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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

『灯台守の話』 ジャネット・ウィンターソン

2011-11-22 20:00:34 | 小説(海外作家)

孤児となった少女シルバーは、不思議な盲目の老人ピューにひきとられ、灯台守の見習いとなる。夜ごとピューが語る、数奇な二重生活を送った牧師の物語に導かれ、やがてシルバーは真実の愛を求めて独り旅立つ―二つの孤独な魂の遍歴を描いた傑作長編。
岸本佐知子 訳
出版社:白水社(白水uブックス)




キュートな作品である。
そうかぁ?という意見も出そうな気はするが、少なくとも僕はそう感じる。

それは、愛というテーマが奥底にあるからかもしれないし、灯台という舞台設定もその一因かもしれない。
だがこの作品のかわいらしさは、盲目の灯台守ピューと、孤児の少女シルバーの二人の会話によるところが大きい、という気がする。


崖の上に突き刺さるようにして建つ家に住むシルバーは母を失い、灯台守のピューに育てられることになる。
そういう設定で始まる物語だが、冒頭からしてかなり変だ。
崖の上に斜めに建っている家という時点で変だし、そこで暮らすには命綱が必要という時点で、おもしろい。
おかげで一気に物語に入り込めるのは魅力だ。

ピューに引き取られたシルバーは、ピューから主として、灯台をめぐるいくつかの話を聞かされることとなる。
そのときの二人の雰囲気がともて愛らしい。

お話して、ピュー。
どんな話だね?
ハッピー・エンドの話がいいな。
そんなものは、この世のどこにもありはせん。
ハッピー・エンドが?
おしまい(エンド)がさ。

っていうところが個人的には一番好きなのだが、その会話を読んでいるだけでも、二人の親密さと何かを伝えようとするピューの気持ちが感じ取れるようだ。
まるで祖父と孫娘みたいなたたずまいに、読んでいるだけで、ほくほくとした気持ちになれる。

二人の間にあるのは、まちがいなく愛情なのだろう。
二人はお話をすることで、愛情を交わし合っているように、僕には見える。

そしてその愛は、灯台の存在とも無縁ではないのだろう。
暗闇の中の一つの点で、自分を導いてくれるもの。それが灯台であり、すなわちは愛情のメタファーと感じるからだ。


さて、ところでこの小説では、ピューとシルバー以外に、バベル・ダークという男の話も並列して語られる。
ダークは疑心暗鬼からモリーという恋人を捨てるけれど、彼女のことをまったく忘れられないでいる。そして退屈で想像力のかけらもない妻にうんざりしている。そういう男だ。
その人生を例えるなら、「自分の人生の異邦人」になっているといったところである。

そんなダークは、モリーと再会し、再び愛し合うこととなる。けれど、二人に幸福が訪れるわけでもない。
それはダークが既婚者だからということもあるが、それ以上に、ダークの中には闇があるからなんだろうな、と中盤のモリーの述懐を読んでいると、感じられてならない。
そしてその結果、彼はとても切ない決断をすることとなる。

そしてそれはある意味では、シルバーの先行きとはずいぶん対照的なのだ。


ダークとシルバー、二人は誰かを愛していたし、誰かに愛されていたという確かな記憶を持っている。
けれど、ダークは過去の中に沈むことを選び、シルバーは何とかポジティブに生きていくことを選んだ。
それは、シルバーがピューから物語という形で、愛されていたという記憶をたくさん受け継いだからかもしれない。そんな風にも感じられるのだ。

そして愛されていたという記憶を持つ彼女は、次は自分自身が自分の愛する相手に向けて、お話をしていくこととなる。
そうすることで人は、愛されていたという記憶を連鎖のように愛する人へと与えていくのかもしれない。
ダーウィンの理論を持ち出すまでもなく、この世に揺るぎないものなんてない。だからこそ、揺るぎある世界の中では、その連鎖こそが、たぶん大きな灯火なのだ。

そんなことを、読み終えた後に、ぼんやりと感じた次第である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『故郷/阿Q正伝』 魯迅

2011-11-06 17:22:06 | 小説(海外作家)

久しぶりに再会した幼なじみは、かつて僕の英雄だった輝きを失っていた…「故郷」。定職も学もない男が、革命の噂に憧れを抱いた顛末を描く「阿Q正伝」。周りの者がみな僕を食おうとしている!狂気の所在を追求する「狂人日記」。文学で革命を起こした魯迅の代表作16篇。
藤井省三 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




本作には、大別するなら2種類の作品が収められていると感じた。
一つは、『故郷』のように、作者自身をモデルにした、見ようによっては私小説的な作品。
もう一つは、『阿Q正伝』のように、現実の社会情勢を反映させたフィクションである。

個人の好みを語るならば、『故郷』や、『朝花夕拾』所収の作品群など、自伝的要素のある作品の方が好きだ。
後者も決して悪くないけれど、趣味としては、前者の作品の方が心に残る。


特に、『故郷』はすばらしい。
最初に読んだのは、中学の教科書だが、久しぶりに読み返して、その物語の鮮やかさに心奪われる。
言ってみれば、『故郷』は、地方のお坊ちゃんとして育った「僕」が、久しぶりに故郷に帰り、幼なじみと再会する、というだけの話である。

その中で目を引くのは、少年時代、あれほど輝いていた閏土が、大人になると、生活に疲れ、器なんかをちょろまかそうとする、くたびれた大人になっているという対比にある。
そこにあるのは若い日の幻想の崩壊であり、幼なじみであっても、元々は主人と雇い人の関係でしかなかったのだ、という苦い現実の確認でもある。
その姿が、読んでいても少し切なくてならない。

だが、自分たちの若い世代は、むかしの自分たちと同じように、社会的地位だとか、生活の困窮などとは無関係に対等の友だちとして、つきあうことができる。
そこに希望を託そうとする姿勢が、それなりにポジティブで、しんしんと胸に響いた。


社会情勢を反映させたフィクションの方では、『端午の節季』が好きだ。

この作品は、物事に対してとかくあきらめた見方をしがちな男を主人公にしている。
「似たり寄ったり」と、何につけ考える彼の態度は、物事の問題と真正面から向き合うことから逃げているように見えなくもない。

その結果、彼はトラブルを生じるままに任せるだけで何もしようとしない。
不正に対してノーと言うわけでもないし、生活にいくつか不満はあれ、それを改善することをあきらめている。

彼がそんな態度を取るのは、そっちの方が気楽だからだろう、と思う。
行動するよりも言い訳を考えている方が、労力を使わなくて済む。そんなことを無意識的に感じているのでは、という気もしなくはない。

そんな主人公の姿は、自分の戯画を見せられているようで、読んでいて卑屈な気持ちにさせられる。
そしてその点こそ、この作品の魅力だろう。


そのほかの作品もおもしろいものが多い。

自分を殴る男に対して、かわいそうと言った娘の言葉が印象に残る、『薬』。
深く物事を考えない、典型的小者の巻き込まれる運命が、実にむごい、『阿Q正伝』。
意地悪な召使が見せた意外な優しさと、『山海経』を大事にする少年の姿が忘れがたい、『お長と『山海経』』。
詭弁を弄し責任を逃れる医師への軽蔑と、父の苦しみに目を向ける「私」の思いやりが印象的な、『父の病』。
倫理観がぐちゃぐちゃな、辛亥革命前の中国大衆の姿が興味深い、『追想断片』。
中国人を差別する日本人たちへの納得がいかない気持ち、同胞の死に無感動な同じ中国人への憤り、藤野先生の魯迅への思いやりなどが心に残る、『藤野先生』。
中国的な無知に対する怒りと、その一端を体現している友人への哀悼の念がすばらしい、『范愛農』。
発想は極端なのに、変に主張が倫理的な点がおもしろかった、『狂人日記』、など。

どの作品もどこがいいとは上手く指摘しづらいが、おもしろい作品が多かった。
佳品のそろった、なかなかの短編集である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『平原の町』 コーマック・マッカーシー

2011-10-13 20:56:42 | 小説(海外作家)

