goo blog サービス終了のお知らせ 

私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

ゾラ『居酒屋』

2014-05-13 20:53:25 | 小説(海外作家)

洗濯女ジェルヴェーズは、二人の子供と共に、帽子屋ランチエに棄てられ、ブリキ職人クーポーと結婚する。彼女は洗濯屋を開くことを夢見て死にもの狂いで働き、慎ましい幸福を得るが、そこに再びランチエが割り込んでくる……。《ルーゴン・マッカール叢書》の第7巻にあたる本書は、19世紀パリ下層階級の悲惨な人間群像を描き出し、ゾラを自然主義文学の中心作家たらしめた力作。
古賀照一 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




『居酒屋』という作品を端的にまとめるなら、一人の女の転落劇と言えるだろう。
その過程には大変臨場感があり、目を見張るものがあった。
波乱万丈で、内容の悲惨さはともかく、おもしろい作品である。



主人公のジェルヴェーズは夫に逃げられた若い女だ。
彼女はクーポーという男と再婚し洗濯屋を始める。夫婦ともマジメに仕事を続けるが、夫の骨折を機にゆるやかに転落していく。

読み終えた後には、どうしてここまで転落しなければいけなかったのだろうと、戸惑いすら覚えるほどジェルヴェーズは落ちていく。

陣痛も我慢して働いていたほど、仕事熱心な女なのに後半は見る影もない。
最初の方のジェルヴェーズとクーポーは仲睦まじい夫婦だった。それなのに、晩年の色褪せっぷりは半端ではない。


しかしちょっとした運命の歯車の狂いにより、最初はゆっくり、しかし終いには取り返しのつかないレベルにまで落ち込んでしまう。

この作品で言うならクーポーの骨折が大きいだろう。
そこから男の働く意欲が薄れてしまう。男は酒を覚え、稼ぎも悪いのに人に奢る始末。

ジェルヴェーズは健気に夫を支えるという良い女っぷりを発揮するが、彼女もやがて少しずつ夫に引きずられるようになる。


きっかけはいつも些細だ。
そしてそれを生み出すのは一時の気の迷いか、相手に対する甘さとも見える。
しかしそれがいつしか常態化してしまう。

もっと最初から夫にきつくしていれば、金の支払いをしっかりしていれば、元夫をうちに入れなければ、など、細かな点を挙げればキリがない。

店を失ったのも、仕事がもらえなくなったのも自業自得と言えば、そうである。
ロリユの女房は嫌なヤツだが、結果的には彼女らのマジメさが正しかったというのも皮肉としか言いようがない。
結局、自分や相手に対する甘さをいかに常態化しないかということなのだろう。


教訓はたくさん得られる。ジェルヴェーズは立派な反面教師だ。
だがそれを置いても、こんな運命に落ち込んでしまったジェルヴェーズに、一抹の同情を覚えるのである。

ともあれ人間の愚かさと悲しさを見出せる一品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

パヴェーゼ『美しい夏』

2014-05-10 19:58:00 | 小説(海外作家)

都会で働く一六歳のジーニアと一九歳のアメーリア。二人の女の孤独な青春を描いた本書は、ファシズム体制下の一九四〇年、著者三一歳の作品。四九年にようやく刊行され、翌年イタリア最高の文学賞ストレーガ賞を受賞。
河島英昭 訳
出版社:岩波書店(岩波文庫)




この作品は何と言っても文章が良い。

「あのころはいつもお祭りだった。家を出て通りを横切れば、もう夢中になれたし、何もかも美しくて、、、、」
で始まる文章は大層美しく、心をぐっと引き寄せられる。

その文体は、細かな内面描写などははぶき、必要最低限の情報だけを積み上げて描いていくというものだ。
そのため、女性主人公なのにどことなく硬質な印象があり、なかなかおもしろい。
原文は知らないが、好きなタイプの文章である。


主人公のジーニアは思春期の少女だ。
彼女は女友達のローザなどがすでに男性と関係を結んでいるのに、そういうことも知らずにいる自分に、かすかな焦りのようなものも感じているらしい。

そんなときアメーリアと親しく行動するようになる。アメーリアはカフェに行くなど、ジーニアにはない大人びたところのある女性だ。加えてモデルをするなど、男性の前で裸になるような仕事もしている。
そういった諸々は、子供じみたところもあるジーニアには体験したことのない世界だ。
そうしてジーニアはアメーリアに導かれるように大人の女の世界へと踏み入っていく。


ジーニアは経験の差などから、アメーリアに対して卑屈になったり、微妙なわだかまりを覚えたりしている。
そういった心理的な距離感などはおもしろく読める。

そして好きな男と出会い恋に落ちる展開は、いかにも思春期の少女らしい。
そして彼女は大人の女ともなる。
そのときの微妙な心理的な葛藤なりも興味深く読み進められた。

彼女にとっては、どれをとっても、お祭りのように輝かしい体験だったことだろう。


だが輝かしい体験の多くがそうであるように、それはいつまでも輝かしいわけではない。
ジーニアはいつかグィードの心が離れていくかもしれないことを恐れているし、アメーリアの方にも深刻な問題が発生する。

それでもジーニアはグィードの心をつなぎとめるためにモデルになるが、それも他の男に見られたことで、グィードの裏切りを感じてしまう。
そういう風に見てみると、ある意味これは失望に至る物語かもしれないと思えてくる。

それでもジーニアの元に、アメーリアは来てくれたことが、その夏の終焉の中で、救いとなりえているのかもしれない。

上手く書けないが、少女たちのつながりが印象に残る一品である。

評価:★★★(満点は★★★★★)

ヘルマン・ヘッセ『シッダルタ』

2014-04-10 21:13:35 | 小説(海外作家)

シッダルタは学問と修行を積み、聖賢になる道を順調に歩んでいた。だが、その心は一時として満たされることはなかった。やがて俗界にくだったシッダルタだったが…。深いインド研究と詩的直観とが融合して生み出された“東洋の心”の結晶とも言うべき人生探求の物語。原文の格調高い調べを見事な日本語に移した達意の訳。
手塚富雄 訳
出版社:岩波書店(岩波文庫)




ヘッセの代表作の一つと言えば『デミアン』だが、同じく代表作と目される『車輪の下』に比べると、個人的には好きになれなかった。
それはどこか説教くさいところが引っかかり、物語に没頭できなかったからである。

『シッダルタ』を読み終えた後に感じたことは、『デミアン』とほぼ同じだ。

好みでははない。
結局一言で言えばそういうことになるのだろう。
もちろん悪い作品ではないのだが、こればかりは仕様がないことだ。


『シッダルタ』はシッダルタという人間の魂の遍歴を描いた作品だ。
そのタイトルから、最初ゴータマ・シッダルタの生涯を描いた作品だと思っていたが、仏陀ことゴータマは別にいて、シッダルタはゴータマと同時代の別人という設定である。


ここで展開される思想は、ヒンドゥー教や仏教で見られる梵我一如の思想であるらしい。

シッダルタは長い修業の末、滅我によっては苦悩は減らないと感じ、自己の存在をもっと見つめることが重要だと感じるようになる。
自分なりに解釈するならば、内省的になり、自分の内の中に「避難所」を設けることで、人生の苦悩から離れようという考えであるらしい。

