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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

莫言『赤い高粱』

2013-04-16 20:42:36 | 小説(海外作家)

婚礼の輿が一つ,赤に染まる高粱畑の道を往く.輿に揺られる美しい纏足を持った少女.汗に濡れ輿を担ぐ逞しい青年.中国山東省高密県東北郷.日本軍が蛮勇を振るうこの地を舞台に,血と土,酒に彩られた一族の数奇な物語が始まる.その名「言う莫れ」を一躍世界に知らしめた,現代中国文学の旗手の代表作。
井口晃 訳
出版社:岩波書店(岩波現代文庫)




物語の運びと細部描写のパワーに満ち満ちた作品である。

ともかくその圧倒的で、メロドラマティックで、残酷で、グロテスクで、猥雑で、下品ですらある物語の魅力に、すっかりのめりこんでしまった。
語り手としての莫言のすばらしさを堪能できる一品だ。


本書には、盗賊にして抗日ゲリラとして活動した祖父と、祖父と日本軍を襲う父の姿を描いた『赤い高粱』と、高粱酒をつくる家に嫁いだ祖母と、彼女を奪って結婚することとなる祖父の姿を描いた、『高粱の酒』の二編が収められている。

単純にストーリーがおもしろく、そこがまず目を引く。お話は波乱万丈そのものなのだ。

抗日ゲリラの場面の緊迫感に満ちた状況にはドキドキさせられるし、祖父が花脖子を殺すシーンなどは、西部劇のノリがあって、まさにエンタテイメントのよう。
祖父と祖母の馴れ初めも、お話としては楽しくユーモラスで、食い入るように読み進めることができた。


それに細部描写もまたすてきなのだ。

特にグロテスクな描写は本当に見事としか言いようがない。
東洋鬼子こと日本兵が羅漢大爺の頭の皮をはぐシーンなどは本当にすばらしかった。
『ねじまき鳥クロニクル』にも似たようなシーンはあるけれど、こちらにはスタイリッシュな面がないので、よけいにその残酷さは際立っていたように思う。ちなみに『赤い高粱』の方が出版年は先だ。
そのシーンの陰惨さには、吐き気さえ覚えるほどである。


そのほかにも目を引く描写はいくつもある。

たとえば押し寄せるような高粱の描写もそのひとつだ。
人が死ぬときも、抗日ゲリラ戦がくり広げられる場面でも、祖父が祖母を初めて抱いたときも、そこには高粱があった。
その土臭く、ひたすら赤く、丈高く広がる高粱のイメージは圧倒的で、中国の平原が、まるで目に浮かぶかのようであった。

またここで描かれる庶民の姿は、節操がなく、そこもまたおもしろい。
曽祖父の、娘よりも驢馬のことばかり気にかけるところは、生きるために人を踏みつけにする価値観がよくうかがえ、興味深い。
それでいて、任副官のようにきまじめで融通が利かず、共産主義的な清廉潔白さを表したような人物も出てくるから、世界は奥深いと思う。


それにこの作品にはユーモアもあって、それもまた興味深く読んだ。

祖母の酒造小屋で祖父は労働者として働くのだが、一旦手篭めにしたはずの祖母が、あまりにつれないので、祖父はすねて、労働を放棄するところがある。
祖母は女主人として、祖父を折檻するのだが、その場面で言った祖父の言葉には笑ってしまった。
こういうくだらないことを、ぶちこんでくるのも、この作品の一つの魅力だ。


ともあれ、野性味溢れる物語のパワーを堪能した次第である。
莫言は『白檀の刑』しか読んだことがないが、より土臭く、猥雑さに満ちた『赤い高粱』も『白檀の刑』に負けないほどの、すてきな作品だと感じた次第だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの莫言作品感想
 『白檀の刑』

『魔の山』 トーマス・マン

2013-01-10 19:51:42 | 小説(海外作家)


平凡無垢な青年ハンス・カストルプははからずもスイス高原のサナトリウムで療養生活を送ることとなった。日常世界から隔離され,病気と死が支配するこの「魔の山」で、カストルプはそれぞれの時代精神や思想を体現する特異な人物たちに出会い、精神的成長を遂げてゆく。『ファウスト』と並んでドイツが世界に贈った人生の書。
関泰祐・望月市恵 訳
出版社:岩波書店(岩波文庫)




『八月の光』がおもしろかったので、同じように以前読んで挫折した本を読み返そうと、本書を手にしてみた。

で、今回再読して、なるほどむかしの僕が挫折したのも当然だったなと改めて感じた。
それは、訳が古く、内容が無駄に長く、幾分観念的だからだろう。

実際、読んでいる最中、内容が頭の中に入ってこないことも多かった。
そういう意味、『魔の山』は、精神的に余裕のあるときしか読めない本かもしれない。


そんな本書の印象を端的にまとめるならば、以下のようになる。
それは、『魔の山』は、教養小説の体裁を取りながら、そういった教養が実のところ、もろいものでしかないことを描いた作品である、ということだ。

解説を読む限り、誤読だろうが、僕はそう解釈したので、その論旨で進めていこう。



本書は、平凡な青年ハンス・カルストプが三週間の予定で、従兄がいるサナトリウムを訪れるところから始まる。しかし彼自身結核持ちであることが判明、そのサナトリウムに長期滞在することとなる。その過程でハンスは、恋をしたり、様々な人に触れたり、あらゆる思想を学んでいく。

サナトリウムというと、『風立ちぬ』のイメージがあるので、静謐な雰囲気を想像するのだが、ここの人たちは概ね元気がいい。
セテムブリーニみたいに饒舌な人もいるし、シュテール夫人みたいに騒がしい人もいれば、ショーシャ夫人みたいにドアを大きな音を立てて閉める人もいて、個性的だ。

しかしその社会は、あくまでせまい。そして下界から隔絶していて、浮世離れしている。

前者で言うなら、ハンスがショーシャ夫人にほのかな恋心を抱くところも何となくそんな感じがする。
周りがハンスの恋心に気づき、どういう態度をとるか、見守るところなど、その印象は強い。
狭いサークルゆえに、互いの関心も狭いのだろう。

そして後者では、時間の観念がどんどん崩れていくところなどはそんな感じがするのだ。
実際停滞とも見えかねない、サナトリウムでの暮らしに、後年はハンスもどんどん無感覚になっていく。
下界との隔絶ゆえに、多くのことに関心をもてなくなっているのかもしれない。



そして、そんな浮世離れした世界観を象徴するのが、セテムブリーニとナフタの議論なのである。
前回読んだときも思ったけれど、彼らの議論は、抽象論に過ぎているし、古めかしい。
現代の人がいま読む意義ははっきり言って、僕には見出せなかった。

とは言え、その内容自体はおもしろい。

ざっくりとまとめるならば、二人の思想は以下のようになろう。
セテムブリーニは、理性を基盤に据えた理想主義。
ナフタは、宗教(ただし解説を読む限り、ここはイデオロギーと置き換えた方がいいようだ)を絶対視し、それを通すためなら、倫理をも無視していいと考える、禁欲的な原理主義。
そんなところだろうか。

ハンスが暮らしていたのは、ヨーアヒムに代表される、謹厳な価値観の世界だ。
しかしセテムブリーニとナフタの議論は、それとは対照的であり、ハンスはそういった世界の捕らえ方があることも学んでいく。
僕個人の好みで言うなら、セテムブリーニの思想の方に共感する。

しかし彼は、セテムブリーニの理想主義も、ナフタの原理主義のどちらにも、違和感があるらしい。

実際「雪」の章で、彼はどちらの思想にも与しないことを自らに確認している。
本当の答えはそういった考えの中間の位置にあることを、ハンスも気づいているのだ。
そういう点、思想に関しては、彼はひとつの結論に達したと言えるだろう。



しかし問題は、そういった思想がどれほどの強度を持つのかという点にある。

それを象徴するのはペーペルコルンだ。
彼は自分の思想をはっきりと語ることはほとんどない。
そのせいか、彼は馬鹿なのではないか、とセテムブリーニに言われたりもしている。
しかし、ペーペルコルンは、その人間的な雰囲気のために、周囲の評価を得ている。

僕個人は、ペーペルコルンはただのわがままな老人にしか見えなかったけど、ハンス的には、人物であるとのことらしい。
そしてそういった人間としての雰囲気のために、ペーペルコルンは、議論を重ね、思想を披露しているセテムブリーニたちよりも上だと見なされているのだ。

