ハイ。覚えた言葉をすぐ使いたくなる,そんな僕です。どうもこんにちは。
ということで,いきなりなんですが,昔,ゲシュタルト心理学つうのがございました(本当に唐突でゴメンナサイ)。
このゲシュタルト心理学の説明でおなじみなのが,星座,でして,一個一個の星を見ててもオリオン座は見えてこない,という例のやつですね。個々の性質と全体の性質は違う,全体の性質をつかむには,全体を全体として捉えるダイナミックな観点が必要だ,みたいなこと,心理学を学んだ人なら,大学一年生の時に誰もが聞いた話だと思います。
まあそのゲシュタルト心理学の登場から,認知心理学つうものが生まれ,認知革命とかなんとかいって,認知全盛,現在に至るわけですけど,じゃあ心理学ってのは,ダイナミックなものを一貫して扱ってきたかというと,どうもそうではないみたいなんですね。
というのは,まあ星座の話とかは確かに言い得て妙なんだけど,全体を全体として扱うってのは,言うは安し行なうは難し,ゆえに心とか認知とか,そういうもの自体を前提条件として,その周辺を還元主義でもってチクチクやってたのが心理学,みたいな感じじゃないでしょうか。前提は不問というかね。ブラックボックスですわ。
要は,なんで心はダイナミックなのか,ということ自体について,あんまりやってこなかった,なぜならそれは大変だからでして,技術もなかったし,そうこうする間に,歴史が積み重なっちゃって研究法としても洗練され,もはや心理学としてそこを扱うという話にならなくなっちゃった,というのが,今日のアカデミックな心理学の,根本的な問題としてあるような気がするのですね。心そのものを探究するというよりは,心は前提条件,先に心ありきの,機能的(あるいは帰納的)な側面っていうことですかね。
すなわち,アカデミックな心理学ってのが描く「心」が,なんか一般的な理解の「心」というものを必ずしも描いていない,というのはある種いい得て妙,それは素人が「本当の心理学」というものを知らないからだ(もちろんそういう側面もあります),とこれまで煙に巻いてきたわけですけど,それは果たしてほんとにそれだけなのか,と思ったりするわけですよ。
一方で,臨床心理学の世界ではまだしも,アカデミックな心理学の世界では,バカにされてる,というか,ハッキリいえば,相手にしてない,今ではもう誰も歯牙にもかけぬ過去の遺物「精神分析」ってのがありまして,エスだとか自我だとか超自我だとか転移だとか逆転移だとか,アカデミックな心理学から見れば,ナンセンス極まりない,テキトウな概念がぶち上げられておりまして,率直にいうと,これ,失笑ものなんですよね,何をいっとるんだと。
ただ,ここでひとつ,上に「臨床心理学の世界ではまだしも」と書いたのですが,なぜか臨床の世界では,アカデミックな心理学の世界よりは,まだ支持がある。その支持はかつては大変大きなものであり,今となっては,往年の勢いはないものの,確かに支持はある,それはなぜか。宗教化してるから?
心理学お手製の心理療法として,行動療法というのがありますね(認知療法は違います。あれは精神分析由来です)。この行動療法ってのと精神分析ってのは,人間観も違えば,方法論も違うわけで,必ずしも相補的,というわけではないけど(なんていったら双方から怒られますが),少なくとも,理想的にはお互いに足りないものを補えるはずでして,まあ精神分析と行動療法の折衷派なんてあんまりいないだろうけど,ただまともな臨床家であれば,方法はどうあれ,(たとえ使う言葉は違えども)理解としては両方を持っているはずであると,なんとなく断言したいわけですね。まあ中途半端は良くないという話もあるけどね。
というのはまあさておいて,通俗的には,行動的な人間観と分析的な人間観,どっちが通俗的にオモロイかというと,やっぱ分析的なほうがオモロイわけで,まあ別に一般の支持を集めてるから正しいというわけもないですが,一般の支持を集めるにはそれなりの説得力が必要になるわけで,実証的にどうかわからんけど,少なくとも,個々の主観的には,それなりの説得力があったんでしょね,精神分析は。
とはいえ,ンなこといったら,血液型性格判断だって,主観的に説得力あるんですけど~,みたいな話になるし,世俗的な支持は必ずしも科学的な事実と一致しているとは限らない,当たり前ですけどね。
