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現代の名匠による衝撃の結末は世界中の読者の感動を呼び、小説愛好家たちを唸らせた。究極のラブストーリーとして、現代文学の到達点として――。始まりは1935年、イギリス地方旧家。タリス家の末娘ブライオニーは、最愛の兄のために劇の上演を準備していた。じれったいほど優美に、精緻に描かれる時間の果てに、13歳の少女が目撃した光景とは。傑作の名に恥じぬ、著者代表作の開幕。
イギリスのブッカー賞受賞作家イアン・マキューアンの作品。
小山太一 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)
人によってはこの小説にもどかしさを覚える人もいるだろう。
第一部などは心理小説とも言うべき細やかな筆で人物の内面を描き出しており、物語の展開する速度は恐ろしく遅い。僕は逆にそれが心地よくすらあったが、たるいと感じる人もいるのではないだろうか。
それにラストは物語の真相が語られるわりにはカタルシスに乏しく幾分肩透かしを食わせる面もあるし、僕は実際そう感じた。
だがラストで明かされた物語の構造を頼りに一から振り返ってみると、この作品が恐ろしく緊密な構成のもとに書き上げられたものか気付かされる。
たとえば第一部の構成などはどうだろう。それは意識の流れを念頭に置いた細緻な小説であるが、それがそのような小説を求めていたブライオニーが書いた小説だとわかる、と仕掛けのスケールの大きさに圧倒される。
その才筆には脱帽するほかにない。
この作品は芸術家が自分の罪の確認のため、事実を再構成しつくり上げた執念の作品といえるだろう。
そういった面がわかってくると、いろんな点で第一部の文体以上に徹底した細部へのこだわりが見えてくる。
たとえば、第二部で、戦場にいるロビーを丁寧に映し出されているが、それも自分がそのような場所へロビーを追いやったという事実を後追いしたために、選んで書いているように見える。
特に「ブライオニーを憎むのは理性的でも正しいことでもなかったが、憎しみは駐屯生活を耐えやすくしてくれた」とロビーに思わせるところなどは、後ろめたさを抱きながらも、それを誠実に想像して書こうと試みている作家の姿勢が伝わってきて、背筋が震えるものがあった。
だが罪だけを執拗に描くだけではなく、芸術家の意地として物語に昇華しようとしている点がすばらしい。
たとえば最初の方で少女期のブライオニーに創作理論を語らせているところにその姿勢は見受けられる。
「人間を不幸にするのは邪悪さや陰謀だけではなく、錯誤や誤解が不幸を生む場合もあり、そして何よりも、他人も自分と同じくリアルであるという単純な事実を理解しそこねるからこそ人間の不幸は生まれるのだ。人々の個々の精神に分け入り、それらが同等の価値を持っていることを示せるのは物語だけなのだ」
という言葉には深い意味合いがあるのではないだろうか。
そしてだからこそ、「神でもある小説家」が若い二人を幸福にしたのは、胸を打つものがある。二人を救えるのは物語の中だけでしかないからだ。
「ふたりが二度と会わなかったこと、愛が成就しなかったことを信じたい人間などいるだろうか?」
「わたしの最終タイプ原稿がたったひとつ生き残っているかぎり、自恃の心強き、幸運なわたしの姉と彼女の医師王子は生きて愛しつづけるのだ」
という言葉はなかなか感動的である。
そしてそうしながらも、自分自身に贖罪を与えなかった作家の姿勢に深い誠意を見出すことができる。
しかし作家も人間であり、自分にだけ罪をかぶる真似ができるわけではない。
たとえばエミリーに語らせるローラ評には、ブライオニーの恨みつらみが見えるようだし、ロビーがフラマン女を思い返したときに「人間は、思い上がった自責の念ゆえに必要以上の罪を背負い込むこともある」と語らせるシーンには自己弁護が見えてくるようだ。
そしてそういった態度も含めて、ほぼ完璧に組み立てられていることにため息をこぼすほかない。
マキューアンという作家の大きさをこの作品を通して知らされた思いだ。
ブッカー賞受賞作の『アムステルダム』よりもこちらの方が断然好きである。
評価:★★★★★(満点は★★★★★)
そのほかのイアン・マキューアン作品感想
『アムステルダム』
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