そういう風にみると、思想というものがとても弱々しいものに見えてならない。
どれほど強固な思想でも、カリスマティックな人物の登場で、思想はあっさり打ち破られる可能性もあるのだ。

思想は、雰囲気によって左右されかねない、ということだろう。そういう点は現代的だ。
そしてそれは時代の熱狂に飲み込まれていくラストにも通じることである。



そんな時代の熱狂は、ある意味では、死への熱狂ともいえるのかもしれない。

この作品では、サナトリウムという関係上、多くの人が死ぬ。
彼の親しい人間で言えば、ヨーアヒムなんかは典型だろう。
それ以外にもペーペルコルンやナフタは自ら死を選んだ。

ハンスは「雪」の章で、「死と病気とへの興味は、生への興味の一形態にほかならない」と述べている。
しかしだからと言って死に耽溺するではなく、「人間は善意と愛とを失なわないために、考えを死に従属させないようにしなくてはならない」とも考えている。

ハト派の僕としては、きわめてまっとうな意見だと思う。


しかしそんな考えを持っていても、第一次世界大戦に突入し、「ヒステリックな焔」に時代は熱狂することになる。
理想主義者のセテムブリーニすら、国家的な件については、マッチョな考えのとりこになる。

「抽象的なもの、純粋なもの、理念的なものは、同時にまた絶対的なものです、したがってまた、ほんとうにきびしいものです、そして、これこそ社会的生活よりもはるかに深刻に過激に、憎悪を、絶対的な妥協のない敵対関係を生じさせる可能性を宿しているのです」

そんなことをセテムブリーニは言っているけれど、時代もそれに巻き込まれる人々も、まさにそういう状態に追いやられてしまう。


最終的に物語は、ハンスが戦場に突入するところで終わる。

著者の意図はともかく、その中に、僕は理性的な行動と思想の限界を見る思いがした。
「死に従属させないように」あろうとしても、それを突きつめようとする理性は、とかくもろい。

しかし本書は、それでもヒューマニティある思想を希求する予感も感じられるのだ。
それが少し心に残ってならない。


長すぎる作品だとは思う。
しかしその長さに見合う長大な思考と思想を本書は展開していて忘れがたい。
まさに大作、そう呼ぶに足る一品であろう。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのトーマス・マン作品感想
 『トニオ・クレエゲル』(岩波文庫)
 『トーニオ・クレーガー 他一篇』(河出文庫)
 『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』(新潮文庫)

『八月の光』 ウィリアム・フォークナー

2012-12-28 20:30:59 | 小説(海外作家)

臨月の田舎娘リーナ・グローヴが自分を置去りにした男を求めてやってきた南部の町ジェファスン。そこでは白い肌の中に黒い血が流れているという噂の中で育ち、「自分が何者かわからぬ」悲劇を生きた男ジョー・クリスマスがリンチを受けて殺される――素朴で健康な娘と、南部の因習と偏見に反逆して自滅する男を交互に描き、現代における人間の疎外と孤立を扱った象徴的な作品である。
加島祥造 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




過去に挫折した本を読み返してみようと思い立ち、手に取ったのが本書である。もちろん理由は、読んでいた当時がまさにクリスマスシーズンだったからだ。

それはそれとして、正直読む前は、読了できるか不安だったのだが、普通におもしろかったのでほっとしている。
ストーリーラインは波乱万丈で、内容も深く、読み応えもあるのだ。

挫折したままにしなくて良かったな、と心から思えるような作品であった。


『八月の光』のストーリーは、大きく二つに分かれる。
一つはリーナ・グローヴという妊婦をメインにしたお話で、自分を妊娠させた男を追って、彼女ははるばる旅を続けている。
もう一方は、黒人と白人の混血児(?)ジョー・クリスマスがメインで、彼の破滅的な一生が描かれている。
そのほかに妻が不貞を働いたために牧師を辞任したハイタワーの話も挿入されるが、メインストリームはその二つだろう。

そしてその二つのお話は、明と暗に分かれてもいる。
具体的には、前者が明で、後者が暗だ。


主人公の一人、ジョー・クリスマスは先にも触れたように白人と黒人の混血児であるらしい。
しかし実のところ、クリスマスに実際黒人の血が流れているのか、誰にもちゃんとしたことはわかっていない。クリスマス自身もしっかりとわかってないし、彼の祖父にも確証はない。
しかし彼は、黒人の混血児である可能性もあるがゆえ、孤児院に追いやられている。

そこには、黒人に対するレイシズムが激しい南部の気風も反映しているだろう。
南部の人たちは、クリスマスが黒人と知るや否や露骨に態度を変えている。それだけでその土地の差別の根深さがわかるというものだ。

そういうこともあってか、クリスマスは幼いころから、黒人であるかもしれない、という理由で憎まれることとなる。
そしてそれが積もり積もった末に、彼は、憎まれることに、自分自身のアイデンティティを見出しているきらいがあるのだ。

たとえば、彼は露悪的とも見えるほど、黒人であることをアピールするときがある。
そんなことをすれば、当然南部の人間は怒るのだが、わざと相手を怒らせているようにしか見えないのだ。
だがそれが通用するのは南部だけで、北部の女には、それが通用しない。そのせいか、北部の女が自分を憎まなかったときには、相手に対してぶち切れているくらいなのだ。
そんな姿を見ていると、クリスマスは憎まれることを通して、自分自身の存在を確認しているように見えなくもない。

「人は自分の生れた土地によって鍛えられたように行動するものだ」っていう言葉が出てくるけれど、そんな屈折したクリスマスの態度は南部が産んだ賜物と言えなくもない。
現代の日本に住む身からすると、なかなかわかりにくい心理だが、そういう心理が生まれうる素地が当時はあったのだろう。


しかしそんなクリスマスだが、実のところ、自分に黒人の血が流れているということを、彼ははっきりと認めきれずにもいるのだ。

象徴的なのは、ジョアナ・バーデンに対しての態度だ。
彼女はクリスマスに対して、大学に入るためにも、黒人であることを認めろと言っている。
けれど、彼はそのことに対して明確に反発している。

それは彼を縛ろうとする女に対する反発もあろう。
だが同時に、自分のアイデンティティを明確にすることを拒否しているようにも見える。

彼は白人の世界にも入り込めず、黒人の世界にも入り込めない。そしてどちらの側にも属せないままだ。
その挙句、彼は自分の義母やバーデンが示した親切に対して反発することしかできなくなっている。
そしてそんな屈折した心理が、最終的にはクリスマスに破滅的な行動へと突き進ませることとなったのだろう。
それはもう、悲劇としか言いようがない。


そしてそんなクリスマスの悲劇は、リーナの物語とは明確な対照を成しているのだ。

リーナ・グローヴはきわめて愛らしいキャラである。
たぶんこの作品を読む人は、リーナのことを必ず好きになるだろう。

実際作中でも、みんなリーナのことを心配して、親切を焼いてくれる。
彼女もそれをすなおに受け取っている。
そしてその素直さこそが、彼女が周りから親切を受ける要因にもなっている。

彼女は実際多くのことを虚心に、あるがままに受け入れている。ある意味、無邪気とも言えなくもない。
ルーカス・バーチ(ブラウン)をわりに純粋に信じている(ように見える)ところなどはそんな感じがする。

それに最終章で、バイロンが何を望んでいるかを見通して、当たり前のように待っているところなども、あるがままを受け入れようとする彼女のパーソナリティをあらわしていて忘れがたい(ついでに言うと、この章のバイロンがヘタレすぎて笑えた)。

一番最後のセリフなどは典型的で、あるがままに世界を受け止め、世界を見つめる姿はあまりに印象深い
そしてそんな彼女の姿を見ていると、人はとんでもなく自由な存在なのではないか、と思えてくるのだ。

それは、自分の帰属意識にからめ取られ破滅していくクリスマスと大きく異なっている。
そこにあるのは、自由と素直さがもたらす、まばゆいまでの明るさだ。
そしてその明るさこそが、この作品の大いなる答えでもあるのかもしれない。


ともあれ、リーナが放つ光に照らされ、この作品はことのほか、美しいものとなっていた。
南部の暗部を丁寧にあぶり出し、それに対する一回答を明るく照射していて、見事である。

再挑戦して良かったと心から思えるような、すてきな作品であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのウィリアム・フォークナー作品感想
 『サンクチュアリ』