十九歳になったジョン・グレイディ・コールは国境近くの牧場で働いていた。メキシコ人の幼い娼婦と激しい恋に落ちた彼は、愛馬や租父の遺品を売り払ってでも彼女と結婚しようと固く心に決めた。同僚のビリーは当初、ジョン・グレイディの計画に反対だった。だがやがて、その直情に負け、娼婦の身請けに力を貸す約束をする。運命の恋に突き進む若者の鮮烈な青春を、失われゆく西部を舞台に謳い上げる、国境三部作の完結篇。
黒原敏行 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)




マッカーシーと言えば、乾いた文体と、冷徹で即物的なまでの描写が特徴だけど、本作でもそれは健在だ。
癖があるので好みは分かれるけど、はまった人間にとってこれほど心地よく、やみつきになる文体はない。

本作で言うなら、特に山犬狩りの描写が最高だ。
そこで描かれるのは、害獣に対する虐殺だけど、その文章の醒めたタッチがたまらなくすばらしい。
個人的には、山犬が二本の縄に引っ張られて破裂するシーンが良かった。
それは残酷でぞくりとするのだけど、一歩引いた視線で語るところは見事と言うほかない。


さて物語の方だが、本作では『すべての美しい馬』のジョン・グレイディと、『越境』のビリーとが、同じ牧場でカウ・ボーイとして働いていることが冒頭から明かされる。
そういう点、国境三部作の掉尾を飾るにふさわしい作品であろう。
そこでジョン・グレイディが若い娼婦マグダレーナに惚れて、身請けしようと奔走する。ビリーはそんなジョン・グレイディを諌めようとするが、結局彼の手助けをする、という話だ。

マッカーシーは後年の作品ほど読みやすくなっていると感じるが、本書も国境三部作の中では、主筋だけを抜き出せば一番おもしろい、と感じる。


ジョン・グレイディは若いということもあってか、わりに直情的なところがある。女に惚れているからというのもあるだろうが、彼の行動は実にまっすぐだ。
そしてジョン・グレイディだけでなく、女の方も彼同様に熱い思いにあふれている。
ジョン・グレイディは娼館を移ったマグダレーナを探し当て、そこで彼女と再会するのだけど、彼女は一人の客でしかない彼のことをなぜか知っている。それに対し、「なんでおれのことを覚えてた?」と尋ねるのだが、そのときのマグダレーナの言葉がいい。「あたしもなの」と答えるからだ。
それを読んだときには、読んでいるこっちが、ジョン・グレイディ以上にきゅんきゅんしてしまった。
もう若くて、純真なラブストーリーだな、とつくづく思うのだ。

だけど、娼婦という事情がある以上、二人の恋路は平坦とはいかない。
身請けするための金を集めなくてはいけないし、娼館の経営者であるエドゥアルドは、マグダレーナに対して、強い執着を持っている。それに加え、彼女はどうもジョン・グレイディに何かを(恐らく病気だろう)かくしている。


そんな平坦でない状況をフォローするのが、ビリーだ。
このジョン・グレイディとビリーのコンビはなかなか魅力的だ。
直情的なジョン・グレイディと、落ち着いた感じのビリーとは、性格は異なるけど、呼吸は合っている。
ビリーは、猪突猛進タイプのジョン・グレイディに幾度か、説教を垂れているが、そうしながらも、決して友人を突き放そうとはせず、彼のために動いている。そこがなんとも言えず良い。

ビリーがジョン・グレイディに親切にするのは、死んだ自分の弟と重ねているのが大きいと感じる。
『越境』で、彼の弟は女と共に逃げ、兄のもとを離れたわけだが、そのときのことをビリーは思い出しているのだろうな、とちょっと思う。実際ジョン・グレイディは弟と似ている、とビリー自身も言っているし。


だがそんな風に人の助けを受けても、苛酷な状況は、ジョン・グレイディに襲いかかる。
ラストの展開は読んでいて、実につらかった。
もちろんむちゃくちゃおもしろいことはおもしろい。ナイフのシーンなんかは終始緊張感にあふれていて、しびれてしまう。
だがその後に訪れた展開はあまりに苦い結末だ。

しかし同時に、これが必然だったのだろう、という気がしなくはない。
そしてこの苛酷な展開こそ、アメリカ中西部そのものなのだろうな、と読んでいて感じる。


どうもまとまりがなくなってしまったが、メインの流れはもちろん、脇の挿話や哲学論議、西部のカウ・ボーイたちの生活描写、何をとっておもしろく読める。
マッカーシー作品の中では、『ザ・ロード』の次にこの作品が好きである。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのコーマック・マッカーシー作品感想
 『越境』
 『ザ・ロード』
 『すべての美しい馬』
 『血と暴力の国』
 『ブラッド・メリディアン』

『ボディ・アーティスト』 ドン・デリーロ

2011-10-10 22:00:00 | 小説(海外作家)

映画監督の夫を自殺で失ったローレン。精神のバランスを崩す彼女の前に、謎の男が現れる。まともに口を利くことができず、時間の経過も認識できないらしい男は、やがて自殺した夫の声で話し始め、知りえないはずの夫婦の会話を再現し始める。彼に引きずられるようにローレンの「現実」も変化をはじめて…。一人の女性の変わりゆく姿を透明感のある美しい文体で描いた、アメリカ文学の巨人デリーロの精緻な物語。
上岡伸雄 訳
出版社:筑摩書房(ちくま文庫)




おもしろいストーリーの作品か、と問われたら、はっきり言って、そうでもないよ、と答えざるをえない。
しかし変に何かが引っかかる作品でもある。

その何かとは、恐らくは物語世界の描き方にある。
個人的な印象を述べるなら、本作では物事の境界が溶融しているように感じられるのだ。


だがそのことにくわしく触れる前に、中身について軽く触れよう。
物語は、ある夫婦の日常のシーンから描かれる。
だがそれを読んでいると、この夫婦は微妙にすれ違っているな、というのが何となく伝わってくるのだ。二人はそれぞれがそれぞれのことを考えていて、会話もあまりかみ合わない。

もちろんそれは空気のように馴染んでしまった夫婦の親密さをあらわしているとも言えるかもしれない。
でも逆にそれは、馴染みすぎて、肝心な言いたいことを、互いに言うことができていないことを示してもいる。
つまりは、親密そうに見えて、二人はバラバラな存在でしかないということかもしれない。
そして後者の予感の正しさは後に証明されることとなる。なぜなら、夫は自殺してしまうからだ。

当然妻はショックを受けるわけだが、そんな妻の前に、謎の男が家の中に迷い込んでくる。
そして物語は、冒頭でも触れた特徴的な描写の世界へと突き進んで行く。


この物語の中では、人称や時間など、あらゆる境界が溶融してしまうかのように感じられる。

たとえば死んだ夫と、突然家の中に迷い込んできた男とは、両者とも「彼」という人称で語られるためか、まるで同一であるかのような印象を受ける。
その男が夫の話し方を真似することもあり、よけいその印象を強くなるばかりだ。
そしてやがては、生者と死者、実在と非実在、過去と現在の境目がだんだんと混乱していくこととなる。その感覚がちょっとおもしろい。

彼女の世界が、そのようにして溶融したのは、謎の男の存在に、死んだ夫との記憶を重ね合わせたことが大きいのだろう、と僕は思う。
それは謎の男の特技が、他人の物まねだからという性質もある。
だけどそれ以上に、彼女がその男の中に、夫の影を見たいと、少なからず願ったたからではないかと、いう気もしなくはない。そう思わなければ、その男がいたと思われる精神病棟のある施設にすぐさま連絡を取っていただろう。
そしてその自身の願望の中に、彼女は、夫の死を乗り越えるスタートラインを見たのかもしれない。


本書は退屈と感じる場面も多い。
しかし少なくとも、特徴的な語りで、物語を立ち上げていく様はきわめて巧みで、簡単には忘れがたい味わいがある。
趣味ではないが、こういう作品もありなのかもしれない。そう感じる一冊であった。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『オスカー・ワオの短くすさまじい人生』 ジュノ・ディアス

2011-09-29 20:13:20 | 小説(海外作家)

