ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】知の旅への誘い

2011年07月13日 19時00分09秒 | 読書記録
知の旅への誘い, 中村雄二郎 山口昌男, 岩波新書(黄版)153, 1981年
・哲学者と文化人類学者の共著。各々の "知の旅" の軌跡について語った書。抽象的・観念的記述が多く、話に付いていくのに一苦労……というよりも付いていけずに、ほとんど未消化のまま。少なくとも "知の旅" の方法について手とり足とり教えてくれる実用書ではなく、あくまでも思索のネタを提供するといったスタンスの、どこかつかみどころのない内容に終始している。これを読みこなすのためには、前もってそれなりの "知の旅" の経験が必要らしい。
・「学問や理論を含む私たち人間の知の営み――このなかに芸術上の創造行為も入れられていい――とは、日常生活の惰性化された有り様を超えて、いきいきとした生の回復をもたらすはずのものであった(理論的な素養や技法上の訓練という迂路は必要であるにしても)。まさにその点において、私たち人間の知の営みは、冒険を含んだ<旅>にたいへんよく似ている。」p.ii
・「この第I部「知の旅へ」と第II部「知の冒険へ」は、一口にいえば、それぞれ<哲学的な>原理編と<人類学的な>実践編をなしているということになる。」p.vi
・「控え目な感情は凡庸な人間をつくり、ひとは小心翼々としていると創造的でありえなくなる。これは行きすぎた抑制や禁欲的態度がおちいりやすい陥穽を示している重要な指摘である。」p.6
・「知的情熱としての好奇心とは、とくに、私たちが世界や自然やものごとに向けるつよい関心のことである。そして、知識よりも何よりも関心(インタレスト)こそがあらゆる文化や学問の原動力である、と言えそうだ。関心こそが知を拓くのである。」p.6
・「そういうことを考えると、私たちの躯は旅にあたってもっとも厄介な<お荷物>である。そして一人で外地の辺鄙な場所を旅行していて、急に躯の具合がわるくなったりすると、まったくそのお荷物がうらめしくなってしまう。」p.12
・「旅にあって私たちは、ちがった環境や異質の場所のなかで身をさらしつつ、いろいろなリズムや時間を持った文化や習俗に触れる。これこそ旅の経験そのものなのではなかろうか。  だから、どんなに交通手段が発達し、便利な乗りものができるようになっても、旅の中心は足で歩き、躯で感じることでなければならないだろう。」p.14
・「それにしても、ひとはなぜ物を集(蒐)めるのだろうか。明らかに実用をこえていろいろな物を集めるのだろうか。旅の記念品(スーヴェニア)という面もあるけれど、蒐集にはそれ以上に一種の情熱が働いている。」p.27
・「つまり、人間はいつでも、ほかならぬ自分自身を蒐集しているにほかならないのである。」p.28
・「国の内外を問わず、旅に出かけたときには、できるだけ私はその土地の食べものを食べ、その土地の飲みものを飲むことにしている。」p.34
・「食べものや飲みものの、旅先の現地でうまいと思った味は、その食べものや飲みものそれ自体に属している固有の味であるよりも、その土地のいろいろな食べものや飲みものとの関係のなかで成り立っている味なのではなかろうか。つまり、ものの味とは、もともと一定の具体的な場所(トポス)あるいは空気(雰囲気)のなかでしか、厳密には成り立たないものなのではなかろうか。」p.38
・「そういう意味での<方向>や<方角>についていえば、かつて中学生の頃に読んだ誰かの本のなかに、「プラトンは言った、偉大とは方向を与えることだ」とあったのを想い出す。」p.45
・「まことに記憶と共通感覚との後退・軽視は、近代世界に、また<近代の知>に顕著にみられた特徴である。だがそうだとすれば、それにかわってはなにがあらわれたのだろうか。そこにあらわれたのは、ほかならぬ方法と分析的理性であった。」p.62
・「旅といえば一般には、住み慣れたところからへだたった遠いところへ行くこと、つまり空間的な移動だともっぱら考えられている。しかし私たちは、そのとき実際には、むしろ時間を旅しているのではなかろうか。」p.87
・「このようなわけで、経験としての旅、生きられた経験としての旅では、旅はおよそ物理的な時間の経過のなかでの空間的な一つの点から他の地点への移動などにとどまらない。それは、記憶=過去と期待=未来とによって成り立つ内的時間を孕んだ人間が、土地それぞれの風土や、生活の固有リズム=時間のなかを経めぐることなのである。」p.90
・「そうはいうものの、実際には、同じく断片的知識の蒐集のようなかたちをとっている知のなかで、有意味的な秩序や構造をしっかりもっている場合もあれば、それらがひどく稀薄な場合もある。なぜそういうちがいがあるのだろうか。思うに、そこでものをいうのは、知識や情報を探索し蒐める者の側が、どれだけダイナミックに構造化された内的世界をもっているかということであろう。それは、ミクロ・コスモス(小宇宙)としての私たち一人一人の存在――つまりはコスモロジー――に応じて、自己をとりまく世界を理解し、配列して、ものを秩序づけることになるからである。」p.104
・「台本と即興とは、生活の中の演技、旅の身ぶり、思考の型といった様々の領野に対して適応可能な対比である。そしてこの二つの極が個人のスタイルを決定すると言えるだろう。台本による演技が時には因習的に見えて、即興に基づく演技が新鮮に見えるのは、前者が予測可能な手つづきをふむのに対して、後者が予測不可能な要素を帯びているからであろう。」p.127
・「知の旅を語るのに一般的なスタイルはないと、何度か強調して来た。私たちの時代の特色は、一般論とか教養といったものが、何ら知の道標として頼ることができなくなったというところにある。」p.128
・「本を読む愉しみの大部分は、ある本が前提とする知識の目録を作るところにあるというのが、私の長い間試みている本の読み方である。」p.130
・「ミルチャ・エリアーデの『始原学(アルケオロジー)』とも言うべき宗教史学は、1958年頃の私を捉えはじめていた。まだエリアーデは日本に未紹介であった。」p.139
・「六時の約束のところ、ちょっと遅れてガルシア・マルケスが現れる。写真で想像していたよりも少し小さい。マルケスは現れて握手するなり「君は狂人か」と尋ねたので、「狂人かどうかわからないが阿呆=道化の研究をここ十数年やっているので、狂人とかなり近いところにいるのではないかと思う」と言うと、「よし、合格、君はこれから僕の親友だ」と言った。」p.175
・「私が『道化の民俗学』において試みたのも、象徴・宇宙論的次元の彼方から浮び上がって来る歴史の古層を、より鮮明にする作業(つまり知の旅)であった。」p.191
・「この旅を通して、私たちは、知を、何かそれを身に付ければ少しは利益をもたらしそうなものとは理解しなかった。同時に、それを西欧から密輸入することによって人を威嚇する技術としても理解はしなかった。強いて言えば、私たちは知を「迷う」ための技術として理解しようとしたのかも知れない。」p.207
・「「知」を演劇的な演技(パーフォーマンス)として示すために、旅というメタファが最も適しているという共通の意見が本書の始発の点であり到達点である。」p.212

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