『ウォーターランド』 グレアム・スウィフト

2012-12-27 20:44:36 | 小説(海外作家)

妻が引き起こした嬰児誘拐事件によって退職を迫られている歴史教師が、生徒たちに、生まれ故郷フェンズについて語りはじめる。イングランド東部のこの沼沢地に刻まれた人と水との闘いの歴史、父方・母方の祖先のこと、少女だった妻との見境ない恋、その思いがけない波紋……。地霊にみちた水郷を舞台に、人間の精神の地下風景を圧倒的筆力で描き出す、ブッカー賞受賞作家の最高傑作。
真野泰 訳
出版社:新潮社(新潮クレストブックス)




人がこの作品についてどう言うかは知らないけれど、読んでいる最中、僕は『百年の孤独』『精霊たちの家』といったマジックリアリズムの作品群を思い浮かべた。

それは本作が、フェンズという土地を舞台に、一族の歴史について語っているからだろう。
加えて、セアラの火事の予言や、戴冠記念エールに関する騒動などは、マジックの雰囲気が強く感じられる。
そういった部分に、先述の二作品と共通する点を見つけてきわめて興味深い。

だが本作は『百年の孤独』以上に、そのエピソードの時系列はてんでバラバラに配置されている。
現代に戻ったかと思えば、すぐに語り手の少年時代に飛び、今度は語り手の一世代前に戻っていく。

だから正直混乱しながら読んだことは否定しない。
バラバラのピースを頭の中で整理しながら読む分、大量の知恵熱を使い、すっかり疲れてしまう。

しかし読み進み、徐々に全体像が見えてくるにつれ、その構造の大きさに否応なく気づかされるのだ。そしてその構図のでかさにただただ圧倒されてしまう。
これだけ構えの大きな作品も、そうはないだろう。


本作は、妻が幼児誘拐事件を起こしたために職を追われてしまう歴史教師のトム・クリックを語り手にしており、彼が生徒たちに向かって、むかしの話をするというスタイルを(一応)取っている。

その中で語られるエピソードはどれもおもしろいものばかり。
トムの母方の先祖であるアトキンソン家の栄枯盛衰の物語は波乱万丈で楽しいし、後にトムの妻となるマリアとの関係も思春期特有のもやっとした部分があって心に残る。
フレディ・パーの殺人事件や、トムの母ヘレンと祖父アーネストとの妖しい関係も物語として普通におもしろい。
そして知恵遅れの兄ディックの存在も、忘れがたい。


しかしそういった単品のエピソード以上に大事なのは、語り手であるトムが一族の歴史を語る理由にあるのだ。
平たく言うなら、彼はそうすることで、妻が誘拐事件を起こした真相をさかのぼって考えてみようとしているのだ。

そしてそれこそ、歴史という学問の概念にも結びついてくる点が、きわめてユニークだ。
つまりは、起こった事実に対する〈なぜ〉という探索と、それを〈説明〉すること、それが歴史というものを扱う際のスタイルだからである。


彼は歴史教師らしく、そんな歴史を扱うプロセスで、事件が起こった要因を把握しようとしている。

〈いま、ここ〉にいる自分は「〈時〉に捕らえられた囚われの身である」と考える彼は、いま自分に起きている不幸の結果は、過去の歴史的経緯によるものではないかと考えている節があるのだ。
だからこそ歴史を追うことで、彼は真実に迫ろうとしている。

しかし、歴史というのは「意味のつかみどり」でしかなく、事実の見方は、必ずしも「ひとつではない」。
歴史的な一つの事実は、人の見方によって恣意的に左右されざるをえないのだ。
自分の身に起きた不幸の因果関係を追ってみたところで、それが必ずしも、妻が事件を起こした真実に迫れる保証はない。

だがそれでも、彼が歴史的アプローチで一族の来し方を語るのは、自分の身に起こった不幸に、意味を求めていたいからなのだろう。
なぜ妻は誘拐事件を起こしたのか、なぜ兄はああなったのか。
そういった事件に、何かしらの意味を与えていくことで、「恐怖を撃退」したいのである。

あるいは自分の不幸は、因果関係によるものだと言い聞かせることで、彼は、理不尽という心をうちのめす現実から、心を守りたいのかもしれない。
そしてそれは人というものの弱さなのだろう。


ともあれ、やがて見えてくる誘拐事件に至るまでの複雑な因果関係に、読みながら圧倒されてしまった。
血縁の宿命と、ある種の狂気が織りなす悲劇に、読み終えた後、呆然とせざるをえない。

しかし一番かわいそうなのはディックだよな、とつくづく思ってしまう。
多くは語らないけれど、最後の場面に、僕は深い憐れみを覚える。
しかしそれを含めて、見事な作品であろう。

読みづらいことは確かだが、すべて読破した後に見える光景の大きさには心底感服した。
すごい小説を読んだものだ、と読後すなおに思えた一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『わたしは英国王に給仕した』 ボフミル・フラバル

2012-12-10 21:05:49 | 小説(海外作家)

中欧文学巨匠の奇想天外な語りが炸裂する、滑稽でシュールな大傑作。給仕人から百万長者に出世した主人公の波瀾の人生を、ナチス占領から共産主義へと移行するチェコを舞台に描く。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅲ-01
阿部賢一 訳
出版社:河出書房新社




本書の内容を一言で表すなら、プラハのホテルで給仕を勤めてきた男の一代記ということになろうか。

そんな「わたし」が遭遇するエピソードは、どれもなかなかおもしろい。
そしてそのおもしろさを支えるのは、ユーモアにあるのではないか、と僕は思う。


最初の章で言うならば、セールスマンの話なんかがおもしろい。
太ったセールスマンが小銭をばら撒いた後、セールスの話をする場面や、〈プリマヴェーラ〉がらみの話なんかは、読んでいる間にやにやさせられた。
そのほかにも、例えば、「黄金の都プラハ」のオーナーと奥さんの話や、ホテル・チホタのやたら笛を吹く車椅子のオーナーの話も、キャラクターに存在感があり、行動が少し変わっているあたりが良い。

そこに登場するのは、どこかずれた人ばかりだ。
それだけに読んでいると楽しい気分になれる。


そんな多くのキャラクターとエピソードの中で、ことに印象的なのは、ホテル・パリの給仕長スクシーヴァネクだろう。

彼は客を見れば、それがどんな人か、何を望んでいるかわかるという特殊な観察力の持ち主だ。
なぜすぐにわかってしまうのか、「わたし」は彼に尋ねてみるのだが、彼は、「わたしは英国王に給仕したことがあるからだよ」としか答えてくれない。
もちろん、それは何の答えにもなっていない。
でもそれですべての質問に答えようとしているところが、ただただおかしいのだ。
そしてその答えはスクシーヴァネクの一生の誇りでもあるのだろう。

そしてその言葉は、「小さな国の小さな男」である、「わたし」の心にも影響を与える。
後に「わたし」はエチオピア皇帝に給仕することになるのだが、そのことを誇りに感じて、スクシーヴァネクのように何かにつけてそのことを誇示するようになる。
そしてその誇示こそが、「わたし」という男の、ある種の弱さの表れとも見えてならない。


「小さな国の小さな男」である「わたし」は、承認欲求がそれなりに強そうに見える。
元々駅の売り子からスタートした彼は、上昇志向も強く、ホテルのオーナーになることを夢見ている。
そしてそうなれば、これまで見向きもされなかった給仕の自分も、認められるのでは、と多少なりとも思っている節が見られるのだ。

そしてそれは小さな男である彼のコンプレックスでもあるのだろう。


そんな彼の人生は、物語の中盤から急展開する。
というか、作品そのもののトーンも変わってしまっていると言った方がいい。

その辺りからナチスが台頭するようになるのだが、「わたし」はナチスに協力する女性リーザと親しくなる。
プラハの愛国者たちは、ナチスというだけで、極端に反発する人が多い。だからナチスと親しくなる「わたし」に対して、みんなは冷たい態度を取るようになる。
だが「わたし」はそれでもリーザと結婚しようとする。

「わたし」はその後、自分がアーリア人の女性と結婚するにふさわしいことを証明するために、ナチスの医師に性器を診断され、精液を提出することになる。
おりしも時は、多くのチェコ人が処刑されているころである。そんな中で「わたし」がしていることと言えば、他人の目の前で自慰をする(しかもなかなかイケない)ことなのだ。