しかしそれでも苦悩や虚しさを感じるらしく、再び自己探求の旅に出る。
その結果、現在の状態を受け入れることが重要だと見出すようになる。
「求める」のではなく、「見出す」ことでの、自己救済である。
そうすることで、世の中のすべての事物の中に、ブラフマンがいると感じるようになるのだ。

最終結論は、現状を肯定的に受け止め、世の中を愛していこうといったところだろうか。
違うかもしれないが、そう感じたから仕様がない。

そして同時に、やはりこの話は説教くさいと思う。


結局、本書は、主人公が梵我一如を見出す話である。
そんな内容があまりに抹香臭くて心に響いてこないのが残念だ。

だがその結論に至るまでの、精神的なモチベーションは筋道が通っている。
それに思想を語る作品として、あるいは雰囲気を語る作品として、味わいがあるとも思う。

好みではないが、『デミアン』同様、ヘッセらしさが存分に出た作品と言えるのかもしれない。

評価:★★(満点は★★★★★)



そのほかのヘルマン・ヘッセ作品感想
 『車輪の下』

ブッツァーティ『タタール人の砂漠』

2014-03-30 18:07:27 | 小説(海外作家)

辺境の砦でいつ来襲するともわからない敵を待ちつつ、緊張と不安の中で青春を浪費する将校ジョヴァンニ・ドローゴ―。神秘的、幻想的な作風でカフカの再来と称される、現代イタリア文学の鬼才ブッツァーティ(一九〇六‐七二)の代表作。二十世紀幻想文学の古典。
脇功 訳
出版社:岩波書店(岩波文庫)




寓話的な味わいの作品である。
そんな寓意を通して見えてくるのは、誰にでも起こりうる人生の真実と言ってもいい。
その暗喩がぐっと胸に響く作品であった。


将校のドローゴは辺境の砦に配置される。
彼はそんな辺境の地からは抜け出したいと思うのだが、迫り来るかもしれないタタール人の存在に、英雄願望を刺激され、砦の任務を継続する。そして何も起こらないまま、時間だけが浪費されていく。
内容をざっくり記すならそうなる。

作品に描かれている寓意を平たく言うならば、人生に対する失望、もしくは青春の挫折、現実の前に敗れる夢想、そんなところだろうと思う。


ドローゴは何の娯楽もない砦の任務が嫌で、転任を願い出る。
砦の細かな規則にこだわっていたり、来る当てもない敵をやたら口にして、同じことをくり返す同僚のことを醒めた視線で見ている節がある。
彼らが来るかもわからない敵の到来を「期待する」のは、凡庸な運命になじめず、人生に「一度は訪れる奇跡の時」が来るのを待ち望んでいるからだ、とドローゴは看破している。

個人的なことを言うと、同僚たちの気持ちはわからなくはないのだ。
生きている以上、平凡なだけで終わりたくない、大きなことをしたい、とは僕にだって思うときもある。

そしてそれは主人公のドローゴも同じなのである。
そして彼は「大いなる出来事の予感」を求めて(だろうと思う)、砦に残ることとなる。


だが彼が期待したような奇跡は訪れない。
そうして彼もほかの砦の将校たちと同様、奇跡を待つことで、人生の盛りを浪費していくこととなる。

最初は先が長いと思っていたが、時間はどんどん彼の人生を奪っていく。
そしてかつて居た場所に馴染めなくなり、辺境の砦以外で生活できなくなってしまう。
加えて状況的に、抜け出したくても抜け出せなくなるまで追い詰められてしまうのだ。
その逃げ場が失われていく過程が、どこか悲しい。

そうして彼の期待は空振りを続け、ついには死が迫る年齢まで時間が経ってしまう。
その取り返しのつかなさには愕然とするほかない。
読んでいると、胸が苦しくなってしまう。何か他人事には思えない。


そんな風に希望が失望へと変化していく中、最後の最後になって、本当に待ち続けた敵が砦に迫って来ることが判明する。
ドローゴにとっては待ちに待った瞬間だろう。

しかし彼は、その希望がかなう瞬間でさえ、失望を強いられることになる。
その人生の理不尽な様があまりにつらく悲しい。

それはあんまりだろ、と思うが、人生はそういった失望の連続なのかもしれない。
「人生からすべてを望むことなどできはしない」ということなのだろう。


そんな彼はせめて死に対して雄々しくふるまおうとしている。
だがそれも「戦さの幻影」が「砦での生活に意味を与えるための口実」であったように、意味のない錯誤なのかもしれない。

しかしそんなドローゴの態度を誰が責められようか。
それをせざるをえないのは、一人の人間の弱さかもしれない。

そんな苦みのある展開が深く胸に沁みる作品である。見事な一品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



その他のディーノ・ブッツァーティ作品感想
 『神を見た犬』

チアヌ・アチェベ『崩れゆく絆』

2014-03-14 06:02:57 | 小説(海外作家)

古くからの呪術や慣習が根づく大地で、黙々と畑を耕し、獰猛に戦い、一代で名声と財産を築いた男オコンクウォ。しかし彼の誇りと、村の人々の生活を蝕み始めたのは、凶作でも戦争でもなく、新しい宗教の形で忍び寄る欧州の植民地支配だった。「アフリカ文学の父」の最高傑作。
粟飯原文子 訳
出版社:光文社(光文社古典新訳文庫)




アフリカ人の目から、アフリカ社会と西洋の流入と侵略を描いた作品である。
その視線が新鮮で、なかなか楽しい作品であった。


実際この小説にはいくつかのアフリカの風俗が描かれていて興味深い。
ウムオフィアの祭の話や、信仰している神や何が罰当たりな行為なのか、そして何かを裁くときには、仮面の精霊エグウグウが執り行うっていうところなどは、知らないことだけに、関心を持って読むことができた。
アフリカにはいろいろな風俗があるらしい。



物語はウムオフィアというアフリカの一地方で英雄であった男、オコンクウォを主人公にしている。

オコンクウォは、力に対する志向性が強い人である。
そのため父権的な対応を取ることが多い。
彼がそんな態度を取るのは、失敗したり、弱さを見せたりすることに不安があるからだ。
そしてそこには軟弱だった父に対する反発の意味合いも見て取れる。

そういった人だから、妻に対して暴力をふるうし、長男のンウォイェを厳しく育てている。
ンウォイェなどは、父の暴力のせいで、悲しい表情を浮かべることも多いくらいだ。

しかし彼自身は子どもたちのことを嫌っているわけではなく、むしろかわいく思っているという点が興味深い。
だがそんな愛情を形では示さず、厳しく接するばかり。
彼はそれだけ、強さを誇示することにこだわってもいるのだろう。

傍からみると、オコンクウォの考えは大層窮屈に見える。
だがそれがオコンクウォという人の性格であるらしい。
そしてそんな彼の性格が、後々悲劇を生むこととなる。


彼は別の部族の子ども、イケメフナを預かり、自分の息子同然に育てていた。
だが、神託によりその子を殺すこととなってしまう。
そのとき彼は、実際に手を下して殺す必要はなかった。
だが臆病者と思われたくなかったために、自らの手でイケメフナを殺してしまう。

なぜ?って読んでいるこちらは思うほかない。
だが、それが結局オコンクウォという人であるらしい。
窮屈な性格から、自ら悲劇を引き入れる。そんなオコンクウォは本当に哀れな男だと心から思ってしまう。

