
なんだか妙に仲のいい、香緒里と友徳姉弟。浮気のあげく家出してしまった父・和志とその愛人・花さん。そして、友徳のガールフレンド=ビッチビッチな三輪あかりちゃん登場!
この長篇は、成長小説であり、家族をめぐるストーリーであり、物語をめぐる物語であり……。とにかく、舞城王太郎はまたひとつ階段を上った。
出版社:新潮社
舞城王太郎らしい小説である。
語り口には勢いがあるし、語っているテーマも、彼らしいまっすぐさが出ている。
だがこれまでの著者の作品にあった、とがった感じが今回は抑えられている。
そのため『煙か土か食い物』、『世界は密室でできている』、『阿修羅ガール』、『好き好き大好き超愛してる』のような、直情的と思えるような作品たちと比べると、少し物足りない。
それでも、この小説にあるまっすぐさと、一人称の語り口の心地よさ、そこここに散らばる笑いとは、印象深く、忘れがたい作品となっている。
この小説にはいくつも美点があるのだけど、個人的には、笑いが多いところに惹かれた。
特にビッチマグネットたる、ビッチを引き寄せるような体質の弟関連の話を、個人的におもしろく読んだ。
テレフォンセックスの場面とかは爆笑してしまう。
ストーリー展開も巧みで、細かいエピソードも読み応え抜群。
あかりをめぐるゴタゴタの話がぼくは好きだ。ゆすりまがいの行為が行なわれるところは、ちょっとしたエンタメの要素さえあって、おもしろい。
このあかりという女の子の腹黒さは見事な造形だろう。すばらしく最悪なビッチだ。
もちろんメインたる香緒里の物語も読ませるものがある。
この姉の物語を、一言でまとめるなら、自分の物語を獲得していくお話、といったところだ。
獲得していくってとこが、成長小説って感じがしてなかなか良い。
中学・高校時代の香緒里は自分の存在をうまく確立できていない。
それは多分、言語化の難しい自分の感情を、大事にしたいからなんじゃないかな、って思う。
実際、感情のすべてが言語できるわけではない。
だからこそ、彼女は自分の感情を言語という形にして、わかりやすく他人に提示したくないらしい。そしてわかったように、他人から判断されたくないようだ。
でも、形にならないものを抱えるのは、結構不安定だったりする。
そのため香緒里自身でさえ、自分の感情をもてあますこととなる。
それでも彼女なりに考え、自問しながら、弟や父や母や恋人との関係を通じて、自分というものを確立していく。
そしてそんな自己確立の過程で、顔を出すのが、「物語」なのだ。
香緒里はラストになって、次のような結論に達している。
「人のゼロは骨なのだ。
そこに肉が付き、皮が張られてその人の形になる。
(略)
いろんな物語を身にまとう」
これを誤読を恐れず、わかったような言葉で、僕なりに解釈するならば、以下のようになる――
それは、自分の心を言葉にしきれず、わかったように判断されることは、問題ではないということだ。
自分という存在は、それまで積み重ね、人々から記憶され、自分なりに獲得してきた、物語(あるいは思考や感情)を通じて、形成されていくものなのだから。
そこには他人から見る自分(自分の物語)と、自分が意識する自分(自分の物語)とがちがっていることもありうるのだろう。
それは、「人にはそれぞれの考え方、感じ方、物の価値観、行動理論がある」からでしかない。
だから、他人からはちがう見え方もされることがあるのは当然なのだ。
でも、それによって自分の「考え方、感じ方」なりが影響されるものではなく、「そうそう本質は変わったりしない」のである。どこまでいっても、自分が獲得してきた物語がゆらぐわけではない。
――ってのが、この作品から得た僕の解釈である。
まちがっているかもしれないが、僕個人の解釈なので、まあ気にすまい。
だから、充分な物語を身にまとっていなかった、高校生の彼女が、マンガを書こうとして、何も書けないままで終わっているのは必然なのだろう、という気がする。
彼女はそれを生み出すためのものを、何ひとつ、その段階では手にしていなかったのだから。
そして最後で、彼女なりに、何とか物語を書くことができたというところが、一つの到達点に映るのだ。
少なくとも、彼女は物語を書くだけのものを、自分の中に形成することができた。
これこそ、まぎれもない成長だろう。そのため、小説のラストには確かな手応えがある。
そのラストのために、読後感もなかなかさわやかなのである。
評価:★★★★(満点は★★★★★)
そのほかの舞城王太郎作品感想
『九十九十九』
『山ん中の獅見朋成雄』
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