それは、彼も言うように、「グロテスクな喜劇」にほかならないだろう。
見ようによってはとっても滑稽なのに、あまりにゆがんでいて笑えそうにもない。
しかしそれだけに、ある種の痛ましさが行間からは漂っているように思えてならない。


しかもそれだけのみじめなことをしても、チェコ人である「わたし」はナチスの人間からは決して受け入れられることはないのだ。
その後、「わたし」はホテルのオーナーになるけれど、給仕であったころと同じくオーナー仲間からも疎外されてしまう。
また戦後の共産党政権下では、ナチス協力の罪や資本家であることを理由に、罰を受けなければいけないはずだったのに、反ナチス運動に身を投じた元同僚の差し金で、「わたし」は罪にすら問われず、黙殺されるばかりなのだ。

「わたし」の尊敬されたいという承認欲求はあくまで満たされず、一人の男としてすら無視される。非常にみじめな話だ。


「わたし」はその後辺境に赴き、一人で道路補修工事を行なうこととなる。
そこで独りで暮らすことで、ようやくいろんなことから解放されていく。

「わたし」は隠遁することで、人生について達観し、ようやく楽になれたように感じられる。
それを救いと見るべきかはわからないけれど、彼は少なくとも自分の人生を受け入れられたのだろう。

ともあれ、想像力に富んだ一代記である。
僕の趣味ではなかったが、いろいろと心に残る一品である。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかの『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』作品感想
 Ⅰ-02 マリオ・バルガス=リョサ『楽園への道』
 Ⅰ-05 ミハイル・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』
 Ⅰ-06 残雪『暗夜』
 Ⅰ-06 バオ・ニン『戦争の悲しみ』
 Ⅰ-11 J・M・クッツェー『鉄の時代』
 Ⅱ-02 フランツ・カフカ『失踪者』
 Ⅱ-02 クリスタ・ヴォルフ『カッサンドラ』
 Ⅱ-04 メアリー・マッカーシー『アメリカの鳥』
 Ⅱ-07 イサベル・アジェンデ『精霊たちの家』

『グランド・ブルテーシュ奇譚』 オノレ・ド・バルザック

2012-09-19 21:35:24 | 小説(海外作家)

妻の不貞に気づいた貴族の起こす猟奇的な事件を描いた表題作、黄金に取り憑かれた男の生涯を追う「ファチーノ・カーネ」、旅先で意気投合した男の遺品を恋人に届ける「ことづて」など、創作の才が横溢する短編集。ひとつひとつの物語が光源となって人間社会を照らし出す。
宮下史朗 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




個人的な趣味で言うと、表題作以外はいまひとつの作品集だった。

バルザックは『知られざる傑作』しか読んだことがないけど、そちらもピンとこなかったように記憶している。
ことによると、バルザックは僕と合わない作家かもしれない。


表題作以外の各作品の感想を書くなら、以下のようになろう。

『ことづて』は、部分的に見られた辛らつな口調はおもしろかったが、通俗的な話で、どうもおもしろみに欠ける。
『ファチーノ・カーネ』は、黄金を夢想する人間の欲望の強さが感じられ興味深いけど、ドラマチックすぎて、突飛とさえ映る。
『マダム・フェルミアーニ』は、多視点を駆使する必然性が見えないし、説明口調や、父の罪のとってつけた感が引っかかる。
『書籍業の現状について』は、バルザックがこの論文を書いた理由はわかるけれど、興味を引く内容ではない。

自分で言うのもなんだが、ネガティブな印象ばかりだ。


しかし表題作の『グランド・ブルテーシュ奇譚』は実にすばらしい作品なのだ。
いや、実にこわい話なのだ、という方が適切だろう。

そこで描き出されるのは、ただひたすら相手を憎む男の姿だ。
メレ氏は元々短気で、ことによるとそれが原因かもしれないが、妻は夫を裏切っている。
そして妻の裏切りを知った男は、極端としか思えないようなある行動に打って出る。

それを読んでいると、相手を責める理由をもった人間は、ときとして利己的とすら思えないほど、ひたすら残虐になれるのだ、と気づかされる。
そこに憎しみや復讐といった、動機付けとなりうる要素があるのなら、それは一層顕著になるらしい。

メレ氏の姿から見えるのは、人間の冷たさだ。
そしてそんなメレ氏的な心理は、たとえば世界中の紛争地域などで当たり前のように見られる光景でもある。
憎しみや復讐という理由さえあれば、人はどこまでも残酷になれる。

『グランド・ブルテーシュ奇譚』は、そんな気が滅入るような人間の醜さを、物語の形で昇華した佳品と思った次第だ。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『闇の奥』 ジョゼフ・コンラッド

2012-09-05 21:33:03 | 小説(海外作家)

船乗りマーロウはかつて、象牙交易で絶大な権力を握る人物クルツを救出するため、アフリカの奥地へ河を遡る旅に出た。募るクルツへの興味、森に潜む黒人たちとの遭遇、底知れぬ力を秘め沈黙する密林。ついに対面したクルツの最期の言葉と、そこでマーロウが発見した真実とは。
黒原敏行 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




『闇の奥』を最初に読んだきっかけは、村上春樹の小説(どれかは忘れた)に本書が登場したからだった。
当時の僕には難しすぎたのか、そのときはあまり感銘を受けなかったように記憶してる。
それから十年以上ぶりに読み返してみたが、思った以上におもしろかったので安心する。

おもしろいと思ったのは訳のおかげかもしれないが、物事の見方が変わってきたのも影響していよう。
具体的には、他者をどのように受け止め、認識するかという点だ。

僕は『闇の奥』を、自己防衛と認識に関する作品、と受け取ったのだが(もちろん誤読である)、上記の変化が、この小説に対する印象も変化させたように思う。



『闇の奥』の世界は十九世紀末である。
船乗りのマーロウはベルギーの植民地であるコンゴに入るが、その土地に住まう現地人の風習は、白人には理解の及ぶものではない。人肉をも好むあたりは典型だろう。

おかげで、白人側は現地人の生活習慣を理解しようという気持ちにすらならない始末。
逆に、アフリカ大陸に入植する理由として、「無知蒙昧な人たちを忌まわしい風習から引き離すため」、と言う人がいるくらいで、むしろその生活習慣を改善させるべきだと考えている。
いかにも白人至上主義らしい視点だ。

だが、白人は現地人を低く見ているけれど、文明を持っているという以外で、現地人より優れていると断言できる部分はどれだけあるのだろうか。



マーロウはほかの白人と違い、現地人に対する視点はニュートラルである。
むしろ彼は、文明人がとかく糊塗したがる人間の本質的な部分を、現地人を通して見ているように見える。
平たく言うならば、それは人間が、デフォルトで持っている獣性とも衝動とも言うべき、理性で抑えられないものなのだろう。この作品では、「闇」というメタファーで語られるものだ。

そしてそんなものにマーロウはとかく惹かれている。
「不可解なものは厭わしいもの」と彼は言っているが、「忌まわしきものの魅力」もそこには認めている。

そんな風に彼が感じるのは、それが理解できないからなのかもしれない。
わからないからこそ、理性で見えづらくなっているものに惹かれるのだ。
と同時に、それが人間誰しも持っているものだから、ということも大きいと思う。

現地人のことを「俺たちと同じように人間だと考える」とき、彼はぞっとすると言っている。
彼らが差別する現地人と、自分が大差ない、と考えるのはやはりそれなりにこわいらしい。
そういう点彼も、衝動や本能ではなく、理性でとかく物事を判断したがる白人の一人ということなのだろう。

だけど、マーロウはそれが忌まわしいものであろうと、それが人間の真実であるなら、それに肉薄したい人であるらしい。
言うなればそれは、自己認識、ひいては人間に対する認識を広げようとする、マーロウなりのチャレンジなのかもしれない。そんなことを思ってしまう。



だけど人は、そんな忌まわしいものに耐えられるとは限らない。その良い例がクルツだ。

クルツは森の中に住み、現地人と交流し、象牙交易で成果を上げている。
その過程で、白人として生きている自分の中にも品行方正とばかりはいられない、理性では片づけられない、深い闇があることに気付き、向き合っていく。

それは見ようによっては、とっても誠実な行為だ。
自分自身をしっかりつかみ、理性や何やらでごまかさないでいる。そこには偽善めいたものはなく、それがどこか好ましくもある。