オスカーはファンタジー小説やロールプレイング・ゲームに夢中のオタク青年。心優しいロマンチストだが、女の子にはまったくモテない。不甲斐ない息子の行く末を心配した母親は彼を祖国ドミニカへ送り込み、彼は自分の一族が「フク」と呼ばれるカリブの呪いに囚われていることを知る。独裁者トルヒーヨの政権下で虐殺された祖父、禁じられた恋によって国を追われた母、母との確執から家をとびだした姉。それぞれにフクをめぐる物語があった―。英語とスペイン語、マジックリアリズムとオタク文化が激突する、全く新しいアメリカ文学の声。ピュリツァー賞、全米批評家協会賞をダブル受賞、英米で100万部のベストセラーとなった傑作長篇。
都甲幸治、久保尚美 訳
出版社:新潮社(新潮クレストブックス)




独裁国家ドミニカにおける親子三代の物語を、マジックリアリズムで描いた小説。
本書をつまらなくまとめるなら、そういうことになる。見ようによっては、アジェンデの『精霊たちの家』に通じる面もなくはない。

だが本書が特徴的なのは、そういった先行作品とはちがうオリジナリティがあるからだ。
その最大の点は、主人公のオスカーがオタクであるという点にあるのだろう。


オスカーはかなりディープなオタクである。
特に『指輪物語』に関する知識は深く、かなり思い入れの深いことがわかるし、そのほかのアニメやSF作品(主として映画)に対する知識も豊富だ。割注なんかはそこかしこに入りまくっている。
アメリカでも本書のすべてをカバーできる人はどれほどいるだろうか、なんて思えるほど、中身はマニアックだ。

そしてオスカーはそのオタク性と、デブという体型もあり、女の子にはまったくモテなかったりする。
日本のオタクとちがい、アメリカのオタクであるオスカーは、結構アグレッシブに女性にアプローチしているけれど、それらが報われることはまったくない。
個人的にオスカーはいいやつだと思うけれど、なかなか幸せになれないタイプらしい。

そしてその非モテ属性ゆえに、最後はフク(言うなれば災厄だ)に見初められることになる。


だがそこを深くつっこんで語る前に、ドミニカの歴史について、触れねばいけない。

僕は寡聞にして、この本を通して、初めてトルヒーヨという独裁者を知った。
彼はドミニカを近代国家には仕立て上げたが、その統治スタイルは権力の私物化にほかならない。
自分の政敵を暗殺し、きれいな女を見つければそれを手に入れ、密告を推奨するような環境をつくり上げる。

特にオスカーの祖父アベラードに対する拷問は残酷なものだ。
裁判なんてまともには行なわれず、理不尽な暴力をひたすら浴びせる。娘を守ろうとして、そんな状況にあうとしたら、それはあまりに悲惨なことだ。
また、オスカーの母のベリは、権力者の男と不倫関係に落ちたために、半殺しの憂き目にあう。
そういった暴力が当時は当たり前のように行なわれていたのだな、とこの本を読んでいると知らされる。

しかし、トルヒーヨ暗殺後のアメリカで育った、ロラとオスカーには、祖父母や母に訪れた暴力の影はない。
ロラが母親に反抗する姿は非常に胸に迫って、おもしろく読めたのだけど、そこにあるのは、独裁国家の風景ではなく、近代国家での少女の姿だ。
もちろんオタクのオスカーは言うまでもない。彼の趣味自体、資本主義国家でなければ成立しない。


だけどそんな孫の世代にも、トルヒーヨの影響が訪れることとなる。

ドミニカという国家は、いまだトルヒーヨの影響下にある、と感じる面がある。そう思ったのは、ラストの大尉の存在が大きい。
トルヒーヨ後のドミニカを牛耳ったバラゲールの下で活躍した大尉は、自分の恋人に手を出したオスカーを、徹底的に痛めつける。
場所は母親が痛めつけられたときと同じ、サトウキビ畑だ。言うまでもなく、暗示的な話である。

つまりはトルヒーヨの影響が、トルヒーヨが暗殺されたいまとなっても続いているということだ、と深読みしてみる。
そこにある暴力的な雰囲気はいまとなっても消えない、と僕には見えた。
そのために一途に女を愛したオスカーがあのような結果となってしまったことが、あまりに悲しい。

だけどラストは決して悲観的ではない。その理由は、もちろんオスカーの手紙にある。
個人的にはちょっと笑えるのだけど、そこにある愛の予感が非常に優しく、何となくほっとする。


本作は描きようによっては、陰惨になりかねない話である。しかしそれをオタクの勢いで描ききっており、楽しい作品に仕上がっている。
個人的にはわりに好きな作品であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『緑の家』 マリオ・バルガス=リョサ

2011-08-25 20:24:28 | 小説(海外作家)

町外れの砂原に建つ<緑の家>、中世を思わせる生活が営まれている密林の中の修道院、石器時代そのままの世界が残るインディオの集落……。豊饒な想像力と現実描写で、小説の面白さ、醍醐味を十二分に味わわせてくれる、現代ラテンアメリカ文学の傑作。
出版社:岩波書店(岩波文庫)




たぶん読んだ人全員が思うことだろうが、『緑の家』は、構成がかなり複雑なお話である。

本作では、いくつかのストーリーを並列的に語るというスタイルを取っている。
具体的には、シスターたちが軍と一緒になってインディオの集落から少女をさらい、修道院へ連れて行く話。ブラジルから逃れてきた日系人の盗賊フシーアの話。監獄から故郷に帰還したリトゥーマの話。安値でインディオからゴムを買占め、富を得ているフリオ・リアテギの話。緑の家誕生秘話。などなどだ。

正直最初の方は、情報量が多いわ、登場人物は多いわ、ペルー人の名前が覚えづらいわ(ドン・フリオとドン・ファビオを最初の方はごっちゃにしていた)、エピソードは断片的だわ、時系列もむちゃくちゃだわ、フシーアの章は過去と現在を混在させるという特殊な語りだわ、で整理して読むのは相当難儀だった。
読んでいる間は、何度もメモを取ったし、上巻と、エピローグ直前までを読んだ段階で、自分の中で内容を整理するため、ざっくりと読み直す必要もあった。


しかし読み進むにつれ、ブツ切れでバラバラとしか見えなかった各エピソードが、次々とリンクするようになる。
別のエピソードで登場した人物が、それとは関係ないと思っていたところで顔を出したり、ある章で語られていた話がそれとはちがうエピソードにつながっていったりする。
そのリンクの仕方は本当に巧妙で、演出もすばらしく、おかげでワクワクしながら読み進めることができた。

最後の方は、物語が拡散してしまったきらいがあるとは思う。
結局リトゥーマはどんな理由で捕まったのかわからないし、ニエベスのその後をもう少し知りたかった気もするし、リアテギの話も後半はぞんざいだ。

それでも、まったくバラバラだった物語が、それぞれ、ときにゆるく、ときに強固につながり、一つの物語を織り上げていく過程を追っていくのは、極めて楽しい体験であった。


しかしこれだけ大きな物語だと、個々のエピソードも力強く、臨場感に富んでいたりで、実におもしろい。
リトゥーマとセミナリオのロシアンルーレットの話や、ボニファシアがピウラに向かうときの場面は印象に残る。

そんな中、個人的にもっとも楽しかったエピソードはアンセルモが緑の家を建てる流れと、後半の緑の家が燃える場面だ。
特に前者は、『百年の孤独』にも通じる神話的な雰囲気があり、非常におもしろく読むことができた。
また、後者はガルシーア神父が、エピローグも含めて、いい味を出していたと思う。


何か感想が非常に散漫になってしまった。
だがここだけは力説したいのだが、本書は実に大きな物語だと心から感じるのだ。すべてを読み終えた後には、壮大な物語を読み終えたという、しっかりとした手応えを覚える。

読みづらい作品であることは断言するけれど、それでもチャレンジして読んでみるだけの価値はある。
『緑の家』はそう思わせるだけの力強い作品であった。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのバルガス=リョサ作品感想
 『楽園への道』

『インド夜想曲』 アントニオ・タブッキ

2011-08-02 19:57:38 | 小説(海外作家)

失踪した友人を探してインド各地を旅する主人公の前に現れる幻想と迷走に充ちた世界。ホテルとは名ばかりのスラム街の宿。すえた汗の匂いで息のつまりそうな夜の病院。不妊の女たちにあがめられた巨根の老人。夜中のバス停留所で出会う、うつくしい目の少年。インドの深層をなす事物や人物にふれる内面の旅行記とも言うべき、このミステリー仕立ての小説は読者をインドの夜の帳の中に誘い込む。イタリア文学の鬼才が描く十二の夜の物語。
須賀敦子 訳
出版社:白水社(白水Uブックス)




