10月29日(火)
大島小太郎。
1859(安政6)年~1947(昭和22)年。
いまの大志小学校の敷地の一部に建っていた大島邸の当主と言えば、ご存知の方も多いことでしょう。
明治から昭和初期にかけて、唐津の経済発展に尽くしたこの大島小太郎の功績や精神に学ぶ、「まちづくりワークショップ」の事前授業を、5年生が受けました。
応援いただいたスタッフは、いきいき唐津、まちはミュージアム、市教育委員会、市文化振興課、佐賀大学理工学部都市工学科田口研究室、地域ボランティアなど、今日だけで約20名。
11月12日(火)の本授業では、さらに唐津市内の高校美術部の学生たちも加わる一大プロジェクトです。
まず、大島小太郎の人物像をつかんでもらうために、市教育委員会の古藤指導主事に、続いて、大島邸について、利活用検討委員会の事務局をされている市文化振興課の坂口課長に、それぞれ15分程度のお話をしていただきました。
唐津工業高校の学生が制作した「大島邸模型」も見せていただきました。
子どもたちは、このあと、大島小太郎の生涯をまとめる「紙芝居グループ」と、大島小太郎の起業家精神に学ぶ「まちづくりグループ」に分かれて、午後の活動に入りました。
「紙芝居グループ」です。
まちはミュージアムの河内野さんが、5年担任に何度も相談しながら作られた紙芝居の文章は、14幕に分けられましたので、表紙と合わせ、15枚制作することになります。
それぞれの場面の読み取りや、わざと空欄になっている会話文の創作など、子どもたちとスタッフで一緒に進めていきました。
こちらは、「まちづくりグループ」です。
(1)近松座(講師 原口校長)
(2)辰野金吾生誕地(同 唐津赤レンガの会:伊藤達也さん)
(3)桜馬場遺跡(同 市教育委員会文化財調査係:草場誠司主査)
(4)旧唐津小学校跡地(同 元大志小学校長:中島安行先生)
(5)旧唐津銀行(同 唐津赤レンガの会会長:北島俊和さん)
の5つのグループに分かれ、まち歩き調査をしました。
有礼坂の途中から城内の方を眺めると、堀や石垣でしっかりと守られていたことが分かりました。
大島邸は城内ですが、大島小太郎の生家は山下町。
ということは、もともとそう身分の高い武家の出ではなかったことが分かります。
ここは、坊主町。辰野金吾の生誕地です。
辰野金吾も、身分の低い武家の出でした。
伊藤さんから、東京駅や旧唐津銀行を設計した辰野金吾と大島小太郎は、ともに唐津藩英語学校「耐恒寮」の学生で、のち内閣総理大臣となった高橋是清から学んだということも教えていただきました。
劇場「近松座」のあとは、駐車場になっていました。
近松座ができたのは大正3(1914)年。
この年、開通したばかりのパナマ運河を通って日本に来航した50隻の外国船のうち、3分の1の18隻が唐津港へ寄港しています。
大島小太郎が開いた唐津港が、大正時代には日本有数の貿易港となり、たくさんの人で賑わっていた唐津の町に、映画館や劇場が次々にできていった時代なのでした。
こちらは、桜馬場遺跡。
ここから出土した甕棺墓の遺構などから、「魏志倭人伝」にある「末盧国」の王の墓であると特定されています。
草場さんから、甕棺や青銅鏡などの話を聞きながら、弥生時代の唐津の様子を思い浮かべました。
「まちづくりグループ」の子どもたちは、
「もし、大島小太郎が今の時代に生きていたとしたら、それぞれの場所の持つよさを生かして、どんな施設をつくるだろう。」
と、大島小太郎になったつもりで、まちづくりに挑戦することになります。
給食も一緒に食べながら、スタッフの方や学生さんたちと交流を深めた5年生。
子どもたちにとって、こうした若いお兄さんお姉さんたちと交流することは、実際の授業とはもう一つ別の大事な意味があると思っています。
それは、
「こんな大学生に私もなってみたいな」
「高校や大学では、こんなことも勉強できるのか。行ってみたいな」
とか、
「唐津の町のことを、こんなにいっしょうけんめい考えている人たちがいるんだな」
「唐津の町を元気にする仕事を、私もやってみたいな」
など、自分の将来の夢を持ったり、唐津の町を今よりもっと好きになったりすることに、つながってくるからです。
次回、11月12日(火)のワークショップ授業が、今から楽しみです。
1時間目から6時間目まで、ぶっ通しであります。
活動中の様子や、15時からの発表会の様子も、ご覧になれますよ!