だけど自分自身の醜い部分を、人はいつまでも見つめられるものではない。

脳の中には、自己防衛機能がある。
脳はとかく言い訳をしたがる、とよく言われるけれど、そうでもしなければ、自我を平静に保つことができないからだ。

クルツがしていることは、そんな脳の防衛機能を押さえつけているに等しい、と思う。
もちろん押さえつけているのは、理性の力だ。そういう点、彼はどこまでも白人的でしかないのだろう。
そして自己防衛をはばんでいるという時点で、それが敗北を前提にした戦いであることは明白なのだ。そんなものに人間の心は耐えられるわけがない。

そこまでして、人は自己認識を行なう必要性があるのだろうか。



最後の場面で、マーロウはクルツの婚約者に会い、クルツの最後を告げようとする。
だが彼の婚約者は、クルツに対して現実とはかけ離れた美しい認識を持っていた。
そのため、マーロウはクルツの真実を告げず、彼女の思いこみを尊重する。

たぶん彼女にとって、真実を話したところで、理解すらできなかっただろう。
しかしそんな思い込みが「闇の中でこの世のものとは思えない光を輝かせて人を救う」こともありうる。
少なくとも彼女の思い込みは、彼女の世界を救っているのだ。

そしてそれと同時に、他者が己に対して見る認識が、その程度のことでしかないと言っているように見える。
どれだけ自分が誠実に闇をのぞきこみ、心がズタズタになっても、他者の認識は変わらない。

結局、自己認識とは、自己満足のものであり、それを自分がどう受け入れるかという問題になってくる。そんな風に見えなくもない。


人は誠実でばかりいられるわけではない。ときにはごまかしながらも生きている。
そしてそれが人間のありのままの姿かもしれない。
そんな誤読たっぷりなことを読み終えた後に感じた次第だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』 ジョナサン・サフラン・フォア

2012-08-28 23:39:10 | 小説(海外作家)

「パパがどんなふうに死んだか知る必要があるんだ」「なぜ?」「そしたらどんな死に方をしたか発明しなくてもよくなるから」9.11の物語。世界的ベストセラー待望の邦訳。
近藤隆文 訳
出版社:NHK出版




映画版が個人的に好みだったので、原作も手にとってみた。

映画の方では、父親を911で亡くした少年オスカーの話をメインに、父親との絡みをもう少し増やしていた気がする。
だが原作の方では、父親はあくまで後景であり、ひたすら少年の心の苦しみにアプローチしているように見えた。

そしてドレスデン爆撃を生き延びた少年の祖父母の人生も並行して語ることで、親しい人が亡くなるという事実を描き上げている。


この作品は語り口が特徴的だ。

オスカーの饒舌的な口語体や、祖母のスペースの空いた文章、祖父の心理を丹念につづった文章などは、いかにもクセが強い。
グラフィックに関する部分はおもしろいけれど、正直彼らの語る文体は肌に合わなかった。

相性と言われれば、それまでだけど、文章のクセの強さが気になり、物語に入りこめなかったきらいがある。
それが個人的には残念でならない。


と語りはともかくとしても、主人公のオスカー自体は非常におもしろい子どもと感じる。
基本的に理屈っぽいところがあって、アスペルガー症候群ではって思うほどに、エキセントリックで個性的だ。
父親の葬儀で運転手にジョークを飛ばすところなんかはその傾向が強い。

しかしオスカーの文章は、軽口をたたきながらも、どこか切羽詰まっているのだ。
エレベーターに乗るとパニクってしまうってところや、最悪な死に方について常に発明(想像)してしまうあたり、彼の心のもろさが透けて見えるかのようだ。
そしてそれこそ、父が死んだことに対するオスカーのショックの強さを表しているのだろう。

特に父親の死体が入っていない空っぽの棺桶に対する抵抗は、オスカーの割り切れなさを如実に伝えている。
その結果として、無理解もあったとは言え、母親を責めてしまう流れが悲しい。
だが愛する者を失うということはそういうことでもあるのかもしれない。

傷ついた人間が、傷ついている真っ只中にいるときは、自分のみならず他者をも無意識に傷つけてしまうこともある。


そしてそれはオスカーの祖父母だって変わらないのだ。

オスカーの祖父はドレスデン爆撃で愛する女アンナを失くす。
個人的にはオスカーの話より、祖父とアンナの恋物語と喪失の話の方がおもしろい。
それは彼の心理が失語症になる点も含めわかりやすいからだろう。そしてそこにある絶望に僕が共感しやすいからというのもある。

けれどその絶望の深さは、オスカーもオスカーの祖父も同じく深刻なのだ。
彼らには明らかに助けが要る。


そしてそんなとき、救いとなるのは結局のところ、人とのつながり、というシンプルなものでしかないのだろう。
オスカーが母に見守られていることに気づいたように、祖父母が再び暮らし始めたように、人は傷ついてしまうからこそ、何かと結びつかなければいけないのかもしれない。


結果的に個人的な趣味の作品ではなかったのだが、いろいろ印象に残る作品でもあった。
個性の良く出た、ユニークな作品である。

評価:★★(満点は★★★★★)

『アウルクリーク橋の出来事/豹の眼』 アンブローズ・ビアス

2012-05-27 21:44:49 | 小説(海外作家)

ある男が橋の上で絞首刑になろうとしていた。足元の板が外され川に落ちた彼が、敵の銃弾を逃れてたどり着いたのは……「アウルクリーク橋の出来事」。森に住む女が恋人からの求婚を頑なに拒んだ理由とは……「豹の眼」。ひたすら「死」を描き続けた短篇の名手ビアスの14篇。
小川高義 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




無知なので、世間的にビアスという作家がどのように見なされているのかは知らない。
ひたすら「死」を描き続けた短篇の名手、と裏表紙にあるから、それが一般的な見方なのかもしれない。

ただ本作を読む限り、ビアスはホラー小説を書く人だという印象を受けた。
もちろん解説にもある通り、「人をこわがらせるだけのホラー小説ではない」ことは同意するけれど、率直な僕の感想はその一語に尽きる。


『幽霊なるもの』なんかは、タイトルにもある通り、幽霊が登場する。
その中の「首縊りの立会人」や「逮捕」などは、怪談でよく見るような典型的な因縁話だ。
もちろんそれが良いわけだが、そんなまさにホラーといった感じが印象深い。

また幽霊話でなくても、ホラー性を感じさせる作品も多い。
『チカモーガの戦い』に、幽霊は登場しない。
しかし敗残兵のリアリスティックで、グロテスクな描写は、読んでいるだけで恐ろしくなる。
この異様な雰囲気は、まさしくホラーだ。その描写の力強さには圧倒される
あとこの作品は、オチが秀逸だったのも忘れがたい。


さて、本作の中で特にすばらしかったのは、表題作の『アウルクリーク橋の出来事』だ。

はっきり言って、このオチは現代から見れば、ベタだ。
しかし本作の良い点は、衝撃的なオチでした、ってだけでは終わらない点にある。

この物語の展開の中には、処刑直前に、死刑囚が夢見る心象のすべてが注ぎ込まれている。そんな風に感じられるところが何よりも良い。
最後まで読み終えた後には、生に対する希望と、幸福に対する男の希求が感じられ、強いインパクトを残した。


そのほかにも、本作にはすてきな作品が多い。

恩人に対してそういう接し方しかできなかった状況と、一人の軍人の生き様が哀れに感じられる、『良心の物語』。
オチにぞわりとさせられる、『夏の一夜』。
妻の歯の間にふくまれていた豹の耳の一片に、妻の思いが見えるのだけど、同時に寒気も覚えてしまう、『板張りの窓』。
周囲が騒ぐわりに当人は日常を続けている風景がどこかおもしろい、『シロップの壺』。
ポーを思わせるネコの姿が印象的な、『ジョン・モートンソンの葬儀』。
戦場で無謀な行動を続けるブレイルの心情が悲しく、女性の無自覚な行動に、皮肉めいたものを見出す、『レサカにて戦死』。
見ようによってはディケンズ風だけど、最後がこの作者らしくて心に残る、『幼い放浪者』。
などなど、どれも粒ぞろい。

またところどころに挿入された、『悪魔の辞典』からの引用もおもしろかった。
収録分では以下の2つが好きだ。
忍耐
 軽度の絶望。
 美徳らしき体裁をとる。

殺人
 ある人間が別の人間を殺すこと。
 四つに分けられる
 ――許しがたい、仕方ない、納得できる、誉めてよい。
 どう殺されようと殺される者には大差ないが、
 分けておけば弁護士の役に立つ。