ゆえに,精神分析,主観的には面白いかもしれないけど,あれは科学的な事実とは違う,心を科学的に解明するのは,アカデミックな心理学であって,精神分析ではない,と,10年前なら,声高に主張できたわけですね。
しかし状況は変わりました! ……といく前に,もうちょっと無駄話をしますと,実証性がないからそれはデタラメである,というのは確かにひとつの観点として,アリなんですけど,ホント言うと,それはどうかわからない。なぜかというと,科学的に正確に言うならば,「精神分析的な考えが全般的にが正しいとも間違ってるとも現時点ではわからない」というのなら正確な言い方ですが,それは宗教だ,デタラメだというのは,明らかにデタラメというか言いすぎなのでありまして,確かにアカデミックな心理学として扱いづらい話ではあるのだけど,そしていろいろ恨みなんかもあるのでしょうけど,だからといって,嘘をいってはいけないわけですね。そういうのは恩讐の彼方にオーバーザレインボーしてください。
あともうひとつ,なぜ精神分析が臨床の分野で一定の支持を得てきたか,ということに対して,ただの宗教だ,みたいな言い方,止しなさいと思うわけで,もちろん,長年かけて宗教化した側面もありましょうよ,しかしそれをいったら,アカデミックな心理学だって,宗教化した側面があるわけですし,単に宗教化してるだけに過ぎない,精神分析は非科学的である,と,精神分析をオカルト扱いするのは,少なくとも,その原因の考察において科学的な姿勢とはいえないわけですよ。
ということで,もう一度,状況は変わりました,ということで,これ。
これをもって,精神分析ハジマタ! というのを別に言いたいわけではないですよ。まあ精神分析の人にとっては,そうかもしれないけど,まあ精神分析好きな人はこういうの嫌いでしょうけど,僕が言いたいのはそうではなく,結局,心理学において蔑ろにされてきた「心とは何か」ということの議論が,ようやくここから本番になる,ということなんでありますね。まあずっと本番だったんだろうけどさ。
デモさ,認知行動療法とかいいますけどね,これ言い換えると,記憶・学習療法なんでありまして,心理療法ってさ,全部記憶・学習療法なんだよね。ただ単に,記憶と学習にどうアプローチするか,ってのが違うだけでさ。だとしたら,記憶と学習を扱うのに,使える言葉が,認知とか行動だけ,ってのは常識的に考えてありえない(あえて徹底する意味はもちろんあるけど),わけで,記憶を扱うのに無意識って言葉を使おうが潜在記憶という言葉を使おうが,それは好みでいいわけですよ,どっちにしろメタな仮説概念なんだからさ。
それが実証されてるかどうかってのはあるけど(心理療法の「実証」とはまた違う次元だけど),でも精神分析的概念,実証にベクトルを向けてるわけですから,もう別に威張れないわけですよ。実証科学としての年季の違いは確かにあるけどね。でも精神分析だからダメってのはありえない。
僕,別に,精神分析を擁護したいわけじゃないですよ。そら好きではあるけどね,でも別に信者ではない。何がいいたいかというと,アカデミックな心理学ってのは,結局みずからが生み出した方法論に縛られて,本質的な議論を避けてきた,と思うわけでして,それに照らして,科学だの非科学だのなんつうのは,ナンセンスであるといいたいだけなんですよ。
すごい適当なこといってしまうと,心理療法のプロセスにおいて,治療への侵襲なく,各種の神経心理的な指標を計時的に測定できるとしたら,心理療法の機能とか効果とか,そういうものを心理療法間で比較する,なんてこともできるわけで,効果要因というものは,そういう観点からだってみることは可能なわけですよね(何十年後か,何百年後か,知りませんけどね)。光トポグラフィーによる転移・逆転移関係の解析とかだってさ,きっといつかできるようになるよ。
反対にいうとさ,科学が未発達な頃って,結構思いつきで概念提唱できたりするわけで,翻って今,概念提唱しようとしても,科学的,という縛りが結構きついよね。それはもちろん必要なことではあるけれど,一方で,自由な発想を奪っている,とも言えるわけでね。
なんかさ,神経-精神分析なんていうけどさ,要は,心とか精神とか,考える際の語彙がね,過去の使い回しじゃないけど,そういうことになってる気がしてさ,先見の明といえば,聞こえはいいけど,ただ現代人の科学的想像力のなさを指摘されてるみたいでね,なんともいえない気分になったりしますね。現代人が生み出すのは,すぐに忘れる疾患概念だけなんて寂しすぎるじゃないですか。