『インド夜想曲』は、タブッキ作品では、世評の高い部類に入ると思っている。
だから期待して読んだのだけど、正直個人的にはそこまでの評価を受けるほどとは思えなかった。
正直なところ、僕の心に響くものは少なかった。

ではつまらないかと言ったら、そういうわけではないから、評価に困ってしまう。
おもしろいか、つまらないかで言ったら、そこそこ楽しんで読める作品だよ、と認めるしかないのだ。


『インド夜想曲』は、インドで失踪した友人を探しにインドにやって来た男が、様々なできごとに出くわす、というロードムービー風の物語だ。
冒頭の娼婦の話から、ラストのサスペンスじみた話まで、どのエピソードも楽しく読める。

個人的には、アトマン(アートマン)がどこにあるのか、っていう占い師の話が好きだ。
はっきり言って、大した挿話ではないのだけど、哲学的な味わいが心に残り、印象深い。


そのアトマンのエピソードが示しているかもしれないけれど、本作には、インドの雰囲気がにじみ出ている。
インド的な猥雑さや、東洋的な思考を示すようなエピソードがいくつかあり、これはこれでおもしろい。
それでいて、無理にエキゾチシズムを強調しているわけでないところも一つの魅力だ。

また、抑えた筆致で物語を叙述しているところも良かった。
そのおかげで、小説内に流れる時間は、非常にゆったりと感じられた。それが読んでいても、心地よい。


そんな物語は、ラストに至り、メタフィクショナルな展開へと突き進んでいく。
そこから見えてくる景色は、端的に言うなら、眠られぬ夜にくりひろげられる自分探しといったところのようだ。

要するところ、『インド夜想曲』は、内省的なロード・ノベルということなのだろう。
向かうべき旅路は、外的世界たる、実際のインドであり、同時に内的世界たる、自分自身ということだ。
そう考えると、この小説内の時間がゆったりとしていたのも、何となく納得できる。
構成としては巧妙だな、と読み終えた後に気付かされ、少し驚かされる。
でも、決してそれ以上ではないんだよね、という気もしなくはない。


あるいは僕は、この作品を語る資格はあまりないのかもしれないな、と少しだけ思ってしまう。
しかし佳作であることは確かだし、この作品が好きな人もいるのだろうな、ということは強く感じる次第だ。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかのアントニオ・タブッキ作品感想
 『供述によるとペレイラは……』

『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』 O・ヘンリー

2011-07-21 20:25:42 | 小説(海外作家)

アメリカの原風景とも呼べるかつての南部から、開拓期の荒々しさが残る西部、そして大都会ニューヨークへ――さまざまに物語の舞台を移しながら描かれた、O・ヘンリーの多彩な作品群。20世紀初頭、アメリカ大衆社会が勃興し、急激な変化を遂げていく姿を活写した、短編傑作選。
芹澤恵 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




久しぶりにO・ヘンリーを読み返したけれど、改めて読んでみると、いろいろな面に気づかされる。
一つは、語り口が大仰なこと。
二つ目は、恋愛絡みの話が多いこと。
三つ目は、よく言われることだけど、視点が優しいこと。
そして四つ目は、オチを含めた構成が上手いことである。


読んでいてまっさきに感じたことは、語りが大上段ぶっていることだ。
表題作の『賢者の贈り物』で言うなら、言葉を尽くしすぎているし、それが鼻につくときもある。演説風な語り口に引いてしまうときもなくはない。
だけどそれが読みようによっては、リズムが出ているように感じる面もある。これもまたこの作家の個性なのかもしれない。

肝心の物語の方は、恋愛がらみの作品が多いと思う。
それが雑誌の要請かもしれないが、何かの行動を起こすとき、登場人物たちの動機は大概、恋愛が出発点になっているように思う。おかげで各篇を読むたびに、またか、と思うところは否めない。
でも言い換えるなら、それがゆえに、優しい視点の話にもなっているのだろう。

いい例が『千ドル』ではないか、と思う。
オチ自体は予想がつくのだけど、主人公が示した行動には、心底しびれてしまった。これぞ、粋ってやつじゃないだろうか。
でも彼がラストのような行動をしたのは、相手の女のことが本当に好きで、大事にしていたからにほかならないのだ、と思う。そう考えると、すてきな話だな、とつくづくと思ってしまう。


また、サプライズエンディングの物語も多くて、それもこの作品集の特徴の一つと思う。

個人的に、一番好みで、物語が上手いと思ったのが、『赤い族長の身代金』だ。
最初に考えていた誘拐計画が、予想外の事態でうまくいかなくなり…という展開で、なかなか読ませる。
特に秀逸なのはラストだろう。
誘拐犯が、子どもを親元に返したときの描写にちょっと笑ってしまった。なんともすてきで、皮肉なオチであり、ユーモラスですらある。
優しい作品も多いけれど、こういうブラックユーモアあふれる、機知に富んだ作品も悪くない。


そのほかにも、本作には楽しい作品が多い。

ラスト一行のセリフに笑ってしまう、『犠牲打』。
女が打ち明けてくれるものと信じている、男の優しさが心に残る、『伯爵と婚礼の客』。
皮肉に満ちていて、ちょっとシニカルなオチが印象的で、『しみったれた恋人』。
銃撃戦の緊張感にゾクゾクし、オチにも感心する、優れたエンタメ作品の、『1ドルの価値』。
庶民のちょっとした冒険と、優しいロマンスがすてきな、『楽園の短期滞在客』。
芝居じみているよ、と思わずつぶやいてしまったが、オチは見事だとすなおに感じた、『意中の人』。
保安官の機転が粋で、すばらしい、『心と手』。
いかにもつくりものめいているが、物語は起伏に富んでいておもしろい、『水車のある教会』。
女の心情の変化が丁寧で、ラストの苦々しい展開が、暗いけれども秀逸な、『ミス・マーサのパン』。
願いどおりになかなか逮捕されないところがおもしろく、オチの皮肉さが印象的な、『警官と賛美歌』、 など。

短いながらも、読み応えがあり、感心させられる。
短篇小説の見本のような数々の作品を、存分に堪能できる一冊である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『トーニオ・クレーガー 他一篇』 トーマス・マン

2011-07-03 20:26:16 | 小説(海外作家)

ぼくは人生を愛している。これはいわば告白だ――陽気で生き生きとした普通の人たちに憧れる、孤独で瞑想的な少年だったトーニオは、過去と別れ、芸術家として名を成した。そして十三年ぶりに故郷を訪れるたびに出る……二十世紀文学の巨匠マンの自画像にして、不滅の青春小説。後期の代表的短編「マーリオと魔術師」を同時収録。
平野卿子 訳
出版社:河出書房新社(河出文庫)





僕が積極的に海外文学を読むようになったのは、赤川次郎『三毛猫ホームズの映画館』がきっかけだ。
その本の中で赤川次郎は、表紙がボロボロになるまで読み返した本として、岩波文庫の、つまりは実吉捷郎訳の『トニオ・クレエゲル』を挙げている。

実吉訳の『トニオ・クレエゲル』は人気が高い。
赤川次郎以外の有名どころでは、北杜夫や辻邦生が、実吉訳『トニオ』を好きな作品に挙げている。
そんな超メジャーな訳がある中で、新訳を出すのは勇気あることかもしれない。
だが本作は、新訳として世に問う価値のある、非常に丁寧な訳だと読んでいて感じた。


たとえば個人的に一番好きな、ラストのダンスパーティでのシーン。

岩波文庫の実吉訳は以下のようになっている。
「われは寝ねまし、されど汝は踊らでやまず。」この文句の語る憂鬱で北国的な、誠実で不器用な感覚の重苦しさを、彼は実によくしっている。眠るのだ……動くとか踊るとかいう義務なしに、甘くものうくそれ自身の中に安らっている感情――全くその感情にのみ生きられるようになりたい、とあこがれるのだ。――しかもそれでいて、踊らずにいられないのだ。敏活に自若として、芸術という難儀な難儀な、そして危険な白刃踊りを演ぜずにはいられないのだ――恋をしながら踊らずにいられぬという、その屈辱的な矛盾を、一度もすっかり忘れきることなしに……