そしてその結果、自分の長男ンウォイェは父に明確な反発を示すこととなるのだ。
元々、ンウォイェ自体、暴力的な話よりも女性的な話を好む傾向にある子供だった。
だが父が喜ぶからそれを表に出さなかっただけでしかない。

しかし友人でもあるイケメフナの死を契機に、それまで抱いていた父への反感を表に出すこととなる。



そしてそんな反発心をすくい上げるのが、西洋人の持ち込んだキリスト教という点がおもしろい。
キリスト教は日本でもそうだったが、侵略のための先鞭役の意味合いもあるように思う。
だがそんなキリスト教は、アフリカ社会で不当に差別されている人たちの受け皿になっていく。

たとえばアフリカでは双子は忌み嫌われており、生まれるとすぐに殺されてしまう。
習俗と言えばそれまでだが、実にひどい話だろう。
もちろん習俗である以上、現地の人は従わなければいけない。だがそれに傷ついた女性だっているのだ。
そんな女たちがキリスト教に信服するのは当然と思える。

またオスと呼ばれる被差別民もキリスト教へと入信する。
そこから見えるのは、キリスト教が、アフリカ社会の理不尽な側面に対するセーフティネットの役割を果たしているという事実だ。


部族の長老たちは、そんな宣教師を軽んじ、敵視し、教会を建てる土地として、悪霊の森という彼らの社会では忌避されている土地を与える。
しかし当然ながら、特にそこに教会を建てたからと言って、災厄が起こるでもない。

そういうのを見ると、アフリカ社会に平等と合理主義が訪れたという見方もできるだろう。


だがそれはアフリカ社会の多様性を否定することでもあるのだ。

彼らが信仰する神々を、石や木だと全否定するあたりはその傾向が見える。
教会関係だけでなく、植民地関係の廷吏たちも、土地に関するウムオフィアの慣習を理解せず、それが悪いと決め付けているだけだ。

そこにあるのは西洋社会の一方的な態度と無理解である。



そうした過程で、オコンクウォは白人の廷吏に捕まり、拷問を受ける。
部族もそういった流れを受けて、白人の支配を受け入れようという軟弱な姿勢が現われるようになる。

オコンクウォは強圧的な態度に出がちな男だ。
当然村のやり方に納得できず、彼は暴力的な手段で物事を解決しようとする。

そんなオコンクウォの行動は、結局白人社会、アフリカ社会両方で受け入れる余地のないものだという事実が悲しい。
そういう意味、この作品は文明の衝突を描いたものと共に、一人の人間の頑なさが産んだ悲劇ともいえるのだろう。

何にしろ非常に深みのある作品である。
一読の価値ある一品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)

マラマッド『魔法の樽 他十二篇』

2014-01-22 20:46:14 | 小説(海外作家)

とりあえず、結婚だ。―宗教者をめざして勉強する青年は決断した。しかし現れた仲介業者がどうも怪しい。“樽いっぱい花嫁候補のカードだよ”とうそぶくのだが…。ニューヨークのユダヤ人社会で、現実と神秘の交錯する表題作ほか、現代のおとぎ話十三篇。
出版社:岩波書店(岩波文庫)




「惨めで、卑屈で、ずるくて、悲しくて、薄暗くて、陰気で、どこにも至らない、何もできない、ただただ苦しい、それがマラマッドの作品なのである」
解説はそのような言葉で、マラマッドの作品を評している。そしてその言葉こそ、この作品集のすべてを説明していよう。

実際どの作品も、暗いものばかりだ。
だがその暗さの奥には、人間の「弱さ」がにじみ出ており、胸に沁みる作品集だった。



たとえば表題作の『魔法の樽』。

ラビになるため、結婚をしようと考え、結婚斡旋業を頼る男リオ。
そのようにして結婚相手の紹介や相手とお見合いをするうちに、自分がなぜ神を愛することができないか、自覚していく。その感慨がなんとも苦い。
「自分は人に愛されたこともなければ、人を愛したこともない」。
その事実を悟ったリオの絶望感は胸に深く突き刺さる。

しかしだからこそ、誰かを支えたいと願う気持ちにもなるのかもしれない。
写真の女は、たぶん娼婦だと思うのだが(違うかもしれない)、だからこそ聖職者として無視できなかったのかもしれないように思う。

苦みを含んだ味わいと、他者と自分に対して救いを見出す流れがすてきな一品だった。



そのほかの作品も、ある種の苦みがありながら読み応えのある作品が多い。


『はじめの七年』
親は、子供に自分より良い人生を送ってほしいと思うが、現実は上手くいかない。
そう考えると一見不幸だが、そんな子供の人生にも、小さな幸せがあるかもしれないという予感も感じられ、心に残る。


『死を悼む人々』
家族を捨てたことで、ケスラーはしっぺ返しを受けているように見えてならない。
そういう意味、ケスラーが悼んでいるのは、自分なのでは、と思えおもしろく読んだ。


『夢にみた彼女』
幻想は概ね打ち砕かれるものであり、それこそ現実の苦みだろう。
それでもオルガは手紙のおかげで幸福を得られたし、ミトカも甘い幻想が得られた。
そんな苦みばかりでもない点が、一つの救いなのかもしれない。


『牢獄』
「欲しいものが決して手に入らないのが人生なのだ」
そう思い至るトミーの感慨がつらい。
トミーは人生にずいぶん裏切られてきた。だからこそ、少女については立ち直ってほしかったのかもしれない。
最後の赦しにはそんな思いが見え、少しだけ切なくなった。


『湖の令嬢』
相手が好きだからこそ、嘘や取り繕いをしてしまう。でも隠してきた事実にこそ、二人を本当に結びつける可能性だってあるのだ。
その苦い事実と、二人の運命のすれ違いが悲しかった。


『ある夏の読書』
ニートな自分を甘やかすジョージの卑小さと弱さが胸に迫る。
最後はそんな自分からの脱出とも見え、わりに明るかったのが良かった。


『請求書』
ウィリィは不誠実だけど、それが心の棘となっているようにも見える。
彼の心の棘は、あるいは永遠に残るのかもしれない。そう思わせる点が胸を突いた。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』

2013-12-20 20:05:52 | 小説(海外作家)

普通の人々の人生におとずれる特別な一瞬、運命にあらがえない人々を照らす光―。“孤独を求めなさい”―聖母の言葉を信じてアイルランド全土を彷徨する男を描く表題作をはじめ、ある屋敷をめぐる驚異の年代記「マティルダのイングランド」、恋を失った女がイタリアの教会で出会う奇蹟の物語「雨上がり」など、圧倒的な描写力と抑制された語り口で、運命にあらがえない人々の姿を鮮やかに映し出す珠玉の短篇、全12篇収録。稀代のストーリーテラー、名匠トレヴァーの本邦初のベスト・コレクション。
出版社:国書刊行会




ウィリアム・トレヴァー初挑戦だが、滋味深い佳作を書く作家という印象を受けた。
小品ながら、人生の一場面を丁寧に観察していて興味深い作風である。



個人的な好みでは、『エルサレムに死す』が一番好きだ。

独占欲の強い母のもとでずっと過ごしてきた弟と、そんな母から逃れるように家を飛び出した兄。
当然選んだ道の違いが示すように性格も違う。
だから旅先で知った母の死を前にしての二人の考え方もまた違うのだ。