ビアスはほとんど知らない作家だったが、ポー、O・ヘンリーサキといった英語圏のほかの短篇作家と同様、個性的なきらめきがあって、なかなかおもしろかった。
短篇の楽しみを味わえる、ホラーテイスト豊かな、優れた一冊である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『観光』 ラッタウット・ラープチャルーンサップ

2012-05-20 19:10:43 | 小説(海外作家)

美しい海辺のリゾートへ旅行に出かけた失明間近の母とその息子。遠方の大学への入学を控えた息子の心には、さまざまな思いが去来する―なにげない心の交流が胸を打つ表題作をはじめ、11歳の少年がいかがわしい酒場で大人の世界を垣間見る「カフェ・ラブリーで」、闘鶏に負けつづける父を見つめる娘を描く「闘鶏師」など全7篇を収録。人生の切ない断片を温かいまなざしでつづる、タイ系アメリカ人作家による傑作短篇集。
古屋美登里 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)




いかにも文学的な、しかしとても繊細な小説群だ。
南国の熱気あふれる風景を描きながら、それとは裏腹のナイーブな感性に惚れ惚れとする。
すばらしい短編集と断言していいだろう。


まず冒頭の『ガイジン』からして、すてきだ。

タイは観光地として有名なわけで、そこには多くのガイジンたちが来る。
本作は、そんなガイジンたちをタイ人の視線から描いていておもしろい。

観光用に象を乗せる店の看板や、ココナツの木に登る主人公を見ていると、ガイジンたちがタイという国に望むのは、結局のところエキゾチシズムなのだ、と気づかされる。
現地の人間は、そんなガイジンたちが喜ぶようなことをし、欲求を満たしているわけだが、同時にそれが、うすっぺらい情緒でしかないことも見透かしているのだ。
そのどこか醒めた視点が良い。

主人公である「ぼく」と関係を持つ観光客も、異国でのアバンチュールを堪能したいだけで、深い関係を望んでいるわけではない。
彼らガイジンが、現地の人と結ぶのは、あくまで表層的な関係だ。

その結果、タイ人たちはガイジンに対して、相手の心に届かないというわびしさと、憎しみにも似た違和感を覚える。
その繊細な感情の機微を静かに描いており、一読忘れがたいものがある。見事な一品だ。



個人的には『プリシラ』が一番好きかもしれない。
カンボジア移民の少女と、少年たちの交流を描いた作品だがこれがまたいい。

この作品内で、カンボジア難民は、タイの下層階級からは目の敵にされている。
それは自分たちの生活の不満を、難民のせいにしたいからであり、不満を差別という形でぶつけたいからだろう。
しかし「ぼく」とドンのような子どもたちは、そういう不満とは無縁で、難民たちとケンカをすることもあるし、仲良くなることだってある。

そうして「ぼく」たちとプリシラとが仲良くなっていく過程が非常にすてきだ。
そこで描かれているのは、何気ない風景ばかり。けれど、そういった些細な描写を積み重ねることで、少年と少女との間に、友情めいたものが生まれる様子が伝わってくる。
その展開が、大変さわやかでさえある。

とは言え、大人たちは子どもと違い、難民に対して排他的に接する。
実際、大人たちが鼠の発生を難民にせいにしているところを、「ぼく」は聞かされたりもする。子どもに言うことじゃないよな、と思うけれど、これもまた一つの現実だ。

それに対して、「ぼく」が心の中でその偏見を否定する。その場面がなかなか良かった。
そこからは「ぼく」のカンボジア難民に対する愛着が見えるし、声を出して言えないというところには、子どもゆえの無力さも見えて、ぐっと胸に迫る。
そしてその無力さがラストの展開にも、つながるのだろう。

プリシラは、「ぼく」たちと別れるに際し、自分の金の歯をあげようとする。
それは文字通り、むちゃくちゃ痛い場面だ。だけどプリシラにとっては、それほどの苦痛をもってしても、「ぼく」に対して何かをしたかった。
これほどの明確な友情表現を、人はそうそうできるものではない。
それだけに、僕は読んでいてただただ感動するばかりだった。



そのほかにもすてきな作品が多い。

弟思いの優しい兄の態度と、兄が女と二階に行くときの不安そうな弟の姿が印象的な、『カフェ・ラヴリーで』。
不正を行なったがゆえ、友人に対して罪悪感を抱く過程を、丁寧に描いていてすばらしい、『徴兵の日』。
家を出たいと考えながら母のために家に残ろうとする息子の思いと、それを諭す母親の心情が胸に響く、『観光』。
一見気難しい老人が、異国の嫁と孫たちにシンパシーを抱き、息子たち家族を立派だと思うようになる様を、繊細に描いていて感動的な、『こんなところで死にたくない。
世の理不尽をカタルシス的な展開を排除して、徹底的に描いており、その苛烈さが切なくもあり忘れがたい、『闘鶏師』。

と、どれも粒ぞろい。

とにもかくにもハイレベルな作品集と思った次第だ。
現在著者は行方不明らしいが、ぜひともこの人の次作も読んでみたい。そう思わせるだけの力を持った一冊である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『ガープの世界』ジョン・アーヴィング

2012-05-16 21:05:07 | 小説(海外作家)

看護婦ジェニーは重体の兵士と「欲望」抜きのセックスをして子供をつくった。子供の名はT・S・ガープ。やがて成長したガープは、ふとしたきっかけで作家を志す。文章修業のため母ジェニーと赴いたウィーンで、ガープは小説の、母は自伝の執筆に励む。帰国後、ジェニーの書いた『性の容疑者』はベストセラーになるのだが――。現代アメリカ文学の輝ける旗手アーヴィングの自伝的長編。




『ガープの世界』をはじめて読んだのは学生のころで、そのときはこの作品をまったく楽しめず、挫折したものだった。
今回10年以上ぶりに読み返してみたのだけど、なぜ当時の僕がこの作品をつまらない、と思ったのか、理解に苦しんでしまう。

なぜなら『ガープの世界』は、ともかく楽しい作品だったからだ。
次々と生じるエピソードとその物語の力強さで、ぐいぐいと読み手を引っ張っていく。
小説と言うよりも物語という言葉が適切な、お話そのものの魅力が前面に出たような作品なのだ。


欲望というものを否定する看護婦ジェニーが、脳に損傷を負った砲撃主と、欲望抜きでセックスすることで子供をもうける。そのときにできた男、T・S・ガープの誕生、成長、作家としての成功、死までを描いた一代記。
『ガープの世界』を端的にまとめるなら、そうなるだろうか。


当然長い話になるわけだが、そこで登場するキャラがどれも個性的で目を引く。

まずガープの母親ジェニーがおもしろい。
冒頭のガープ軍曹とセックスする流れもおもしろいし、女性運動の象徴として担ぎ上げられるその個性もおもしろかった。ウィーンで娼婦に欲望について尋ねるシーンなんか、息子としてはたまったものではないな、って思ってしまう。

もちろんガープに関するエピソードもおもしろい。
子供に対する過剰な心配や、欲望にふり回されてベビーシッターなどと関係を持ったりする心情、エレン・ジェイムズ党員に対する過剰な怒りなどは彼の性格をよく現している。
また、ガープの小説に対する考え方などは本好きとしてはなかなかおもしろい。

エピソードも個性的なキャラクターに負けず劣らず特徴的で、物語としても楽しいのが良い。


さて本作には、その長い作品に見合って、いくつかのテーマがある。
親子関係、夫婦関係、政治的な側面、風刺性、など、いろいろそこに見出す人はいよう。

その中で個人的に気になったテーマは、セックスである。
性交という意味合いと、性差と意味合いにおいてのセックスだ。

たとえばガープをはじめ、不倫に走る人物は本書にはいくつか見られるし、ガープがジョギング中につかまえた男のように、女性に対して強姦を行なう男もいる。エレン・ジェイムズのようにレイプの被害者だって登場する。
それらのファクターが示すのは、男性性の悪しき側面でもあるのだろう。
ジェニーが言っているように、欲望が男を卑しくするわけで、ある意味それは、男の宿業なのかもしれない。

だが、それに対する女性性の行動の中にも、エレン・ジェイムズ党員のように、極端な論旨に走る人たちもいるのだ。
どちらもそれぞれ問題があり、対立構造に持ち込むことは建設的でもなく、意味もない。