ついでに、新潮文庫の高橋義孝訳も挙げると、
「いねましものを、踊らむとや」。この詩の放散する感じの憂鬱で北方的な、切実で不器用な重苦しさ、これを彼は味わい尽くしていた。ねむり……行為したり踊ったりするという義務を負うことなく、心地よく気だるくそれ自身のうちに休らっている感情、そういう感情に従って素朴に完全に生きて行きたいと願う心が一方にありながら――しかも他方では手抜かりなく気を張りつめて芸術というじつに困難な危険このうえもない白刃の舞を舞いおおせねばならぬ――恋をしながら踊らねばならぬということのうちに含まれている屈辱的な矛盾をすっかり忘れてしまうことは絶対になく。……


そして本書、河出文庫の平野卿子訳は
「ぼくは眠りたい。なのに君は躍らずにはいられない」。この詩のもつ北国特有の憂鬱さ、誠実で不器用な重苦しさは、知りすぎるくらいよく知っている。眠るとは――何かをするとか踊るとかいった義務なしに、自分のなかにある甘くけだるい感情、ただそれだけを感じて生きたいと憧れること――それなのに、踊らなければならない。軽快に巧みに、芸術という名のこの上なく難しい危険な剣の舞を。しかも、愛しているのに踊らなければならないという屈辱的な矛盾を完全に忘れることはないのだ……


実吉訳は、これだけを引用してもわかりづらいかもしれないが、情感に訴えるような部分が強いように思う。
断定が目立つ文章には変な勢いがあって、その勢いは主人公が青年のこの作品にはマッチしているよう。
そしてその勢いこそ、『トニオ・クレエゲル』を魅力的なものにし、ファンを多くつくる一因になっているのだろう。

一方の高橋訳はいかにも硬く、理知的な印象を受け、どうにもとっつきにくい。つうか訳文がわかりにくい。

そして今回の平野訳は、とにかく文章の読みやすさに気を配っているように感じた。
上述の場面だと、一番文章の意味がすっきりするのは、平野訳だ。

それ以外でも、たとえば間接話法が使われている部分で、実吉訳が「トニオは」と訳しているところを、平野訳は「ぼくは」と訳しているところもある。
そういうポイントを見るに、平野訳の方が主人公に寄り添う感が強く、そのため主人公の繊細さがより一層伝わってくるように感じられる。

あとがきに書かれていた「再会」の件についても、平野訳だけが、そのシーンでトーニオはハンスたちと再会しているわけじゃないと、はっきりわかるよう訳している(読み返したら、実吉訳と高橋訳は誤訳?だった)。
それだけでもこの訳者の誠意が見えるようだ。
訳文比較するだけで、そういうことまで見えてくるっておもしろい。


好みはあるだろうけれど、いまの時代に『トニオ・クレーゲル』を初めて読むなら、平野訳がいいと僕は感じる。
文章に一番魅力があるのは実吉訳で、僕もその訳が好きだけど、言葉が古くなっているのは否めない。

訳は変わり、たぶんそれによって、受け手の印象も変わってくる。
そう考えると、海外文学も深いよな、とつくづくと思う次第だ。



内容にも触れる。
久しぶりに読み返したけれど、何度も読み返しても、この作品には新しい発見がある。
今回読み返して気づいたこと。それはトーニオが結構めんどくさい子だということだ。

トーニオは、文学をやっている自分にいくばくかの劣等意識があり、己の不甲斐なさに悩み、内気で、どちらかと言うとどんくさい。
そう書くと、謙虚っぽく思うが、どうも領事の息子である自分の出自にプライドがあることも伝わってくる。

そんな彼は、ハンスやインゲといった、ネアカで要領がよく、文学をまともに読まない、社交性豊かな人物に惹かれている。
これは踏み込んだ意見だが、彼がハンスやインゲに惹かれるのは、自分にないものを持ち合わせているからかもしれない、と僕は思う。
劣等感を抱えた彼は、好きでもない自分と似ているもの(たとえばマグダレーナのような)を好きにはなれないのだろう。彼が好むのは、自分が嫌っている己からかけ離れたような存在なのだ。

もちろん人間である以上、好きな相手を自分のテリトリーに引き寄せたいという気持ちはある。ハンスに『ドン・カルロス』を薦めるのはいい例だ。
だが自分を嫌うトーニオは、ハンスたちに自分の好きな文学に興味をもってほしくないと、矛盾したことを考えたりもする。彼らが好きだからこそ、彼らに自分の色に染まってほしくないのだ。
「幸せは愛されることじゃない」「幸せとは愛されること」と考えるトーニオにとって、あるいはそれは矛盾ないのかもしれないけれど。
やっぱり、トーニオ、めんどくさい子だ。


でもそんな風に、ハンスたちの世界(俗界)を愛する態度は、トーニオを根無し草的存在に追いやることとなる。
トーニオは芸術の世界に属していて、その世界にいることにプライドもあるらしい。
けれど、普通を愛する彼の態度は、芸術家たちから軽く見られ、「迷子になった普通の子」と言われてしまう。
どちらの世界にもしっかりと足をつけ、属することのできないトーニオは、「必然的に道に迷ってしまう人間」なのだろう。

「必然的に道に迷」う彼は、当然それゆえに悩むことだってある。
どこにも属することのできない彼は、ある程度の成功を収めても、進むべき方向に迷いもなくはない。
だけど、そんな風に、どの世界にも属することのできず、「必然的に道に迷ってしまう」自分自身を、トーニオは最後の最後になって、受け入れていれようと決意することとなる。

たぶん時代的に考えて、作者は、芸術か、生活かという問いを、この作品の中にこめているのだろう。
けれど、そんな小難しいテーマを掲げてみても、最終的に行き着くのは、トーニオという小さな人間のアイデンティティの問題なのだ。それゆえに、この作品には確かな普遍的要素をもつのである。

そして自身のアイデンティティと、いまの自分自身を受け入れようと決意するラストの展開には、三十過ぎになったいま読み返しても、十代のときのように感動し、深く胸が震えてしまう。

人それぞれ意見もあろうが、『トーニオ・クレーガー』は本当にすばらしい作品だ、と僕は思う。
僕の中では、いままで読んできた本の中でも五指に入るほどの傑作だと思う。



ついでに書くと、併録の『マーリオと魔術師』もおもしろい。
類型的で、ラストが教訓っぽく感じられる点が引っかかるけれど、魔術師というメタファーの使い方が興味深く、魔術師の雰囲気に乗せられていく観客たちの様子のちょっと不気味なところが印象的。
いろいろ考えさせられながら、読むことができる一品である。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのトーマス・マン作品感想
 『トニオ・クレエゲル』(岩波文庫)
 『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』(新潮文庫)

『自負と偏見』 ジェイン・オースティン

2011-05-17 21:07:20 | 小説(海外作家)

イギリスの田舎町、五人姉妹のベネット家の隣に、青年紳士ビングリーが引越して来る。温和で美しい長女ジェーンと才気溢れる次女エリザベス、そして快活なビングリーとその親友で気難し屋のダーシー。ところが、エリザベスが高慢で鼻持ちならぬ男と考えていたダーシーが、実は誠実で賢明な紳士だと判った時…。二組の恋の行方と日常を鋭い観察眼とユーモアで見事に描写した名作。
中野好夫 訳
出版社:新潮社(新潮社文庫)




『自負と偏見』は主要骨格を抜き出すと、シンプルな話だと思う。
主人公は一人の紳士を徹底的に嫌うのだけど、いろいろな事件から相手のことを見直し、好きになる。
その展開は、悪く言えばベタ、よく言えば王道のストーリー展開だ。

だけどそんなわかりきったラストを迎える物語でありながら、基本的に楽しんで読むことができた。
それは細かなエピソードがいろいろと積み重ねられているからにほかならない。

エピソードの内容そのものは基本的に小さなものばかり。
だけど、恋の騒動が持ち上がったり、予想だにしない人物がくっついたり、かと思えばうまくいきそうに見えたカップルがうまくいかなかったり、と内容はそれなりに豊富。
しかも物語にはふしぎな牽引力があるので、最後まで飽きずに読み進めることができる。