あとね,還元主義への信仰,これやっぱりある(僕もある)と思うのだけど,精神分析的概念が還元主義的に実証されることと,治療法として精神分析が有効であることはイコールではない,それはなぜか,というところで,心は脳の奴隷なんですか? 還元主義的に表現できることと,心のダイナミズムを描き出すことはイコールではない。まあ心脳問題というやつですかね。
じゃあ,心ってなんですか,というところで,脳機能という関数において情報のインプット・アウトプットの間に介在する何か,なんて思うわけで,別にこんなのオリジナルでもなんでもなく,還元主義だってひとつの観点に過ぎないし,少なくとも,単純に考えて,もうひとつの方向があるわけですよ。心から脳へ,というね。
脳内現象を「原因」ではなく,「結果」と捉える視点,原理的にはありえるわけですよ。ただその方法論がないんですけどねえ。もしかしたら,生命における2つの独立要因,なのかもしれないですけどね。あるいは外界と内界の相互作用とかさ,そう考えると行動主義ってのは確かに使い勝手がいいかもしれない。まあ考えるのはタダだし自由だから皆さんも考えてみてくださいよ。
結局,予測可能性,を実現できるかってことですけど,どうなんですかね。ある程度のとこまでは,モデル論的にいけますけど,心って目的的なのかなとか,心って現象なのかな,とか,結局そういう哲学的な議論にもならざるを得ないですね。ウーム。
あとはね,単なる形而上的な世間話としてではなく,
こういう方法を構築できるかっていうのはあるでしょうね。世間話ならいくらでもできますけどね,心は非線形的だとかなんとかさ。でも実際,心を非線形的に記述したあるいは計算したって人の話は聞いたことがないし,まあ難しいでしょうね。でもさ,そうじゃないと嘘だよなあ。
ちなみにこの本は,文章も巧いし,非線形とか複雑系の入門書としては手ごろだと思います。閑話休題。
行動主義だって最初は,E=MC2,みたいなの考えてたはずだと思うのですが,現代科学一般がもはやE=MC2的でない以上,そういう意味での図式化はきっとないんだろうけど,それでも,2重らせんだった,的なシンプルな発見がありうるのか,というとやっぱりないんだろうな。
モノそのものではないし,モノで構成されてるわけでもない,けどモノがものすごく大きく関与してることは疑いようがない,なんて,すげえ厄介ジャン。
でも結局なあ,心とは何ぞやつうのが,いまいちよくわからんわけでして,いまいちよくわからんと思ってるものなんか,対象化しようがないわけで,対象化できうるとしたら死んだ時でしょうけど,死んだら死んだで意識ないから無理だし,まあ死んだら負けだとドサ健もいってましたけど,よくわからんから,心について書かれたこの名著を読み直してみたわけですよ。
……なんつうか,個人的に,この小説のタイトル忘れがちというか,別に内容とあってないわけではないはずなのに,昔からなんかしっくりこない感じがあったんですね。よくわからないんですけどね。
でも,日本を代表する文豪が「こころ」と名づけるからには,これには「こころ」が描かれてるはずで,今回は自分勝手であいまいな印象を分裂排除して,これには「こころ」が描かれているはず,というわけで「こころ!」と強く心に念じながら,「こころ」を拝読してみました。
当然ながら,これが「こころ」です,という形で示されるわけではなく,手垢のついた寸評的にいえば,人間の内面の心の動きを細やかに描いたってことになるんでしょうけど,単なる一人称モノローグじゃねえか,なんてみもふたもないこといってはダメです。書かれた時代を考えてみてくださいよ。
現代的に言えば,火サスとか土ワイにおける断崖絶壁での告白シーン,あれのネタ元ですかね,第3章は。1~2章はそのためのヒキというやつですか,ミステリアスさをあおるだけあおっておいて,ドーン,みたいな。しかし,断崖絶壁で,これだけ術懐されたら,なんか許してしまいそうな気になりますねえ。というか作家デビューを示唆したくなりますね。
ま,ま,そんな野暮な話はさておいて,カリオストロの城でいえば,「やつはトンデモナイものを盗んでいきました……あなたの心です」というときの,「……」の間,それが「心」なんだよなあ。そういう意味では『こころ』は「心」を描いてました!