兄の方は、弟に旅を楽しんでもらいたいと思い、母の呪縛から弟を解き放ちたいと思う。
しかし母の支配下にあった弟は、真相を知るや母のところに一刻も早く帰ろうとしている。母の影響を苦とも思わず、当たり前のように受け入れているのだ。

兄の行動が独善的であったのはまちがいない。
だが彼なりに弟のことを思っているのは確かで、おおむね彼の行動は善意によるものだ。
それに弟がそのままで良いとも僕も思えない。
だが弟にとっては、有難迷惑なのだろう。

それだけにどちらが良い悪いで判別できる問題でもないのだと思う。
その結果すれ違い、近い将来断絶するであろう二人の姿に、読んでいて胸をしめつけられた。



そのほかの作品もすばらしいものが多い。


『トリッジ』

トリッジの後半の言動がまるで復讐めいていて見える点が良い。
だがトリッジが語っているのはあくまで真実だ。言うなれば、三人に復讐しているのは、昔の何も考えず人を傷つけていた自分たち自身なのだろう。
その展開が少しこわく、ぞくりとさせられる。



『こわれた家庭』

ミセス・モールビーはもうろくしたと周囲から思われないよう気を遣うあまり、文句も言えず、その結果思い出のつまった自分の家はどんどんこわされてしまう。
そして何も言わないために、周囲も無理解になってしまう。その現実がひたすら切ない。



『イエスデイの恋人たち』

人を愛するという行為が、現実の前に屈することもあるという事実をまざまざと示す一品。
最終的に元サヤに収まってしまう展開はどこか悲しい。
しかし恋の記憶は鮮やかに残り続ける。その事実が人にとっては救いなのかもしれない。



『ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳』

たぶん「僕」は疎外感を持って生きていたのだろう。ほとんど期待されていなかったことに、彼自身傷ついていたのかもしれない。
そんな中、それを説明づける理由を探し、妄想を働かせる。結果訪れた悲劇はただ苦い。



『マティルダのイングランド』

上質な作品。
戦争神経症を患った夫を持つミセス・アッシュバートンの影響を受けたマティルダ。その影響は父を戦争で亡くしたことから、さらに大きくなる。
母や継父に対する態度や、夫への異常な言動を見ても、彼女が過去を引きずり続けていたことはまちがいない。
その結果、現実のあらゆる変化を否定し、孤独に至ってしまう。
その姿に激しい痛ましさを覚えた。



『丘を耕す独り身の男たち』

ポーリーが、嫁の来る当ても見込めず、逃げ場のないその土地にこだわるのは、その土地を残した、亡き父の影響が強いのだろう。
父との関係が悪く、父から関心を向けられなかったポーリーは、誰よりも父のやりかたを知っていた。あるいは彼は父に認められたかったのかもしれない。
そう見えるだけに、あえて人生の袋小路に自分を追い込む姿が悲しく感じられた。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

オルハン・パムク『雪』

2013-10-17 05:57:55 | 小説(海外作家)

十二年ぶりに故郷トルコに戻った詩人Kaは、少女の連続自殺について記事を書くために地方都市カルスへ旅することになる。憧れの美女イペキ、近く実施される市長選挙に立候補しているその元夫、カリスマ的な魅力を持つイスラム主義者“群青”、彼を崇拝する若い学生たち…雪降る街で出会うさまざまな人たちは、取材を進めるKaの心に波紋を広げていく。ノーベル文学賞受賞作家が、現代トルコにおける政治と信仰を描く傑作。
宮下遼 訳
出版社:早川書房(ハヤカワepi文庫)




トルコはヨーロッパとイスラム世界の境界に位置する国である。
『雪』はそんなトルコという国と国民の考えなどがうかがえる作品と読んでいて感じた。

そういう点、同じ作者の『わたしの名は紅』に通じるものを感じる。


本書はヨーロッパに亡命した詩人Kaを主人公にしている。
彼はカルスという国境の街に赴き、そこで若い少女の自殺を取材するのだが、そのことからカルスの政治状況に巻き込まれることとなる。

その少女たちは、イスラムの教えに従い、スカーフをかぶり続けていたが、イスラムの教義を学校に持ち込むのを嫌がる教師たちのせいでスカーフ着用を否定され、自殺している。
そのことがきっかけで、イスラム原理主義者と、イスラムの影響を国家から排除しようという勢力(世俗主義者)とが反発しあうようになるのだ。
その結果、ヨーロッパで過ごし、少女の自殺を追求するKaに両者は注目し、接触を試みようとしている。
一応そのほかにもクルド人の問題や、人種差別、そのほかのイデオロギーも軽く登場するが、ざっくりと語るなら、そんなところだろう。

ヨーロッパとイスラム社会の境界に位置するトルコらしい政治テーマだ。


しかしこの小説を読んでいると、結局ヨーロッパをどう捉えるかが、トルコを考える上では重要なのだろうな、と感じる。

世俗主義者は、ヨーロッパ社会のようになろうと、ヨーロッパをしきりに模倣する。
一方のイスラム主義者は、そんなイスラム色を排除する世俗主義者を、ヨーロッパかぶれと批判し、トルコ人のことなどヨーロッパは歯牙にもかけないのだ、と言っている(まあ一面では正しい)
そこにある溝は結構深い。


だが一般庶民は、イスラムと非イスラムの対立に、深い興味があるように見えない。

そもそも自殺した少女も、自殺した原因はスカーフではなく、男関係とも言われているのだ。
それにイスラムの教えに熱心なネジプやファズルも、一時的な興奮と熱狂で、イスラム主義の側についているようにしか見えない。実際ファズルは、クーデターに対して行動を起こすのは、「カディーフェの気を引きたいから」とも言っている。
政府の手によるクーデターが起きたときも治安が戻ることもあって、ワクワクしたというようなことを主人公のKaも書いている。

そこにあるのは、イデオロギーの追求よりも、自分の周囲の状況にのみ関心のある庶民の姿だ。そしてそれこそが、この世界の真実だと僕は思う。


そしてそんな一般人の一典型が、あるいは主人公のKaかもしれない、と僕は思うのだ。

Kaはドイツで生活している男で、イスラム主義とも距離を置いている。
だが、彼は決して無神論者とも言い切れない。
実際雪を見て、詩が思い浮かんだときは敬虔な思いに駆られているし、「僕は雪を見ると神を思い起こすよ」とも言っている。

基本的に近代主義的な人ではあるが、素朴な人なのだ。

それにクーデターというイデオロギー闘争の極致の事件が起きたときでも、彼が考えているのは常に詩のことなのである。
それはKaが、「事実から距離を置く」という行為の中に詩が隠されていると考えていることもある。
だがそれ以上に、彼が庶民と同じく、自分の周囲の、関心のある事物にしか興味が持てないということが大だ。

彼の場合それは、詩と、愛する女性イペキといかに結婚するか、という点にある。
街の状況は不穏でも、Kaは良くも悪くも個人主義者であるらしい。


そうしてKaは、政治で混乱していく中でも、イペキを得ようとし行動をする。
その結果、Kaも彼女の心もつかみかけるのだが。。。

Kaに訪れた結末は、〈群青〉に対する嫉妬が大きい。
そして同時に、彼が結局のところ、トルコにおいては部外者という点も重要かもしれない。
恋にも慣れず、女性にもトルコ人の心情の機微もつかみきれなかったがゆえの悲劇。
そういう風に見えるだけに、何とも哀れだ。