そしてそんなエピソード群は、キャラクターの力で、さらに魅力を放つことになっている。
その点が本書の最大の美点だろう。

実際、この作品のキャラクターたちはどれも個性的だ。
勝気で、感情的な部分もあるが、理知的な側面も備えているエリザベス。
性善説に基づいて行動しているような心やさしいジェーン。
陽気で親切なビングリーに、マジメだけど、頑固なところもあり、人付き合いに関して、割に融通の利かないっぽいダーシー。
空気が読めず四角張った行動ばかりするコリンズ、生活はずさんだが、世渡りは上手いウィカム、軽薄で頭空っぽなリディア、など。

どれもどこにでもいそうでありながら、アクの強い人物ばかり。
こういった、人物の書き分けができるのは、作者の観察眼の賜物なのだろう。


そんな幾人かのキャラクターの中で、個人的にもっともおもしろかった人物は、ミセス・ベネットだ。

基本的にこの人はおバカである。
周りの空気を読もうとせず、自分の主張したいことを、わーわーってしゃべっているような場面が多い。エリザベスにとって、そんな母親など赤面ものなのだろう。
しかしだからこそ、他人である僕からすれば、見ていてたいそうおもしろかった。
基本的にどの人物もキャラクターが濃いため、会話のかけあいがおもしろいのだけど、ミセス・ベネットの会話の部分は特におもしろかったと思う。
周りにいたら迷惑だけど、こういう人物って好きだ。


ともあれ、物語とキャラクターとそこから生まれる会話で600ページ近くを力強く引っ張っていく作品である。
古典ではあるが、いま読んでもそれなりにおもしろい。そう思えるような内容であった。

評価:★★★(満点は★★★★★)



映画版の感想
 「プライドと偏見」

『鼻/外套/査察官』 ゴーゴリ

2011-04-28 20:56:11 | 小説(海外作家)

「正気の沙汰とは思えない奇妙きてれつな出来事、グロテスクな人物、爆発する哄笑、瑣末な細部への執拗なこだわりと幻想的ヴィジョンのごったまぜ」(解説より)。増殖する妄想と虚言の世界を新しい感覚で訳出した、ゴーゴリの代表作「鼻」、「外套」、「査察官」の3篇。
浦雅春 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




ゴーゴリはむかし、『外套・鼻』を岩波文庫で読んだことがある。けれど、そのときはさほどおもしろいと思わなかった。せいぜい、ちょっとした小話だな、と思った程度である。
だが今回読み直してみると、これはこれで結構おもしろい、と感じられる。

たぶんそれは、落語調で訳されているということが大きいのだろう。
実際、文章はとってもリズミカルで、口調も親しみやすい。おかげで、物語を楽しく追うことができるのだ。
そこで展開される話は、奇妙であり、同時にところどころで生々しく、変な力を持っている。


『鼻』はとにかくシュールな作品だ。

内容はそんなアホな、って思うほどむちゃくちゃで、読んでいて引いてしまう場面もある。ラストだって、とんでもない代物で、そんなメタなオチはどうよ、って注文もつけたくなる。
しかしそのバカバカしさがおもしろく、読んでいる間、ちょっとニヤニヤしてしまったのも事実。

人を選ぶだろうけれど、こういう作品もありかもしれないとちょっとだけ思えてくる。


『外套』は以前読んだときは、ほとんど印象に残らなかったのだけど、今回読んでみると、思った以上に強い印象を残す作品だったのだ、と思い知らされる。
そして同時に気持ちがへこんでしまうような作品だったのだ、と教えられる。
そう感じたのはすべて、主人公の外套が奪われるシーンにショックを受けたことが大きい。

主人公の小役人は、外套を得るために地道な努力を積み重ねてきた。そして苦労の末、外套を手にしたときは、多幸感に包まれていた。
そんな彼の感情に僕は共感を覚えながら読んでいたものである。

それだけに、あの結末には愕然とするほかなかった。あれではあまりにかわいそうじゃないか、と僕は強く思ってしまう。
そのつらい印象がいつまでも残り、シュールなオチのわりに、読後感は個人的には苦かった。
しかし裏を返せば、本作はそれだけ心をゆさぶられる一品だったということなのだろう。
いい悪いはともかく、それは認めざるをえないな、と感じる次第だ。


『査察官』は今回初読で、本作中もっともおもしろい作品だった。
この本全体の評価を★5としたが、その理由はこの『査察官』の存在に尽きる。

『査察官』が書かれたのは、百年以上も前なのだけど、現代を生きる僕が読んでも笑える作品だった。
笑いは時代と共に、変わっていくけれど、この作品の笑いはいまなお古びていない。
たぶん、それは人間ってやつのバカバカしさが前面に出てきており、それを作者は(自覚的かはともかく)徹底的に笑い飛ばしているからかもしれない、そんな風に思うのだ。

『査察官』は、ペテルブルグから査察官がやって来たと思い込んだ市長と、査察官にまちがえられた小役人との間で起こる勘違いによる騒動を、喜劇的なタッチで描いた作品だ。

その騒動で、市長側は賄賂などの後ろめたい行為をかくそうと、なりふりかまわず行動する。
そのドタバタも充分におもしろいのだけど、本作では、何と言っても、査察官にまちがえられるフレスタコフのキャラクターが光っていた。

フレスタコフは、すぐ調子に乗る。
査察官にまちがえられている事実を深く考えようとせず、ちやほやされるにまかせて、すぐにわかりそうなホラを平気で吹きまくる。
しかも、がっかりしてしまうくらいに小者だから、手に負えない。
文句を言いながらスープを食べるシーンとか、少しずつ無心する金の額を上げるところは、アホっぽさが出ていて、大いに笑ってしまう。

市長たちもフレスタコフも、一言で片づけるなら、どちらもしょーもないやつらばかりだ。
彼らを見てると、人間って本当にくだらない、と思う。人間は結局進化しない生き物なのかもしれない。

そんな事実を楽しく、バカバカしく描いていて、おもしろい。その点、本作は現代でも普遍性を持っている。
途中失速するポイントがあるし、オチも読めるけれど、それを補って余りある愉快な一品であった。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

『権力と栄光』 グレアム・グリーン

2011-04-05 20:37:10 | 小説(海外作家)

戒律を冒した神父はそれでも神聖なのか?酒を手放せず、農家の女と関係を持ち私生児までもうけてしまう通称「ウィスキー坊主」は、教会を悪と信じる警部の執拗な追跡を受け、道なき道を行く必死の逃亡を続けていた。だが、逮捕を焦る警部が、なじみの神父を匿う信心深い村人を見せしめに射殺し始めた時、神父は大きな決断を迫られる―共産主義革命の嵐が吹き荒れる灼熱の1930年代メキシコを舞台にした巨匠の最高傑作。
斎藤数衛 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)




『権力と栄光』は数年前に読んで挫折した作品である。
今回改めて読み返してみて、なぜむかしの自分が挫折してしまったかがよくわかった。

たとえば第一部などは、視点が変わってしまうため、物語を整理するのが厄介に感じるし、メキシコ革命後のメキシコの知識に乏しいということもあって、物語そのものに乗り切れないきらいがある。
物語のテーマも、キリスト教関連ということもあり、非キリスト教徒の僕は興味を惹かれない。

構成は考えて組み立てられているのはわかるけれど、モチーフ自体は僕の趣味ではないのだ。
本書について端的に結論づけるなら、そういうことになる。


僕はメキシコ史を知らないので、本書を読んで初めて知ることも多かったが、メキシコではキリスト教に対して、ずいぶんひどい迫害が起きていたようだ。
『権力と栄光』の中では、その迫害から逃れるため、一人の司祭が逃亡することとなっている。

そう書くと、『逃亡者』的でちょっとかっこよさげにも見える。
けれど、彼が逃亡するのは、権力に反抗するとか、キリスト教の火を絶やさないためとか、そういう英雄的な行為とはちょっとちがうのだ。
彼が逃げる第一の理由は、命惜しさからだと僕個人は思っている。

そもそもこの司祭、ことウィスキー坊主は神に仕える身のくせして、アルコール中毒なのだ。それだけでも戒律を破っているのに、さらには女との間に子まで成している。
その姿は人間らしいのだけど、聖職者と言うには、あまりに俗っぽい。