だがそれらは、性欲と性差が生んだ、醜く、滑稽で、物悲しい、人としての姿でもあるのだろうな、と思ってしまう。
絶対正義を追究するわけでなく、男女間に生じる問題をじりじりとあぶり出している点がともかく印象深い。


どうも散漫な文章になってしまったが、物語の力で、キャラクターとテーマを巻き込み、ひたすら前へと牽引していくパワーに圧倒されることは強調してもいいだろう。
物語るということのおもしろさを再発見できる、力強い一品であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのジョン・アーヴィング作品感想
 『ホテル・ニューハンプシャー』

『初夜』 イアン・マキューアン

2012-02-02 20:40:01 | 小説(海外作家)

1962年英国。結婚式を挙げたばかりの二人――。取り戻すことのできない遠い日の愛の記憶を、克明かつ繊細な描写で浮き彫りにする、異色の恋愛小説。
村松潔 訳
出版社:新潮社(新潮クレストブックス)




本作の感想を読みたいのなら、「訳者あとがき」を読めば充分だと感じた。
ネタばれもなく、本書のよさを充分に伝えていて、かつ文章も美しい。書評としては一級である。

それでもここに、その足下に及ばない感想を書くのは、自己満足のためだと先に述べておく。



物語は基本的にシンプルである。
性の解放が叫ばれる以前の時代、まだベッドを共にしたことのない若いカップルが新婚旅行で初夜を迎える。その一日を、互いの過去などを織り交ぜながら語っていく、というものだ。

そんなシンプルな流れなのに、なぜかくもおもしろいのだろう、と僕は感嘆としながら本書を読んだ。
あるいはそう感じたのは、マキューアンの筆があまりに精緻で、繊細だからかもしれない。
その筆致はもはや名人芸の域にまで達している。


初夜を迎える時点での二人の気持ちには大きな差がある。

夫であるエドワードの論理は、男なので非常にわかりやすい。
性欲はギリギリまで抑えながら、いかに本番で上手く行なうか。ざっくりと書くならそうなるだろうか。

だけど妻であるフローレンスの場合は少しばかりややこしい。
なぜなら彼女はセックスというものに対して、不安というか恐怖に近い感情を持っているからだ。
処女だから、性に対して抑圧した考えを持っていた時代だから、と最初は思ったのだけど、彼女の場合、挿れる挿れない以前のもっと根源的なものが感じられる。
それは彼女が、生々しく、互いの肉体を接触させるという行為そのものに、嫌悪感を持っているきらいがあるからだ。

マキューアンは彼女のその心理を、親との身体的接触の不足を仄めかすかのように書いている。
それに対する深い言及は避けるが、それとそれとしても、キスを含めた恋人との肉体的な接触を避ける感情は、本当に切実であるということ自体はよく伝わってくる。


だがそれぞれの感情に違いはあれ、時が来て、二人は実際に行為に至ることとなる。

エドワードの性欲を覚える感情や、初めてセックスをすることに対する、かすかな不安と心許なさとプレッシャーなどはよくわかるので、すばらしいと感じる。そこはさすがに上手い。
だがそれ以上に、目を引くのはフローレンスの心を描くタッチだ。

そのときのフローレンスの心は、本当に切羽詰っている。
何とか自分自身の嫌悪感をひた隠し、この夜をうまく乗り越えようと、過剰に気を張り、自責の念すら持ちながら、義務感に追いやられるように、ことに臨む姿が大変読み応えがあった。
そしてその気持ちが少しずつ和らぎ、何とか上手くいきそうだと思えるまでに至る過程もすばらしい。
二人の感情を、作者は細やかに描いており、おかげで読み手である僕も、彼女たちの気持ちに寄り添うように読むことができて、共感も覚えるのだ。

もっとも、そんな二人の思いは残念ながら、すべて崩壊してしまうわけではあるけれど。


初夜が台無しになった後の第5章は、怒涛のような展開だ、と個人的には感じた。
そこに至る過程の二人の心を知っているだけに、僕はどちらの気持ちも理解できるし、どちらにも問題がある、と思う。それだけにどうにもやるせない。

フローレンスは過剰に自分に責任があるのだ、と思い込んでいるのは、あまりに哀れだと思う。
とは言え、その後にエドワードに言った言葉は、もう少し言い方を考えればいいのに、と感じてしまう。
もちろん彼女自身、自分の感情をうまく言葉にできなかったのだから、あまり責めるのも酷な気もするが。

エドワードも、妻にあんな態度を取られれば怒る気持ちだってわかるし、それまでの二人の関係をふり返って、相手をなじりたくなる気持ちだって理解はできる。
とは言え、彼自身、母性の欠如し、保護者的ふるまいを要求される生活を送っていたこともあり、彼女に対して母性に似たものを望み、セックスのみならず多くを期待していたことは否定できないだろう。

だけど、若い二人はそこまで互いの感情に思いが回らず、感情のすれ違いが起こるばかりなのだ。


ラストに至って、マキューアンはこの作品の肝を種明かししている。
だが若いエドワードには、そんなマキューアンが言及した態度などは、どうしても取れなかった。
自分の二十代前半をふり返っても、そのような態度でいることは難しい、と思うし、そこまで要求するのはちょっとかわいそうだ。

それでも決定的に何かが壊れる前に、必死にふんばって、行動し、互いを知ろうとしていれば、書き手が語るように、二人にはもっと違った形の幸福が訪れていたことは確かなのだ。

そして二人は賢明な選択ができないまま、あのような結末を迎えたことは、あまりに痛ましいと僕は思う。


ともあれ、非常に緻密で丁寧な筆で、若いカップルの悲劇を描いた手腕に脱帽するほかない。
短いながら(あるいはその短さゆえ)、イアン・マキューアンという作家のポテンシャルの高さを見せ付ける一品となっている。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのイアン・マキューアン作品感想
 『アムステルダム』
 『贖罪』

『パラダイス・モーテル』 エリック・マコーマック

2012-01-23 21:16:39 | 小説(海外作家)

長い失踪の後、帰宅した祖父が語ったのは、ある一家の奇怪で悲惨な事件だった。一家の四人の兄妹は、医者である父親に殺された母親の体の一部を、父親自身の手でそれぞれの体に埋め込まれたという。四人のその後の驚きに満ちた人生とそれを語る人々のシュールで奇怪な物語。ポストモダン小説史に輝く傑作。
増田まもる 訳
出版社:東京創元社(創元ライブラリ)




裏表紙のあらすじに「ポストモダン小説の傑作」という文言があるけれど、読み終えた後で、どうしてそんな言葉が使われているのか、気づくことができた。
確かに(うまく説明できないが)ポストモダン的である。

はっきり言って、僕はこういったオチはあまり好きではないのだけど、本作に対しては最後まで悪い印象を持たなかった。
それはオチはともかくとしても、内容そのものがきわめておもしろいからである。


内容は祖父の奇妙な話を聞かされた語り手が、その事件の真相を探るというスタイルの物語である。

そこで描かれるエピソードが個性的でおもしろい。
冒頭の妻の死体を子どもたちの体内に隠すエピソードからして、グロテスクなイメージにあふれていて、なかなか印象的である。

個人的に一番おもしろかったのは、エイモス・マッケンジーのエピソードだ。
眼球が飛び出したシャーマンや、トカゲを使ったエピソードのイメージは、何とグロテスクでインパクトのあることだろう。しかもシュールなのがいい。

ほかにも奔放なイメージがあちこちに見られる。それを追うだけで楽しい読書体験だった。


また物語中には、無自覚に嘘を語る、ということに関するエピソードがあり、それもグロテスクなイメージ同様に目を引く。
自己喪失患者のために医者が代わりのペルソナを用意するという話や、想像上の経験を真実らしく語る軍人のエピソードなどがおもしろい。
そうしたエピソードを積み重ねることで、数々の物語が実際のところは、現実なのか、それとも嘘でしかないのか、だんだんぼやけていくようにさえ見える。

そういう風に見てみると、物語を物語るという行為そのものが、一つの物語となりうる、ということが本作からは言えるのかもしれないな、なんて思ったりした。


というわけで、オチは個人的には合わないのだが、語りを駆使する様や、奔放なイメージがなかなかにおもしろい作品である。
読書体験としては満足そのものであった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『サラの鍵』 タチアナ・ド・ロネ

2011-12-21 19:49:37 | 小説(海外作家)