ともあれ、トルコという国の現状を象徴的に描いた政治劇としても、冴えない男のラブロマンスとしても、なかなか楽しい作品である。
読み応えのある力強い作品であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのオルハン・パムク作品感想
 『わたしの名は紅』

シュトルム『みずうみ 他四篇』

2013-09-14 06:27:45 | 小説(海外作家)

月の光に浮び上る少女エリーザベトの画像。老学究ラインハルトはいま少年の昔の中にいる。あのころは、二人だけでいるとよく話がとぎれ、それが自分には苦しいので、何とかしてそれを未然に防ごうと努めた。こうした若い日のはかない恋とその後日の物語「みずうみ」他北方ドイツの詩人の若々しく澄んだ心象を盛った短篇を集めた。
関泰祐 訳
出版社:岩波書店(岩波文庫)




小川洋子の「メロディアスライブラリー」で、『みずうみ』が取り上げられると聞いたので、とりあえず読んでみた。

率直な感想としては、古風でセンチメンタルなお話だな、といったところである。
しかし文章や叙述が抑制されているせいか、情感に訴えかけてくる点が印象的だった。


物語は、老人が過去を追想する形式で描かれている。

主人公のラインハルトは幼なじみのエリーザベトと仲が良く、君は僕の奥さんになるんだ、と幼い約束を交わし合っている。しかし時が経ち、ラインハルトは学校のため故郷を離れてしまう。そして彼が故郷にいない間に、エリーザベトは別の男と結婚することに、、、、というのが話の筋だ。
見事なくらいに古風な筋立てである。


そういった情景は、あくまで抑制された筆致で描かれている。
エリーザベトとエーリッヒのことも多くは語らず、エリーザベトの心情も、ラインハルトが収集した民謡を通して、仄めかされるだけだ。

センチメンタルな物語は、主人公たちの自己愛の強さが目立ち、感情表現も幾分どぎつくなる傾向が強いような気がする(偏見だ)。

しかし、『みずうみ』に関しては、多くを語らないために読み手であるこちらの心を静かにゆさぶる力に満ちている。
加えて多くを語らないため、静謐さも立ち上がっているのだ。

そこが何よりもすばらしく、魅力的な作品であった。



併録の四篇は、どれも牧歌的な小品である。

『マルテと彼女の時計』『広間にて』は、追憶の風景が微笑ましくある。
『林檎の熟するとき』は、滑稽譚という感じで、青年がともかくかわいそうだった。
『遅咲きの薔薇』は、夫婦のこれからの幸福が仄見えるようで、読後感は良かった。

評価:★★★(満点は★★★★★)

フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』

2013-08-22 20:11:27 | 小説(海外作家)


鋭敏な頭脳をもつ貧しい大学生ラスコーリニコフは、一つの微細な罪悪は百の善行に償われるという理論のもとに、強欲非道な高利貸の老婆を殺害し、その財産を有効に転用しようと企てるが、偶然その場に来合せたその妹まで殺してしまう。この予期しなかった第二の殺人が、ラスコーリニコフの心に重くのしかかり、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を発見しなければならなかった。
工藤精一郎 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




『罪と罰』はおもしろい作品である。

幾分まだるっこしいけれど、ポルフィーリイの追求の場面を始め、物語には緊迫感はあるし、そこで展開される思想性はおそろしく深い。
そしてエピローグで、ラスコーリニコフがソーニャのひざを抱きしめるシーンにはすなおに感動できる。

ドストエフスキーの代表作と呼ぶに足る一級の作品であった。



主人公のラスコーリニコフは、ひきこもり気味の学生である。
彼は人に対する飢えを持ちながらも、周囲の人間を見下す傾向にある人だ。
加えて、「虚栄心が強く、傲慢で、自尊心が強く、そして神を信じていない」男でもある。

そう書くと、一見冷血っぽく感じられるが、決して非道なやつではない。
子どものころ馬が虐待死されるのを見て心を痛めたこともあったし、マルメラードフの葬儀のときにはお金を恵んであげたりもした。ほかにも裁判の場面を読む限り、いくつかの慈善行為を行なっている。

そんな彼の慈善行為には、貧しさに対する怒りの意味合いもあるのかもしれない。
妹のドゥーニャがルージンという男と婚約したとき、愛する者のため、金のために、妹が身を投げ出したと勘付き、怒りに駆られている。
またマルメラードフの貧困生活を見たことも、その怒りに拍車をかけたのかもしれない。

彼にとって、生活とは、貧困であり、抜け出す対象であるようだ。

そしてその怒りもあり、ラスコーリニコフは金貸しの老婆という、貧困を生みだす象徴のような女を殺害するに至る。


彼がそのような犯罪に手を染めたのは、貧困に対する怒り以外としては、彼の普段からの持論も関係している。

彼は、人間は「《凡人》と《非凡人》に分けられる」と考えている人だ。
そして《非凡》な人間は、全人類の救いとなる思想の実行のためなら法律などを「ふみこえる権利がある」と考えている。

自尊心の強い彼は、自分を《非凡人》の側とみなしているらしい。
だから金貸しの老婆の殺害にも手を染めた。

だが彼は実際に殺害を行なったことで、病んでしまうこととなる。
幻覚だって見るし、破滅願望があるとしか思えない行動にも走っている。
それはどこからどう見ても、犯罪という事実に押しつぶされているとしか見えない。

つまり、彼は目的のためなら法を踏み越えても、平然としている《非凡》な人間の側ではなかったということだ。


そこでラスコーリニコフは苦悩するに至る。
だがここでおもしろいのは、その苦悩が「良心の呵責」によるものではない、ということだ。

そもそもラスコーリニコフは、目的のためなら「良心の声にしたがって血を許す」という考えを持っている人なのである。
良心の呵責など、彼は抱きようもない。


ではなぜ彼は、心を病むほどに苦悩しているのか。
それは、自分が《非凡》な人間ではない、「権力をもつ資格がない」という事実に「恥辱」を感じているからにほかならないのだ。

何たるプライド、と思うけれど、その事実に読んでいてぞくぞくしてしまった。

でもそんな恥辱を感じながらも、彼は生きていたい、と思うらしい。
それを彼は「卑劣」と感じているが、それが人間の真実だろう。



そんなラスコーリニコフを語る上で、特に対照関係にあるのは、スヴィドリガイロフとソーニャだと思う。


スヴィドリガイロフはラスコーリニコフに対し、「似た何かがある」と語っている。
それは世の中を斜に見ている点と、罪を犯しているという点にあると僕は感じる。

スヴィドリガイロフが見た幻覚から察するに、彼はむかし一人の少女を自殺に追いやっているらしい。
彼の慈善行為は、深層心理的には、その贖罪の意味もあるように感じなくはない。
それでも彼は自分の淫蕩という悪徳からは逃れられなかった。
たぶん彼は最後の幻覚に対する反応を見ても、良心の呵責を抱いていたように見える。

だが良心の呵責を抱いていても、淫蕩という悪徳からは逃れられず、ドゥーニャは得られず、彼に救いは訪れなかった。


では何が人に救いをもたらしうるのだろうか。
その答えこそ、ソーニャにあると思うのだ。

ソーニャは義母と血のつながらない弟妹のために、娼婦にまで身を落とした女だ。
それをラスコーリニコフは目的のために、自分の「生命を亡ぼした」とみなし、目的のため他人の命を奪った、自身の行動と重ね合わせている。