すごいどうでもいい話をしてしまった……そうそうそういえば,こんな本が,出てました。
以前,「【心理療法って】イギリスでは,アメリカでは【効果あるの?】」というエントリ(懐かしい!)洋書のほうを紹介しましたが(←先見の明ありというアピールです),まさか出るとはビックリですな。いわゆる「エヴィデンス」的な本ではないですが,臨床的な「統合論」に寄与するような一冊ではないかと思われますね。
ということで今日はこのへんで。
ということで,いきなりなんですが,昔,ゲシュタルト心理学つうのがございました(本当に唐突でゴメンナサイ)。
このゲシュタルト心理学の説明でおなじみなのが,星座,でして,一個一個の星を見ててもオリオン座は見えてこない,という例のやつですね。個々の性質と全体の性質は違う,全体の性質をつかむには,全体を全体として捉えるダイナミックな観点が必要だ,みたいなこと,心理学を学んだ人なら,大学一年生の時に誰もが聞いた話だと思います。
まあそのゲシュタルト心理学の登場から,認知心理学つうものが生まれ,認知革命とかなんとかいって,認知全盛,現在に至るわけですけど,じゃあ心理学ってのは,ダイナミックなものを一貫して扱ってきたかというと,どうもそうではないみたいなんですね。
というのは,まあ星座の話とかは確かに言い得て妙なんだけど,全体を全体として扱うってのは,言うは安し行なうは難し,ゆえに心とか認知とか,そういうもの自体を前提条件として,その周辺を還元主義でもってチクチクやってたのが心理学,みたいな感じじゃないでしょうか。前提は不問というかね。ブラックボックスですわ。
要は,なんで心はダイナミックなのか,ということ自体について,あんまりやってこなかった,なぜならそれは大変だからでして,技術もなかったし,そうこうする間に,歴史が積み重なっちゃって研究法としても洗練され,もはや心理学としてそこを扱うという話にならなくなっちゃった,というのが,今日のアカデミックな心理学の,根本的な問題としてあるような気がするのですね。心そのものを探究するというよりは,心は前提条件,先に心ありきの,機能的(あるいは帰納的)な側面っていうことですかね。
すなわち,アカデミックな心理学ってのが描く「心」が,なんか一般的な理解の「心」というものを必ずしも描いていない,というのはある種いい得て妙,それは素人が「本当の心理学」というものを知らないからだ(もちろんそういう側面もあります),とこれまで煙に巻いてきたわけですけど,それは果たしてほんとにそれだけなのか,と思ったりするわけですよ。
一方で,臨床心理学の世界ではまだしも,アカデミックな心理学の世界では,バカにされてる,というか,ハッキリいえば,相手にしてない,今ではもう誰も歯牙にもかけぬ過去の遺物「精神分析」ってのがありまして,エスだとか自我だとか超自我だとか転移だとか逆転移だとか,アカデミックな心理学から見れば,ナンセンス極まりない,テキトウな概念がぶち上げられておりまして,率直にいうと,これ,失笑ものなんですよね,何をいっとるんだと。
ただ,ここでひとつ,上に「臨床心理学の世界ではまだしも」と書いたのですが,なぜか臨床の世界では,アカデミックな心理学の世界よりは,まだ支持がある。その支持はかつては大変大きなものであり,今となっては,往年の勢いはないものの,確かに支持はある,それはなぜか。宗教化してるから?
心理学お手製の心理療法として,行動療法というのがありますね(認知療法は違います。あれは精神分析由来です)。この行動療法ってのと精神分析ってのは,人間観も違えば,方法論も違うわけで,必ずしも相補的,というわけではないけど(なんていったら双方から怒られますが),少なくとも,理想的にはお互いに足りないものを補えるはずでして,まあ精神分析と行動療法の折衷派なんてあんまりいないだろうけど,ただまともな臨床家であれば,方法はどうあれ,(たとえ使う言葉は違えども)理解としては両方を持っているはずであると,なんとなく断言したいわけですね。まあ中途半端は良くないという話もあるけどね。
というのはまあさておいて,通俗的には,行動的な人間観と分析的な人間観,どっちが通俗的にオモロイかというと,やっぱ分析的なほうがオモロイわけで,まあ別に一般の支持を集めてるから正しいというわけもないですが,一般の支持を集めるにはそれなりの説得力が必要になるわけで,実証的にどうかわからんけど,少なくとも,個々の主観的には,それなりの説得力があったんでしょね,精神分析は。
とはいえ,ンなこといったら,血液型性格判断だって,主観的に説得力あるんですけど~,みたいな話になるし,世俗的な支持は必ずしも科学的な事実と一致しているとは限らない,当たり前ですけどね。
ゆえに,精神分析,主観的には面白いかもしれないけど,あれは科学的な事実とは違う,心を科学的に解明するのは,アカデミックな心理学であって,精神分析ではない,と,10年前なら,声高に主張できたわけですね。