でも彼は逃亡こそすれ、ホセ神父のように権力に屈するような真似はしていない。
彼は自分の命が惜しいはずだ、と僕は思っている。それでも権力相手にしっぽをふらないのは、自分の義務というものを知っているからではないか。
よりつっこんで言うなら、彼は聖職者という役割から、すでに抜け出せなくなっているのかもしれないのだ。

彼は聖職者としての誇りや優越感を持っている。恐怖を感じるときは、神への祈りを口にする。理不尽にしか見えない神の愛について考察し、警部相手に話したりもする。

そういうシーンをいくつも読んでいると、彼はどれだけ弱く、俗っぽくて、頼りなくても、結局のところ聖職者以外の何ものでもないのだな、と感じてしまう。
彼は司祭という役割に忠実でありつづけることしかできなかったのかもしれない。
そして、そういう忠実でありつづけるしかないところこそ、一つの弱さの証明かもしれない、と僕は誤読してしまう。


そのウィスキー坊主は、最後の場面で俗な存在から聖の存在へと転換することになる。
その転換を勝利と見るべきか、救いと見るべきか、皮肉と見るべきかは難しい。

しかしその後も生きる人にとって、彼の存在は伝説になり、勇気を与えたかもしれない。
それが善いこととも思えないが、物事の帰結としてはなかなか美しいと、読み終えて僕は感じるのである。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『越境』 コーマック・マッカーシー

2011-03-29 19:48:23 | 小説(海外作家)

十六歳のビリーは、家畜を襲っていた牝狼を罠で捕らえた。いまや近隣で狼は珍しく、メキシコから越境してきたに違いない。父の指示には反するものの、彼は傷つきながらも気高い狼を故郷の山に帰してやりたいとの強い衝動を感じた。そして彼は、家族には何も告げずに、牝狼を連れて不法に国境を越えてしまう。長い旅路の果てに底なしの哀しみが待ち受けているとも知らず―孤高の巨匠が描き上げる、美しく残酷な青春小説。
黒原敏行 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)




マッカーシーの多くの作品がそうであるように、本作の文体もとことんクールで、冷酷ですらある。

例によって作中では多くの血が流され、死を迎えるものも多い。
マッカーシーはそれに対して、とやかく言わず、感情を徹底的に排除して描き上げるばかりだ。
その文体は、まっとうな倫理が通用しないこともある(もちろん親切な人間も多く登場するが)メキシコという土地を描く上で、非常にマッチしている。

その分、作中からは圧倒的な過酷さが伝わってきて、非常に胸苦しい思いを抱いてしまう。
読みづらいのだけど、この文体はひとつの魅力だろう。


物語は、ニュー・メキシコに暮らすビリーという少年がメキシコに、様々な理由から越境する話である。

文章が読みづらい上に、ところどころに哲学的な挿話をはさんでいるので、ゆっくり読まないといけないのだが、物語自体は結構おもしろい。
緊張感のある場面があってドキドキするし、トルティーヤはとってもおいしそうだ。


さて本作で個人的に強く惹かれたのは、1章の、罠にかけ捕らえた牝狼をメキシコに連れていく話である。

その中で、捕まえた牝狼をビリーがメキシコに連れていく理由は、まったく書かれていない。
その理由は、狼を命がけで捕まえたことで、きずなのようなものを感じたからかもしれないし、妊娠している狼に同情したからかもしれない。
あるいは深読みだが、人間には理解できない狼の世界を知りたいと願ったからかもしれない。それを通して、ビリーは人間には知り得ない、世界、そのものに近づこうとしたのでは、って気もする。

それはそれとして、旅を通じて、ビリーは牝狼に対して共感めいたものを覚えていくこととなる。その過程がすばらしい。
川を渡るときに手助けするところとか、牝狼にしょっちゅう語りかけるところ、不法越境を理由に没収された狼を取り戻そうと奮闘するところなどは、牝狼に対するビリーの愛情が伝わってきて、心に届く。

それだけにあのような結末を迎えたことに、ただただ愕然とするしかなかった。
その場面でのビリーの感情はやはりまったく描かれず、ただ行動のみが描写されるだけだ。
だけどそこからはビリーの空虚な思いと、悲しみとがしんしんと伝わってくる。その点が一読忘れがたい。


2章に入り、ビリーはアメリカに帰ることになるが、そんな彼をさらなる苦難が襲うこととなる。
解説にもちょろっと触れられているが、そのように苦難を背負うことで、ビリーは不可知的な世界、あるいは神というものに対して、肉薄しようとしているのだ、と僕には感じられた。

ビリーは両親が殺され、馬を盗まれたことを知る。弟のボイドはその事件を、「起きちまったことは仕方ない」と語っているが、彼はあくまで父親の馬を取り戻そうと決意することとなる。
それは、教会の老人と同じく、不可知的な、世界(あるいは運命)、に対して反抗するのと、構図的には似ている。


だが世界はビリーに対して必ずしも優しいわけではない。
弟とは離れ離れになってしまうし、旅の目的は果たせず、盗賊に襲われることだってある。

その理不尽な世界のあり方に対して、人はどうすることもできないのだろう。
そして理不尽な現実を、系統立てて捉え、事態に備えることも不可能なのだ。

盲目の老人の挿話ではないが(ちょっとハイデガーっぽい)、「人間の知りうる世界が世界についての像だけであり」、世界はただ存在するだけでしかないからだ。

すべての価値観や理不尽な現実はただ起こるだけのものでしかない。
それをひどいと思ったり、正義だなんだ、と定義づけて、理不尽な事態を非難することは、結局のところ個人の認識の差異である、というだけの話なのだ。


けれど、そんなニヒリズム的な結論で片づけてしまうのは、あまりに残酷という気もしなくはないのだ。
世界が誰にも知ることができない、ただ存在し、物事が起きるだけのものでしかなく、人間が「不可解な存在」でしかないのだとしたら、人は何を基準に行動し続ければいいのだろう。

『越境』は、そんな僕が読解し解釈した(誤読の可能性大)ことに対する答えはない。
マッカーシーはよけいな説明をつけず、ただ起きたできごとを、スリリングな形で提示するだけだ。

しかしながら、僕はラストシーンの朝日に一つの根拠のない希望を感じるのである。
ビリーは「不可解な闇の中で立ちつくし」泣いた。しかしそんな後でも、「神の創った本物の太陽がもう一度、分け隔てなく全てのもののために昇」ることもあるのだろう。
世界が認識によって変わるのなら、そのシーンに根拠もなく、希望を見出すことも個人の自由であり、一つの世界に対する解釈かもしれない。

ともあれ、個人的には難しいなりに、なかなか楽しく読むことができた。
マッカーシーの存在感を見せ付ける作品である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのコーマック・マッカーシー作品感想
 『ザ・ロード』
 『すべての美しい馬』
 『血と暴力の国』
 『ブラッド・メリディアン』

『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ (再読)

2011-03-28 19:48:01 | 小説(海外作家)

優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘールシャムの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度...。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく―全読書人の魂を揺さぶる、ブッカー賞作家の新たなる代表作。
土屋政雄 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)




いい作品だと思うし、世評の高い作品で、その実力も充分納得できる。
けれど、個人的にはいまひとつ入り込めない。
それが前回、本作を読んだときに感じたことだ。

そして再読しても、その印象自体は覆らなかった。
どうやら僕と『わたしを離さないで』とは相性が悪いらしい。いい作品であることは断言できるのだけど。


本書をネタばれ抜きで書くのは難しいのだが、「提供」というものが行なわれている世界で、それを行なうよう定められた少年少女たちの姿を描いている。
そして後々になって、彼らが社会的に疎外され、嫌悪感をもって見られていることが語られていく。

だが異常視され、差別的な扱いを受けるキャシーやルースやトミーたちは、本当に普通の人間でしかない。
そこにある行動も思考も、嫉妬も反発も、すべて普遍的な人間の感情そのものだ。
冒頭の学校の場面で言うなら、ルースに対するいじめや、それを黙認していることに後ろめたく思うキャシーの感情などは現実にありそうである。
その心理の動きはあまりに人間らしい。