しかしソーニャはラスコーリニコフのように狂わず、罪に淫することもなかった。
その理由は信仰による面が大きいだろう。
ラザロの復活をめぐる両者の対応などはいい例だ。
あるいは信仰というよりも、何か大きなものの前にすなおにひざまずける気持ち、すなわち謙虚さと言い換えてもいいかもしれない。

それにソーニャは、頭でっかちに理性的なことばかり考えるのではなく、地に足のついた生活をしている点でもラスコーリニコフとは異なっていよう。

そんな彼女の在り方が、ラスコーリニコフに救いをもたらすこととなる。



しかしラスコーリニコフという人は恵まれた男だ。

ソーニャはもちろん、ラズミーヒンなんて熱い友人もいるし、母もドゥーニャもラスコーリニコフのことを愛し、心配をしてくれている。
刑事のポルフィーリイだって、ラスコーリニコフに自殺してもいいよ、と煽ってはいるが、罪の意識を持たせるためか「心理的に安定させ」ないよう逮捕しない。頭でっかちの彼を牽制し、「苦しみなさい」と諭している。
ルージンみたいなやつもいるけれど、いい人が多い。


そんなラスコーリニコフだが、周りの愛情に対し、「どうしてあの人たちはおれをこんなに愛してくれるんだろう、おれにはそんな価値はないのに」と感じている。
そう感じるラスコーリニコフの気持ちもわからなくはないが、そう感じることもまた、彼の頭でっかちっぷりを証明していると言える。
愛情は彼が思うような、理性的なものではないのだが、それにも気づかない。

彼はそういう意味、自分の思想に耽溺しているだけなのかもしれない。


そんな性格で、もともと傲岸なところもある人だからか、流刑地に行った後も、ラスコーリニコフは周囲との折り合いは悪かった。
しかしその土地で、生活を愛し生きている人に触れ続け、ありのままの人間の営みに触れていき、ソーニャの無心の愛に触れることで、彼の考えにゆらぎが生まれることとなる。

ラストのラスコーリニコフがソーニャのひざを抱きしめるシーンは感動的だ。
そこに至り、彼は、頭でっかちではない、まっとうな人間の生活を得たのだろう。

そしてそれをもたらしたのは、もちろん愛にほかならないのだ。
そしてそれが純粋に美しいゆえに、深く胸を打ってならない。



本書を初めて読んだのは大学生のとき。そのときも感動した記憶はあるが、再読した今回も心に響いた。以前読んだときよりも物語に深く入り込めた気もする。

『罪と罰』はそのように再読するたびに新しい発見を得られる。
『未成年』は未読だが、多分ドストエフスキーの五大長篇の中では一番とっつきやすいようにも思う。
ともあれ、傑作と呼ぶにふさわしい作品だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのフョードル・ドストエフスキー作品感想
 『悪霊』
 『カラマーゾフの兄弟』
 『虐げられた人びと』
 『地下室の手記』
 『白痴』

ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』

2013-07-17 20:07:51 | 小説(海外作家)

穏やかな引退生活を送る男のもとに、見知らぬ弁護士から手紙が届く。日記と500ポンドをあなたに遺した女性がいると。記憶をたどるうち、その人が学生時代の恋人ベロニカの母親だったことを思い出す。託されたのは、高校時代の親友でケンブリッジ在学中に自殺したエイドリアンの日記。別れたあとベロニカは、彼の恋人となっていた。だがなぜ、その日記が母親のところに?―ウィットあふれる優美な文章。衝撃的エンディング。記憶と時間をめぐるサスペンスフルな中篇小説。2011年度ブッカー賞受賞作。
土屋政雄 訳
出版社:新潮社(新潮クレスト・ブックス)




人間の記憶というものは、時において至極あいまいなものである。
年をとるほど、記憶は薄れていくし、都合の悪い事実は自分の記憶から消去される。

『終わりの感覚』はそんな記憶の持つ、揺らぎを描いた小説ということになるのだろう。
その揺らぎと、物語の筋立てが、実にスリリングな作品であった。


語り手は引退生活を送る男であり、自分の過去をふり返るというのが体裁だ。
そんな風に過去をふり返るのは、彼の元に元カノの母親から遺産と遺品が贈られるからだ。そして遺品として贈与されるのが、自殺した友人の日記。

その謎めいた展開がまずスリリングである。
特に真相に迫る展開は二転三転しておもしろい。

とは言え、最後で明らかになった真相は、いささか納得がいかなかった。
特にベロニカの態度は僕からすれば、腑に落ちない点が多い。
ベロニカは「私」に対して、当てつけのような態度を取るけれど、彼女が「私」に対してあんな態度を取るのは筋違いと思えてしまう。
もちろん「私」の無神経さに腹が立つ気持ちはわかるが、少なくとも、真相を隠す必要はないと思う。

おかげで読み終えた後は、幾分がっかりしたことは否定しない。


しかし老いた男が、来し方をふり返る文章は非常に冴えているのだ。

「歴史とは不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信」という文章が、本作には登場するけれど、人間の歴史(個人の記憶)もまさにそんな感じだろう。
彼はベロニカに対して、無神経な態度をとっているが、それは結局彼が都合の悪い部分を忘れているからだ。

彼は過去に、元カノのベロニカが親友とつきあっていると知り、辛辣な手紙を送って、二人を非難したことがある。
それは送られた当人たちにとってはトラウマものだが、送った側はきれいに忘れている。
非常にありそうなことだけに、それがぞくぞくと胸に迫るのである。

そこからの悔恨にも似た「私」の文章はすばらしかった。
そういった都合の悪いことを忘れてしまい、傷つけたことを平気で忘れてしまうという記憶は、僕にもある。
そのため何となく自分にもあてはめて読んでしまい、「私」の心の波立ちが、読み手である僕の心をも波立たせるように感じた。
そんな風に個人の記憶をすらゆさぶる点はすばらしい。


本書は短い作品だが、なかなか深い世界を堪能できる一品でもあった。
機知に富んだ言葉が多くて冴えてるし、僕個人の嫌な記憶もよみがえらせてくれて、感情も揺り起こされる。
『終わりの感覚』は僕にとって、そんな作品であった。

評価:★★★(満点は★★★★★)

ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』

2013-07-15 19:57:50 | 小説(海外作家)

ひたむきな自然児であるだけに傷つきやすい少年ハンスは、周囲の人々の期待にこたえようとひたすら勉強にうちこみ、神学校の入学試験に通った。だが、そこでの生活は少年の心を踏みにじる規則ずくめなものだった。少年らしい反抗に駆りたてられた彼は、学校を去って見習い工として出なおそうとする……。子どもの心と生活とを自らの文学のふるさととするヘッセの代表的自伝小説。
高橋健二 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




「「車輪の下」はいささか古臭いところはあるにせよ、悪くない小説だった」

そう言ったのは、『ノルウェイの森』のワタナベトオルだ。
そして久しぶりに読み返した僕も、おおむね似たような感想を抱いた。

物語の骨子は古典的ではあるけれど、描写が丁寧でじっくり読ませる力がある。
そして主人公の転落と悲劇に、何かを思うことができた。


主人公のハンスは頭のいい少年である。
そのためか、大人たちからいろいろと期待されている。

神学校への試験を合格するのを周りから望まれ、牧師からもギリシャ語を教わるなどの特別講義を受けている。
みんなハンスが好成績を残してくれるだろうと期待し、バックアップしている状態だ。