しかし状況は変わりました! ……といく前に,もうちょっと無駄話をしますと,実証性がないからそれはデタラメである,というのは確かにひとつの観点として,アリなんですけど,ホント言うと,それはどうかわからない。なぜかというと,科学的に正確に言うならば,「精神分析的な考えが全般的にが正しいとも間違ってるとも現時点ではわからない」というのなら正確な言い方ですが,それは宗教だ,デタラメだというのは,明らかにデタラメというか言いすぎなのでありまして,確かにアカデミックな心理学として扱いづらい話ではあるのだけど,そしていろいろ恨みなんかもあるのでしょうけど,だからといって,嘘をいってはいけないわけですね。そういうのは恩讐の彼方にオーバーザレインボーしてください。
あともうひとつ,なぜ精神分析が臨床の分野で一定の支持を得てきたか,ということに対して,ただの宗教だ,みたいな言い方,止しなさいと思うわけで,もちろん,長年かけて宗教化した側面もありましょうよ,しかしそれをいったら,アカデミックな心理学だって,宗教化した側面があるわけですし,単に宗教化してるだけに過ぎない,精神分析は非科学的である,と,精神分析をオカルト扱いするのは,少なくとも,その原因の考察において科学的な姿勢とはいえないわけですよ。
ということで,もう一度,状況は変わりました,ということで,これ。
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これをもって,精神分析ハジマタ! というのを別に言いたいわけではないですよ。まあ精神分析の人にとっては,そうかもしれないけど,まあ精神分析好きな人はこういうの嫌いでしょうけど,僕が言いたいのはそうではなく,結局,心理学において蔑ろにされてきた「心とは何か」ということの議論が,ようやくここから本番になる,ということなんでありますね。まあずっと本番だったんだろうけどさ。
デモさ,認知行動療法とかいいますけどね,これ言い換えると,記憶・学習療法なんでありまして,心理療法ってさ,全部記憶・学習療法なんだよね。ただ単に,記憶と学習にどうアプローチするか,ってのが違うだけでさ。だとしたら,記憶と学習を扱うのに,使える言葉が,認知とか行動だけ,ってのは常識的に考えてありえない(あえて徹底する意味はもちろんあるけど),わけで,記憶を扱うのに無意識って言葉を使おうが潜在記憶という言葉を使おうが,それは好みでいいわけですよ,どっちにしろメタな仮説概念なんだからさ。
それが実証されてるかどうかってのはあるけど(心理療法の「実証」とはまた違う次元だけど),でも精神分析的概念,実証にベクトルを向けてるわけですから,もう別に威張れないわけですよ。実証科学としての年季の違いは確かにあるけどね。でも精神分析だからダメってのはありえない。
僕,別に,精神分析を擁護したいわけじゃないですよ。そら好きではあるけどね,でも別に信者ではない。何がいいたいかというと,アカデミックな心理学ってのは,結局みずからが生み出した方法論に縛られて,本質的な議論を避けてきた,と思うわけでして,それに照らして,科学だの非科学だのなんつうのは,ナンセンスであるといいたいだけなんですよ。
すごい適当なこといってしまうと,心理療法のプロセスにおいて,治療への侵襲なく,各種の神経心理的な指標を計時的に測定できるとしたら,心理療法の機能とか効果とか,そういうものを心理療法間で比較する,なんてこともできるわけで,効果要因というものは,そういう観点からだってみることは可能なわけですよね(何十年後か,何百年後か,知りませんけどね)。光トポグラフィーによる転移・逆転移関係の解析とかだってさ,きっといつかできるようになるよ。
反対にいうとさ,科学が未発達な頃って,結構思いつきで概念提唱できたりするわけで,翻って今,概念提唱しようとしても,科学的,という縛りが結構きついよね。それはもちろん必要なことではあるけれど,一方で,自由な発想を奪っている,とも言えるわけでね。
なんかさ,神経-精神分析なんていうけどさ,要は,心とか精神とか,考える際の語彙がね,過去の使い回しじゃないけど,そういうことになってる気がしてさ,先見の明といえば,聞こえはいいけど,ただ現代人の科学的想像力のなさを指摘されてるみたいでね,なんともいえない気分になったりしますね。現代人が生み出すのは,すぐに忘れる疾患概念だけなんて寂しすぎるじゃないですか。
あとね,還元主義への信仰,これやっぱりある(僕もある)と思うのだけど,精神分析的概念が還元主義的に実証されることと,治療法として精神分析が有効であることはイコールではない,それはなぜか,というところで,心は脳の奴隷なんですか? 還元主義的に表現できることと,心のダイナミズムを描き出すことはイコールではない。まあ心脳問題というやつですかね。
