ただ生きるのではなく、よく生きる

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誠実で円満な生き方     菜根譚 前集150

2016-12-05 18:36:38 | 知恵の情報
人間としては、一片の誠実さを失ってはならない。そうでないと、乞食みたいな
人間になり下がり、何をやっても信頼されなくなってしまう。

世の中を渡るうえでは、丸味のある生き方を心がけなければならない。
そうでないと、デクノボウみたいな人間になり、行く先々で壁にぶつかって
しまう。
(菜根譚 前集150)

■儒教でいう「五常の教え」とは、仁、義、礼、智、信の五つを指しているが、この
なかで、とくに誠実と縁が深いのは「信」である。「信」とはウソをつかないという
ことだが、孔子も、「人ニシテ信ナクバ、ソノ可ナルヲ知ラザルナリ」と語っている。
信、すなわち誠実さを失っては、もはや人間失格に近い。

─『新釈 菜根譚』守屋 洋 PHP文庫より

◆私は、「信」で失敗している・・・
私の言ったことを誤解されて、今日までいたる。友が看護士さんが献身的に
病める人を自分の命をかけて助けていることに気づき、そのすばらしさを伝えて
きたとき、それに対して素直に聞かなかったことだ。

私もそのすばらしさは、自分が入院して実際にお世話になっているから、身にしみて
いるが、そのときの私の考えることも友達に伝えたかったことがあった。
それで、それをウソをつかずに述べた。しかし、あとで考えるととんでもない誤解を
されたようだ。いまでも、それを理解してもらっていない・・・

こう伝えた・・・
看護士さんも人間である。彼女がある宗教に入っているから、献身的にできるの
かもしれない。つまり、その宗教教理を間違って信じているとして、人を助けた
あと、本当に純粋な気持ちになっていたとしても、それを過ぎるとまた、その宗教の
間違った教理へもどってしまうのでは、ないか、・・・というようなことである。

なぜそれを伝えたのかをいうと、それは、別の友達からやはり、別宗派の考えが異なる
人が彼の家に勧誘に来ていたが、そのとき私の友人は、具合が悪くなったが、献身的に
助けてくれたそうだ。でもだからといって助けてくれた人と人との本来のつながりは
気にかけて、また、たずねてきてくれたが、その理念は変わらずの人であった、という
ことだった。そのことがずっと自分のなかの問題としてあったので、前記友人の
話のとき「本当の献身」について話してみたくて、その友人が純粋に看護士さんの
献身さに感動しているとき、共感してあげられなかった・・・

世界の戦争、や人間同士の揉め事でも、人の命に関わるときの人の態度はいろいろ
だ。宗教がちがっても助ける人がいれば、殺す人もいる。悪人でも状況で人を助ける
こともあるだろう・・・私は、宗教や、思想や、そういうものでなく、地球に生きている
人間としての倫理を求めていたから、その友人には、厳しい反応をしてしまった。
本当に献身的な看護士さんだったのかと嫌味な無言の反論のようになって、彼には
とらえられたようだ。そのあと、彼の連絡はぴたっと止まった。この男は、何もわかって
いない、付き合うに値しない人間だと、きっと思ったにちがいない・・・

彼には、その後も私の考え方を理解してもらえず、いろいろな情報も取り上げたくても
情報を送ると怒られてしまい、私への不信を持たせてしまったようで音信不通になっている。
しかし、多くを苦労して、ともに過ごしたことがある友人なのにその信頼を深めた過去の
記憶は彼にはないのだろうか・・・私の姿勢は変わっていない・・・
誠実ということばが当てはまる友人だったのでいまも思い出すと後悔がくる。(オギ)