また気の強いルースのような女の子も普通にいそうなキャラだ。
個人的にはルースとキャシーの関係が興味深い。
ルースとキャシーの感情的なぶつかり合いは、男の僕には、ただただ恐ろしく見える。『ダンス曲二十選』のテープを渡すところとか、なかなか美しい場面があるのに、二人の感情の交差はそんなに単純ではないのだ。
「わたしがルースに強く惹かれていて、裏切れなかった」と語るキャシーの感情を、男の僕では必ずしも理解しきれない(逆に言えばそれを描ききったイシグロはすごい)。
だが理解できなくとも、ふしぎと興味をひきつけるのは、そこにしっかりとしたリアリティがあるからだろう。
そして、そんな女性同士の反発と共感は洋の東西を問わず、起こりうることでもある。

そんな彼らの心情と行動を描くイシグロの筆致は、あくまで繊細で流麗である。
いちいちは挙げないが、人間の感情の普遍性を感じさせる場面は、上記以外にも多い。


それだけに、「提供」をめぐる、世界の異常さが際立ってくるのだ。

物語の途中で、男と女が本当に愛し合っていて、それを証明できれば、「提供」を猶予してもらえる、という話が出てくる。
「提供」という異常事態を阻止する手立てが、そういう当たり前の人間の行動で証明するしかないのだ、としたら、これほど奇異で理不尽な話はないだろう。
だがもっと理不尽なのは、そんな普遍的な感情を相手に示しても、異常事態を止める術が彼らにないということかもしれない。

当たり前の暮らしをしていても、大きな物事を変えることはできない。その事実はあまりに残酷だ。


そう考えると、「提供」というのは、暗喩なのかもしれない、と思えてくる。
一つの定められた理不尽な運命は容易に覆るものではない。
そんな世界の現実を、抽象的に捉えていると見えなくもないからだ。
この作品は、表面で見える以上に大きなものを包み込んでいるのかもしれない。

そしてそのような理不尽な状況下にキャシーたちが置かれているからこそ、彼らの美しくもあり、醜くもある、普通の感情がこの上なくキラキラと輝いて見えるのだ。

個人の趣味はともかくとして、そのきらめきを丁寧にすくい取り、確実に描ききっている点が、非常に印象に残る一品である。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかのカズオ・イシグロ作品感想
 『日の名残り』
 『わたしたちが孤児だったころ』
 『わたしを離さないで』(初読時感想)

『白檀の刑』 莫言

2011-01-20 20:47:41 | 小説(海外作家)

清朝末期、膠州湾一帯を租借したドイツ人の暴虐の果てに妻子と隣人を奪われた孫丙は、怒り心頭し鉄道敷設現場を襲撃する。近代装備の軍隊による非道な行いの前には、人の尊厳はありえないのか。哀切な猫腔が響き渡り、壮大な歴史絵巻が花開く。現代中国文学の最高峰と誉れ高い莫言文学、待望の文庫化。
吉田富夫 訳
出版社:中央公論新社(中公文庫)




中国の作家、莫言の作品を読むのは今回が初めてである。
そのためだろうか、最初はこの作家のテンションになかなかなじめなかった。

たとえば、第一章の「眉娘の繰り言」。
この章の語り手は察するに、未来から過去をふり返って語っているようである。だがところどころで時制がごちゃついており、読んでいる間違和感を覚えてしまった。
それに語り手のテンションがいやに高いから、どうも引いて読んでしまう。
加えて腹部の章は時系列が錯綜しているせいもあり、頭の中で物語を整理するのが大変だった。

だが読み進めるにつれ、そういう瑣末な点も気にならなくなってくるのだ。
それは結局のところ、この小説が大変大きな世界を描いているからだろう。
作品そのものには独特の雰囲気があり、読み手をぐいぐいと引き寄せるパワーがある。
読み終えた後には、莫言という作家の実力に圧倒されるほかなかった。


舞台は清朝末期で西太后が実権を握っているころだ。そんな情勢の中ドイツ人を殺した孫丙に対し未曾有の極刑をもたらすため、処刑のプロとも言うべき男を呼び寄せる。それが大まかなストーリーだ。

さてそういう血なまぐさい処刑を行おうとする時点でもわかりそうだが、この物語中では、人々の価値観がずいぶんゆがんでいる。
現代の日本人である僕からすると、驚き、眉をひそめてしまうようなものばかりだ。

金を着服し、上にこびへつらい目下の者には尊大な態度を取るくらいは、かわいいもの。
さらにひどいのになると、人の命を軽々しく扱って、憚らなかったりするのだ。
それはある意味、中国的価値観という気もするけど、それでもすごいな、と思ってしまう。

中でも、処刑に関する考えには驚いてしまった。
処刑をする人間は、受刑者に対し、いかに長く苦痛を味わわせるかを考え、工夫を凝らそうとする。もうその考えの時点で、ひどいと思う。
この小説には、「閻魔の閂」とか「凌遅刑」「白檀の刑」といくつかの処刑法が出てくるが、どれも非人道的でえぐく、グロテスクなものばかりだ。
人はここまで残酷なものを考え出せるのか、と逆に感心すらしてしまう。

しかしそういう過酷なことを行なっている処刑人の趙甲だって、実のところ、それはつらいことでもあるのだ。
どんな刑罰を受けても、悲鳴をあげないよう、必死に耐え忍んでいる罪人に対し、苦痛の叫びをあげてくれ、と不安げに思うところなどはそれを象徴しているように思う。
ヒューマニティくらいは彼にだってある。

だがヒューマニティはその実、とってももろいものだったりする。
実際、趙甲は他者を虐げることに、ある種の苦痛を感じながら、その残酷さに快楽を見出してもいるからだ。
その快楽は人間がもつ残虐性を表していると言えなくもない。

だけど、こういったゆがんだ価値観がまかり通る、狂った世界では、そのような形でしか、心のバランスを保てないのかもしれない。


でもそれは、虐げる側だから言える論理なのかもしれない、とも同時に思うのだ。
虐げられる側に回ってしまったとき、それはもう理不尽以外の何ものでもないのだろう。

孫丙はドイツ人を敵に回したが、それは嫁がドイツ兵にレイプされそうになったため、というまっとうな理由があるのだ。だからそのドイツ人を半殺しにし、ドイツが中心になって進める鉄道工事の現場を襲撃した。
やり方はともかく、孫丙の気持ちは充分理解できる。
でもそのつけは大きく、報復によりドイツ兵や清朝の軍に攻められた末、孫丙に関わった村人の多くが虐殺される。
こんなのありか、と思ってしまうほど、理不尽な話だ。
そのあげくに、当人も処刑されるのだから、あまりにむごく、やりきれない。

そんな不条理な世界の中で、県知事の銭丁は、孫丙のことや、百姓たち民衆を守ることを考えている。
けれど、気弱な彼は、そのために命を張るほどの行動をとることができない。命惜しさに(仕方ない話だけど)、袁世凱ら、上の命令に従うばかりなのだ。

また、処刑される師匠のため、孫丙の仲間たちが、猫腔という田舎芝居を処刑場で演じる場面がある。
それは非常にすばらしく、民衆の力を感じさせる場面で心震えるのだが、それも呆気なく、残酷な方法で軍の手により止めさせられる。
くりかえすが、それは本当に理不尽な話だと思う。


この世界では、力ある者が全てを左右し、力ない者は、力がないことを理由に虐げられるばかりなのだ。
ここでは、正しさではなく、力の有無がことの次第を決定するらしい。
本当にいやな話だとは思う。でもまぎれもない事実でもある。


では、人々は虐げられて、それでそのまま泣き寝入るしか道はないのか。
ある場合には、それ以外の道はないのだろう。
だがどこかのタイミングで、彼らは彼なりの誇りを示すことはできる。

処刑の場面で孫丙は猫腔を歌い、銭丁はドイツ兵と袁世凱の鼻を明かすため、一つの決断をする。
それははっきり言って、本当にささやかな抵抗でしかない。
しかし虐げられる側にもプライドがあることを示す大事な行為だ。

虐げる側には力がある。だが虐げられる側にも、それとはちがった力がある。
そんなことを感じさせるパワフルな一品である。
何はともあれ、実に見事な作品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)