パリで平穏に暮らす45歳のアメリカ人記者ジュリアは戦時中にこの街で起きたユダヤ人迫害事件を取材することに。しかしその事件が彼女の、そして家族の人生を深く、大きくゆさぶりはじめる…。
高見浩 訳
出版社:新潮社(新潮クレストブックス)




ヴェルディヴ事件のことを知ったのは、「黄色い星の子供たち」を通してだった。
それ以前には聞いたこともない事件である。

ヴェルディヴ事件とは、ナチスによりパリが陥落した後、ヴィシー政権がナチスに協力するため、フランス警察を使い、ユダヤ人たちを一斉に検挙、ヴェロドローム・ディヴェール(ヴェルディヴ)に閉じ込めた後、アウシュビッツへと移送した事件である。

「黄色い星の子供たち」を見た時の僕はくわしい背景を知らなかったので、その事件に対してフランス人がどのような思いを抱いているのかは知らなかった。
むしろ映画では、ユダヤ人のために行動した勇敢なフランス人がクローズアップされていたので、僕も単純に、不正に立ち向かったフランス人は多くいたのだな、と感じていた節がある。

しかしこの本を通して見ると、そういった単純なもので割り切れないものが見えてくる。


物語は、一斉検挙で捕まった少女と、その事件を調べる現代のジャーナリストの話が並列して語られる。

少女の物語はユダヤ人の一斉検挙から始まるだけあり、なかなか緊迫感にあふれている。
ナチスではなく、フランスの警官により一斉検挙が行なわれたとき、相手がフランス人ということもあってか、少女はいつまでもこんなひどいことが続くわけがないと単純に考えている。
それは、ナチスはともかくフランスがそんなことをするはずがない、という信頼感に裏打ちされたものだろう。

だが現実には、フランス警察だって、ユダヤ人に暴力をふるい、劣悪な環境に彼らを閉じ込め、収容所に送り、家畜のように扱うのだ。
そんな無慈悲な行為は、少女に限らず、多くのユダヤ人にとっても信じがたいことだっただろう。そこにある陰惨な事実が、読んでいても痛ましい。

基本的に、少女のパートは常に痛々しく、悲しく、読んでいてもつらい気分にさせられる。
特に少女のパートの終わりは、その思いのすべてを集約したようなシーンとなっている。
だが、それに類するトラウマティックな出来事が実際にあのとき、フランスで起きていたのだろう。


その事実に対して、小説内のフランス人は後ろめたい思いを抱いているか、無関心でいるかのどちらかだ。
ユダヤ人の検挙のとき、彼らはそれを目撃しても、それに対して何も行動しなかったし、できなかった。
それは何が起きているか知らなかったということもあるし、関心がなかったということもあろう。

だがその無知により、多くのユダヤ人が殺された。
それは生き延びた当人にとっては、後々まで苦しむほどの悲痛なできごとであり、それに多少なりともかかわったことのある人物ならば、不甲斐ない思いにだってなってしまう。


だが事件と何の接点もない人間は、これほどの事件でさえも、目を向けようとはしない。
そしてその結果、事件そのものが風化しかねない、なんてことにだって、なりうるのだ。

だけども、どれだけ無関心でいようとも、過去はまちがいなく存在するのである。人が目を向けなくても、悲惨な事実は決して消えるものではない。
そして、どれだけ無視しても、過去は人の心を壊しかねないほどに、執拗について回るものでもあるのだ。


だからこそ、人は過去を見据える覚悟というものが必要なのかもしれない。
そしてそれを受け入れたとき、初めて人は前に進めるのかもしれないし、何かを次代へとつないでいくことができるのだ。

重い内容ではあるけれど、そのような前向きとも取れるメッセージが伝わってくる。
それがとても印象的な一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『族長の秋』 ガブリエル・ガルシア=マルケス

2011-12-18 23:04:42 | 小説(海外作家)

大統領は死んだのか?大統領府にたかるハゲタカを見て不審に思い、勇気をふるい起こして正門から押し入った国民が見たものは、正体不明の男の死体だった。複数の人物による独白と回想が、年齢は232歳とも言われる大統領の一生の盛衰と、そのダロテスクなまでの悪行とを次々に明らかにしていく。しかし、それらの語りが浮き彫りにするのは、孤独にくずおれそうなひとりの男の姿だった。
鼓直 訳
出版社:集英社(集英社文庫)




『族長の秋』は、独裁者を描いた作品である。
作品は6章仕立てになっているのだが、章が変わるまで、いっさい改行がないというかなり特殊な書き方で描かれている。
その癖の強さからもわかるが、決して読みやすい作品ではない。少なくとも僕は人には勧めない。

だが根気強く読んでいると、なかなかおもしろいとも感じられるのだ。
そう感じられたのは、ひとえに大統領のキャラに尽きる。
皮肉の利いた戯画的な雰囲気と(そもそも大統領自体、キリストのパロディだ)、哀れみすら覚えるその造形に、読みづらいと感じながらも心惹かれてしまった。


大統領という人物は、いかにも独裁者といったエピソードに彩られている。
政敵を次々と虐殺し、暗殺におびえ、自分の周囲にいる人間に対してそれが敵なのかどうか、と疑心暗鬼になったりする。また女を力ずくで手に入れたり、思いつきで法律を変えて、それを即座に撤回したりもする。
要はやりたい放題なのだ。

しかし彼はそんな風に陰湿な手を使い、権力の中枢に座りながらも、人としてのつながりを誰とも結ぶことができていない。


そもそも彼は愛というものをわかっていない。
彼にとって、女は性欲の捌け口という意味合いが強いように見える。特に前半部はそうだ。
そんな身勝手なくせして、自分自身は無条件に国民から愛されていると思っている。

だがもちろんそんな無条件な愛など、そうそう与えられるものではない。
影武者も彼に向かって口にしているけれど、大統領に向かって、自分が思っている心の中のことを、きちんと言う人間など一人もいないのだ。そんな状況で、愛情関係が築けるはずもない。
彼を愛してくれている人は、せいぜい母親くらいだろう。

それでも、彼にだって自分自身から求めて愛そうと思った女はいた。
マヌエラ・サンチェスや、正妻のレティシア・ナサレノはいい例だ。
レティシアの場合、大統領に同情したのか、彼を教化するような優しい態度を取ったりもした。見ようによっては、それは幸福な時間だろう。
けれど、そんな彼女もやがては大統領の権威の下でぜいたくするだけの女に成り下がてしまうのである。


愛情だけでなく、友情だって、彼は築くことができていない。
大統領は、部下たちを相手にドミノの勝負をすることは多いけれど、相手は大統領を立てて、彼自身は望んでいないのに勝手に負けてくれる。
また大統領の心を推し量り、先回りして、彼の都合のいいように物事を進めてしまう。

それは、楽と言えば楽な関係だろう。
だがもちろん、人間関係は常に片方だけが優位であり続けるわけにはいかない。
彼自身が望んでも、ほかの人は、誰も本気で人間としての相手をしてくれず、そして誰も本当のことを言ってくれない。
友情を築く可能性があるとしたら、たぶんもっとも有力だったのは、ロドリゴ・デ=アギラル将軍だったけど、それだって、自分の疑心暗鬼でかなり残酷な殺し方をする。

結局彼は孤独に返るばかりなのだ。
権力を手中にしながら、彼は自分の人生すら、手の内に入れることはできていない。そう見えてならなかった。


だがその肝心要の権力も、やがては、彼の手の内からどんどん離れていってしまう。
と言っても、別に失脚とかするわけではない。彼の手の内にあったはずの権力がやがて自己駆動を始めてしまうのである。

その結果、彼が意図したわけでもないのに、彼の名の元に虐殺は繰り広げられることになるし、そのことを、名前を出された彼自身知らないということも平気で起こってしまう。
やがて彼の周りに集まるのは権力を食い物にするようなやつらばかりになってしまう。


大統領は国の中枢にいて、物事の中心にいる人物のはずだった。
だがそんな彼も、自分の人生すら制御できず、愛情にしろ、政治にしろ、やがては中心どころか埒外ののけ者にされているような状況なのだ。
そんな大統領の姿がただただ哀れに見えてならなかった。

独裁者の姿を寓話的に描くという大きな物語でありながら、人間としての孤独にアプローチしている様が、静かな余韻を残す。
『族長の秋』は読みづらい作品だが、なかなか深い作品でもある。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



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