じゃあ,心ってなんですか,というところで,脳機能という関数において情報のインプット・アウトプットの間に介在する何か,なんて思うわけで,別にこんなのオリジナルでもなんでもなく,還元主義だってひとつの観点に過ぎないし,少なくとも,単純に考えて,もうひとつの方向があるわけですよ。心から脳へ,というね。
脳内現象を「原因」ではなく,「結果」と捉える視点,原理的にはありえるわけですよ。ただその方法論がないんですけどねえ。もしかしたら,生命における2つの独立要因,なのかもしれないですけどね。あるいは外界と内界の相互作用とかさ,そう考えると行動主義ってのは確かに使い勝手がいいかもしれない。まあ考えるのはタダだし自由だから皆さんも考えてみてくださいよ。
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ちなみにこの本は,文章も巧いし,非線形とか複雑系の入門書としては手ごろだと思います。閑話休題。
行動主義だって最初は,E=MC2,みたいなの考えてたはずだと思うのですが,現代科学一般がもはやE=MC2的でない以上,そういう意味での図式化はきっとないんだろうけど,それでも,2重らせんだった,的なシンプルな発見がありうるのか,というとやっぱりないんだろうな。
モノそのものではないし,モノで構成されてるわけでもない,けどモノがものすごく大きく関与してることは疑いようがない,なんて,すげえ厄介ジャン。
でも結局なあ,心とは何ぞやつうのが,いまいちよくわからんわけでして,いまいちよくわからんと思ってるものなんか,対象化しようがないわけで,対象化できうるとしたら死んだ時でしょうけど,死んだら死んだで意識ないから無理だし,まあ死んだら負けだとドサ健もいってましたけど,よくわからんから,心について書かれたこの名著を読み直してみたわけですよ。
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でも,日本を代表する文豪が「こころ」と名づけるからには,これには「こころ」が描かれてるはずで,今回は自分勝手であいまいな印象を分裂排除して,これには「こころ」が描かれているはず,というわけで「こころ!」と強く心に念じながら,「こころ」を拝読してみました。
当然ながら,これが「こころ」です,という形で示されるわけではなく,手垢のついた寸評的にいえば,人間の内面の心の動きを細やかに描いたってことになるんでしょうけど,単なる一人称モノローグじゃねえか,なんてみもふたもないこといってはダメです。書かれた時代を考えてみてくださいよ。
現代的に言えば,火サスとか土ワイにおける断崖絶壁での告白シーン,あれのネタ元ですかね,第3章は。1~2章はそのためのヒキというやつですか,ミステリアスさをあおるだけあおっておいて,ドーン,みたいな。しかし,断崖絶壁で,これだけ術懐されたら,なんか許してしまいそうな気になりますねえ。というか作家デビューを示唆したくなりますね。
ま,ま,そんな野暮な話はさておいて,カリオストロの城でいえば,「やつはトンデモナイものを盗んでいきました……あなたの心です」というときの,「……」の間,それが「心」なんだよなあ。そういう意味では『こころ』は「心」を描いてました!
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以前,「【心理療法って】イギリスでは,アメリカでは【効果あるの?】」というエントリ(懐かしい!)洋書のほうを紹介しましたが(←先見の明ありというアピールです),まさか出るとはビックリですな。いわゆる「エヴィデンス」的な本ではないですが,臨床的な「統合論」に寄与するような一冊ではないかと思われますね。
ということで今日はこのへんで。
http://www.alife.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~ari/stuff/mindbook.html
メインのコンテンツも刺激的です。
http://www.alife.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~ari/index.html
心を考える上で,人工生命というメタファー(あえてメタファーといいます)は,有用すぎですよ!
どうもです。
たぶん優秀な人は,科学「内」に対する批評性を内に秘めつつ(科学を価値観化せずに),研究あるいは臨床実践として表現していくのだと思うと,こんな自明のことをワザワザ口に出していってる僕は相当ヤボなんだろうなと思います。
心理学的な「構成概念」の緻密さは認めるところですが,たとえば,人工生命みたいなモデル論的探究においては,そんな方法含めてギチギチである必要もなく,仮説概念としては,精神分析なほうがかえって使いやすいのかもしれないですね。
結局「それはワシがそう思うからジャー!」的な非科学的な信念こそが,科学を進展させるんじゃないかと思ってるのですが。でも,だからなんだ,といわれたら困るんですけどね。