになっています。/息子もサッカーを始めようと考えているみたいで、自分からお父さんをボール遊びに誘ったり。/知らない間にどんどん大きくなっていくなぁ…と感じます。/子供の成長を思うときに、温かな穏やかな陽だまりのイメージでした。/辛いことも沢山あったとは思うのですが、今、目の前で笑ってくれる子供達を見ていると、たいしたことなかったと思えます。/でも息子はただ今、反抗期(いや、ずっとかも!?)/まだまだ大変なことが待っていると思いますが、私自身も、冬のひだまりみたいに優しく温かな気持ちで子育てしていきたいなぁと思います。」と、そのお喜びのお気持ちを語っていらっしゃるが、その文章は、他に代え難い、本作の解説となっていると思われますので、これ以上の詮索は無用と思います。
 この作品は、作者・ひいらぎさんのご本名で発表されたものでありますから、本来ならば、作者欄に、そのご本名を記すべきでありますが、この場はあくまでも、「題詠2010」の投稿作の批評を中心とした場であり、私とひいらぎさんとのお付き合いも、「題詠2010」への参加者同士という関係に過ぎませんので、この際は、本作の作者名を、敢えて「ひいらぎ」さんとして掲載させていただきます。
 その旨、お許し下さい。
 ひいらぎさんには、重ね重ねおめでとうございます。
 お祝いと申し上げるよりは、お笑いに私も一首、唱和させていただきます。
  〔返〕 パチンコとお酒と煙草それに妻 駄目な亭主を更に駄目にす   鳥羽省三

一首を切り裂く(遅刻して来た元・少女<ひいらぎ>さんの歌)

2010年04月10日 | 題詠blog短歌
 昨年の「一首を切り裂く」の標的の一人であった<ひいらぎ>さんが、去る三月半ばに、遅れ馳せながら「題詠2010」への参加表明をなさり、今のところ「001」から「003」までのわずか三首だけではあるがご投稿なさって居られる。
 私は昨年同様に今年もまた、彼女の歌を切り裂くことを密かな楽しみの一つとしていたのであったから、彼女の大幅な遅刻には、何か特別なご事情(例えば、娘さんのご出産とか、いや失礼、ご本人のご出産とか)でもお在りなのかと思って、少なからぬ心配をしていたのであったが、それが杞憂に終わったので今のところ一安心という心境である。
 つきましては、大変異例のことながら、「遅刻して来た元・少女<ひいらぎ>さんの歌」と題して、彼女の作品三首の観賞を試みてみよう。
 後厄も過ぎた女性を掴まえて「元・少女」でもないでしょうと、老妻には叱られるが、あのジャリ・タレ集団「嵐」の歌と踊りに痺れて、時折りは家事も詠歌も忘れてしまう<ひいらぎ>さんのことであるから、何よりもご本人が「元・少女」どころか、現役の少女という意識から脱却なさって居られないことと思われます。
 したがって「元・少女ひいらぎさん」という私の言い分も許容されて然るべきであろうと思われるのである。