そんな周囲の雰囲気もあってか、ハンスも常に勉強に励んでいる。
試験に合格して、釣りなどの遊びに興じようとしても、勉学に功名心を刺激され(あるいは功名心を周囲からあおられ)、さらなる勉強を重ねようとする。

それは一見、ハンスの自由意思であるようにも見えるけれど、実際は周囲の抑圧のパワーの方が大きいと思う。
頻繁に感じる頭痛などはその証拠と見える。

受験勉強の犠牲になった男の子の話という紹介をされる本書だけど、それもむべなるかな、とそういう場面を読んでいると感じた。


そしてそんなハンスのことをフォローしてくれる人はいないのである。
父親はどちらかと言うと、無理解な方で、無神経な言葉を吐いて、ハンスの気持ちを斟酌しない。校長たちも期待こそすれ、ハンスの心情についても、考慮しないのだ。

そんな彼を唯一理解してくれる人がいるとしたら、友人のハイルナーになる。
とは言え、ハイルナーは基本的に反抗的な人間だ。そういうこともあり、ハンスは周囲の目を気にして、ハイルナーと親しくなりながらも彼を突き放すような態度を取ったりもした。
それもまた周囲の押しつけがましい空気が取らせた行動だろう。

そんなハンスも、最後は彼との友情を大事にしようとする。
しかしその行為をきっかけとして、彼の成績はは少しずつ下降線をたどることとなる。
そして悪友と親しみ、成績も落ち続ける彼を、校長や教師たちは失望し、やがて見放すようになっていくのである。

彼らがハンスを見放すのは、結局彼らの期待を、ハンスが見事に裏切ったからだ。
彼らは自分の求める生徒の姿をハンスにあてはめ、それに合わないと突き放している。

それはずいぶん一方的だし、薄情でもある。
しかし彼らは、悪いのはハンスで、自分たちの方こそ悪いのだとは考えもしないらしい。
そういう部分を読んでいると、人はとかく無神経にふるまえるものらしい、なんて悲観的なことを思ってしまう。


そして転落を続けた彼は、最終的に神学校をドロップアウトすることとなる。
そこから見習い工になり、最期を迎えるまでの彼は大いに屈辱もあったことだろう。
そういう点、この物語は、あまりに哀れで、救いがない話だと思う。
しかしその悲劇はある意味では、普遍的でもあるのだ。

大人たちは抑圧するだけでフォローせず、ハンスは若く、それを上手くやり過ごす術を持たず、そして知らず、押しつぶされてしまう。
こんな悲劇は、むかしに限らず、現在においても起きてもおかしくないのかもしれない。
それだけにむごいのである。

派手さはないが、一人の少年の悲劇が切々と胸に響く一冊である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

J・L・ボルヘス『伝奇集』

2013-06-23 21:01:52 | 小説(海外作家)

夢と現実のあわいに浮び上る「迷宮」としての世界を描いて、二十世紀文学の最先端に位置するボルヘス(一八九九‐一九八六)。本書は、東西古今の伝説、神話、哲学を題材として精緻に織りなされた彼の処女短篇集。「バベルの図書館」「円環の廃墟」などの代表作を含む。
鼓直 訳
出版社:岩波書店(岩波文庫)




以前本作を読んだときにも感じたが、ボルヘスの作品はどうも僕の趣味ではないらしい。
それはお話を楽しむというよりも、知的遊戯を楽しむ、って感じの作品が多いからだ。

僕が読みたいのは物語そのものであり、堅固に構築された物語の設定ではない。
だから難解ということ以上に、作品そのものになじめなかった。

しかしそこで描かれる発想は鮮やかであり、目を見張るものがある。
好悪はともかく、その点は否定できないのだ。
特に『八岐の園』の各作品は、その傾向が強かったと思う。



たとえば有名な『バベルの図書館』。

いろいろ書いてあるが、特に正書法の記号に関するところを興味深く読んだ。

アルファベットは二十数個の文字なわけで、それをでたらめに羅列していけば、偶然にも一つの文章ができることもある。その数学的な発想がおもしろい。
そしてその中からは意味のある物語が生まれることもある。
だから図書館に、あらゆる物語が含まれるというのは、ある種の自明なことだろう。

しかしそれを発想できるという点が、すばらしいのだ。
その知的な思考ゲームの側面に心を奪われた。


『バビロニアのくじ』もおもしろい発想だ。

くじは、金銭を得るための、偶然性の遊戯でしかない。
それがどんどん人間の行動を左右するようになる、ってところがすばらしい。

しかしそうなることで、どんどんくじの存在が強まるか、と言ったらそうではなく、逆にくじとそのくじを扱う講社の存在が、どんどんとぼやけていくところは深く感心した。
オチもいかにも人を食ったような、茶目っけがあり、印象的である。


『記憶の人、フネス』には、居心地の悪ささえ覚える。

この作品で、僕の心を奪ったのは、数字の数え方を別の言葉に置き換えるところだ。
七千十三のかわりにマクシモ・ペレスと言うところや、三時十四分と三時十五分の犬が同一の名前を持つことに対する違和感などは、よく考えつくものだとつくづく思う。

そこにあるのは、人間社会で前提となっている約束事の否定なのだろう。
犬はどんなものであれ、犬であるとか、七千十三は、あくまで七千十三と呼ぶべきだという、前提で人間社会は成り立っている。言うなればお決まりの記号だ。
そういった記号を、人は自然に受け入れるものだけど、たしかに冷静に考えたら、必ずしも自明とは言いがたい。

その微妙な矛盾を見事についている。



ほかにも目を引く作品は多い。

『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』
架空の物語が現実に左右していくという様の不可思議さがおもしろい。
虚実がないまぜになっていて、その微妙な居心地の悪さは忘れがたい。


『円環の廃墟』
まさに円環の廃墟と呼ぶにふさわしい作品。
想像力によって、人を創造してみるけれど、そうして想像(創造)した人間を想像(創造)した自分も、また想像(創造)された存在でしかない。
その円環構造と、ある種の虚無な雰囲気が、廃墟の舞台設定とよく合っている。


『ハーバート・クエイン作品の検討』
『エイプリル・マーチ』なんか、読んだら混乱しそうだけど、刺激的な考えだ。
また『秘密の鏡』は、円城塔の『道化師の蝶』にも通じるところがあり、興味を引いた。


『八岐の園』
数多くの現実的な選択から生まれた分岐を、小説の中ですべて再現するという発想はすてきだ。
その哲学的なテーマ性と共に、オチの利いた展開はすなおに楽しめた。


『隠れた奇跡』
最後に与えられた一年を彼は幸福に思ったのだろうか、と個人的には思う。
僕ならたとえやりたいことがあったとしても、この状況は耐えられそうにない。
彼だってせっかく完璧なものにした戯曲を公表できないことに、絶望を感じなかったか疑問。
それはそれとしてSF的な発想は鮮やかだ。


『南部』
一つの偶然の悲劇から虚脱気味になる男の心理がおもしろい。
実存が心の中から存在を失い、死に近接していく心理を映しているように見える。
その虚無に満ちた雰囲気が心に残る。