(ひいらぎ)
   ときめいた気持ち抱えて桜咲くいつもと違う春の訪れ

 「001:春」への投稿歌である。
 のっけから悪口を言うようではあるが、「ときめいた気持ち抱えて桜咲く」は良くない。
 この上の句の何処が良くないのかと言うと、詠い出しの語「ときめいた」が良くないし、「気持ち」も良くないし、「抱えて」も良くないのである。
 このままだと、「さあ春が来るぞという期待で、既に一週間も前からどきどきしていたが、今となってはその緊張の余りに少し疲れ気味になってしまった。そうした気持ちを内部に抱えて桜が咲く」ということになってしまうのである。
 これを何か別のことに例えれば、「えい、破れかぶれだ。泣いても笑っても明日は結婚式だぞと、既に彼女の全てをいただいてしまった男性が、半ば以上冷め切った気持ちで結婚式に臨む」というような按配となってしまうのである。
 助動詞の「た」は、過去の助動詞であり、完了の助動詞でもあるが、ひいらぎさんのように、豊富な文法知識を持って居られる方ならともかく、一般的には、これを過去の助動詞としてのみ捉え、「ときめいた」即「期待感などでひとしきりどきどきしたが、その後」という感じに解釈してしまうのである。
 文法知識は、ご自身がそれを持っているというだけでは駄目で、それに基づいて作った作品を人前に晒した時に、人様がそれをどのように受け取るか、というレベルまで到達した上で、発揮しなければならないのである。
 詠い出しの語「ときめく」に拘るならば、「ときめいた」と過去形にしないで、「ときめける」と存続形にするか、「ときめきの」にした方が遙かに宜しいかと思われる。
 また「気持ち抱えて」という言い方は、伺い知ることの出来ない桜の気持ちを外側から消極的に撫でているような感じの弱い言い方になってしまうから、それをもっと大胆に、作者と桜とがぐいと近寄って、春の到来を喜ぶお互いの心を覗かせ合うような気分を込めて、「気分覗かせ」或いは「心覗かせ」とする方が、この作品を数倍も良くすることになるのではないでしょうか?
 作者・ひいらぎさんは、自分自身が春の訪れを強く願望しているから、季節の花である桜もまた、自分と同じような気分になっていると思っているのでありましょう。
 もしそうならば、その気持ちが第三者にも解るような表現をしなければならないのでありましょう。
  〔返〕 ときめきの思い覗かせ桜咲くいつもと違う春訪れつ   鳥羽省三 
      ときめける心覗かせ桜咲く去年(こぞ)と違へる春訪れつ       々
      春若くひいらぎ未だ若ければ今年の春も花は開かず      々


(ひいらぎ)
   暇だった自分を忘れるほど今は君の笑顔を探してばかり

 好いて好かれて結婚した二人が、もう倦怠期に入ってしまったのでしょうか?
 お互いに弛緩してしまい、似たような気分になってしまったこの頃なのであるが、結婚当時の充実した気持ちを失ってしまった度合いは、本作の作者よりも、本作の作者の連れ合い(去年は好きな旦那さま)の方が、より顕著なような感じである。
 その証拠は、本作中の「今は君の笑顔を探してばかり」という表現に在ると思われるが、この表現中の「君」が、連れ合いとは異なった男性であるならば、作者夫婦は、もう既に取り返しのつかない泥沼に足を突っ込んでいることにもなりましょう。
  〔返〕 暇だった去年懐かし本年は君の笑顔を覗うばかり   鳥羽省三
      横顔を眺めて笑める過去ありき今年の君は渋面ばかり    々
 追伸
 熱烈な「嵐」ファンのひいらぎさんのことでありますから、作中の「君」が、「嵐」のメンバーの一人の大野智くんだったり、櫻井翔くんだったりすることも充分に考えられ得る。
 でも、いくら何でも、御年三十四歳のひいらぎさんと二十歳にも満たない「嵐」のメンバーとでは、不釣合いもいいところでありましょう。
 その恋諦めましょう。


(ひいらぎ)
   公園に春の匂いが溢れ出すように君へと溢れる想い

 この一首から窺い知れるように、本作の作者<ひいらぎ>さんの心は、もはや戸籍上のご夫君から離れてしまっているようだ。
 いや、本作の「君」もまた、「嵐」なのかな。
 だとすれば、「花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ」、その恋あきらめな。
 作中に「公園に春の匂いが溢れ出すように」とあるが、この匂いとは「春の匂い」と言うよりも「晩春の匂い」なのであり、その本質は、「嵐」に蹂躙されて地面に散り敷いた桜の花びらの腐敗した匂い、即ち「死臭」なのである。
 表現上の問題点を指摘するならば、お題「公園」に縛られているばかりで、お題を生かし切っていない恨みが在る。
 お題は作者の味方であって、決して敵ではない。
  〔返〕 公園に春のざわめき満ち溢れ君への思い募るばかりぞ   鳥羽省三
 不倫の恋に思いを馳せるのは、息子さんが子供手当てを貰えなくなってからにしましょう。