全体的に、物語のおもしろさを追求しがちな僕から見ると、必ずしもすなおに楽しめたとは言いがたい。たぶん、人によって好き嫌いははっきり分かれるのだろう。
それでも読めば、いろいろ心に残る。
ボルヘスの作品はそんな作品であるらしいと感じた次第だ。

評価:★★★(満点は★★★★★)

サン=テグジュペリ『人間の土地』

2013-05-10 20:07:12 | 小説(海外作家)

“我慢しろ……ぼくらが駆けつけてやる! ……ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ! "サハラ砂漠の真っ只中に不時着遭難し、渇きと疲労に打克って、三日後奇蹟的な生還を遂げたサン=テグジュペリの勇気の源泉とは……。職業飛行家としての劇的な体験をふまえながら、人間本然の姿を星々や地球のあいだに探し、現代人に生活と行動の指針を与える世紀の名著。
堀口大学 訳
出版社:新潮社(新潮文庫)




伊坂幸太郎の『砂漠』の中で、『人間の土地』は西嶋に影響を与えた本として登場する。
しかし小説としての評価は作中の人物によると、「面白いのかなあ、どうだろう」というものでしかなかった。

実際僕も以前読んだときは、おもしろいとは思わなかった。

それはまず文章のわかりにくさにある。
具体的なエピソードのときは充分理解できる。だが抽象的な話題になると、詩的で感覚的な表現が目につき、意味をうまくつかめず、理解しづらいのだ。
それにエピソードもバラバラに並べられているようにしか見えず、散漫としか見えない。
それらがすなおに楽しめなかった原因だろう。


今回改めて読み直してみたが、全体的に見て、おもしろいかと問われれば、やっぱり微妙と答えるしかないなと思った。

しかしエピソード単品の力はすさまじく、おもしろい、おもしろくないとか越えて心をゆさぶる。
それはこの作品に出てくるパイロットたちが、命を張って仕事をしているからに他ならない。


二十世紀前半の飛行家たちは常に命の危険と隣り合わせにある。

実際同僚のパイロットが二度と帰ってこないことも当たり前のように起きていたらしい。
レーダーなんて大層なもののない時代だ。山にぶつかったり、海を横断するときに墜落することもあったようだ。
たとえば星の光を空港の灯台とまちがえて飛び続けるなんてエピソードも登場する。そりゃあ遭難だってするだろう。
しかも無事に着地できてもそれが敵地なら虐殺される危険もあるのだ。

しかし文章が淡々としているせいか、絶望と危険の中にあるのに、そういったものに対して麻痺しているようにも見えた。
それが生死を分かつギリギリの場所で戦っている人間の姿を捉えているように見えて興味深い。


作者自身、「ぼくは死を軽んずることをたいしたことだとは思わない」とも言っている。
彼は砂漠に墜落したことがあり、死ぬ寸前までいっているにもかかわらずだ。

だがそれは決して捨て鉢な感情ではないのである。
それは彼が「世界の建設に加担していると感じ」ていることが大きいのだろう。


たとえば本作にはバークという老いた奴隷が登場する。
彼は奴隷という身分から逃れるため、「ぼく」の助けを借り、自分の身を買い戻すに至る。
そうして彼はまちがいなく自由になった。
しかしその結果、待っていたことは、「世界がいかに自分と無関係だ」という事実だった。

バークは「人間たちと関連のある一人の人間になりたい」と願わずにいられなかったのだ。
その欲望を追い続けた挙句、バークは破産してしまう。

そんな彼の姿を見ていると、人は人とのつながりの中に、自分の存在意義を見出すのだということに気づかされる。
そしてそのうながりがあるからこそ、あらゆる困難に立ち向かう勇気が生まれるのかもしれない。

ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから

作中には上記のような文章が出てくるが、つまりはそういうことなのだろう。
そしてそこから伝わってくるのは、自分が為すべきものへの確信とプライドなのだ。

そのために命をかけて、空に挑み続けるからこそ、彼らの姿は崇高なのだろう。
その気高さが静かに胸に染入るすてきな作品であった。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかのアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ作品感想
 『星の王子さま』

ジャン・コクトー『怖るべき子供たち』

2013-04-21 17:33:06 | 小説(海外作家)

未開で新鮮、善悪を識別することの出来ない子供たち。同性愛、盗み、虚偽、毒薬……。無目的な混乱と不安定な精神が、やがて情熱へと発展し悲劇的な死にいたるまでの姿を、鋭利な刃物のような言葉で描く小説詩。
東郷青児 訳
出版社:角川書店(角川文庫)




『怖るべき子供たち』を初めて読んだのは、僕がまだ十代のころだ。
当時の感想は、よくわからないけれど、何かが引っかかる作品、ってところだったと思う。

確かにこの作品はよくわからない。
表現はもったいぶっていて、回りくどいし、登場人物の心理も意味不明だ。

しかしキャラクターの個性は激しく、その激しさがおもしろい作品でもあった。


子供たち、というタイトルがついているが、本作の主人公たちは正確に言うなら、ティーンエイジャーである。
そんなティーンエイジャーの中で、中心にいるのは、エリザベートとポールの姉弟だ。
そしてこの姉弟が、僕にはまったくもって理解できなかったのである。

エリザベートは気の強い女だ。
初登場の場面からして、いきなりケンカ腰だし、弟をからかって怒らせることは多い。

それでいて、姉弟の間には、どこか近親相姦的な雰囲気さえ感じられる。
ベッドで寝込んで甘えてくる弟に対して、優しく接したりするところなどは、深読みかもしれないけれど、その印象は強い。
ケンカばかりしているのに、二人の関係は分かちがたい一組のカップルだ。

「エリザベートとポールとは、互いにいつくしみ合っていながら、また互いにいがみ合っていた」という文章があるけれど、その言葉が二人の関係のすべてを物語っている。
そしてそんな姉弟の姿に、僕は読みながら困惑してしまう。


二人は(特にエリザベートは)相手に強い愛着を持ちながらも、その愛着ゆえに、相手を傷つけずにいられないように見える。
そしてその愛着の強さゆえ、エリザベートは、アガートの本当の気持ちを知ったとき、あのような行動を取ったのだろう。

彼女は弟をひたすら独占したかったのだと思う。
だからこそ、エリザベートは相手を傷つけてでも、ポールを自分の側に置いておきたかったのかもしれない。

それはそれで別にかまわない。
だが、僕にはそんなエリザベートの心情が、理性では理解できるけれど、感情ではまったく理解できないのである。

大体、エリザベートは一回結婚をしているのだ。
あんた、自分は結婚しといて、弟にはその仕打ちかい、とどうしても思わずにいられない。

はっきり言って、エリザベートはヤンデレとしか思えないのだ。
だからこそ、僕には理解不能であり、同時に怖ろしくも感じられる。


特にラストの方のエリザベートの行動には、軽く引いてしまった。
そのマジな行動に、こいつはアホか、と何度思ったことか。

しかしエリザベートのアホな行動は、すさまじいまでの感情の発露でもあるのだ。
そしてそれが激しいだけに、破滅に向かって一気に突き進む姿が圧倒的なのである。


姉弟以外のエピソードでも、同性愛を思わせる描写など、細かいガジェットは光っている。
個人的には、あんな姉弟にふり回されたジェラールとアガートの二人を哀れに感じた。

ともあれいろいろな点が光る作品である。
再読してよかったと心から思った次第だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)