ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】「ことば」を生きる

2011年04月01日 19時08分26秒 | 読書記録
「ことば」を生きる 私の日本語修行, ねじめ正一, 講談社現代新書 1187, 1994年
・著者の子供時代からの「ことば」との奮闘の記録。ひたすら個人的な半生記の形はとっているが、詩に疎い私にとっては恰好の詩の入門書になった。「"詩" ってなんだかよく分からない……」という気持ちは揺るがないが、それに触れる抵抗はいくらか減った気がする。
・あれこれ分野を散らして読んでるつもりではいるが、一向に食指が動かないジャンル、"詩"。これまで当ブログ記事に登場したのも『悪の華』(ボードレール)が(たぶん)唯一という有様。もう少し近寄ってみてもいいのかな、とは思うが、むしろ自作した方がずっと楽しいのかもしれない。

『私と死と詩と 耳を澄ませば 雨の音』 ぴかりん作

おそまつ。

・「私の「ねじめ」は本名だ。漢字で書くと「禰寝」だが、この歳になるまで初対面の人で「禰寝」を「ねじめ」と一発で読めた人はいない。」p.10
・「自分の頭の悪いのを棚に上げて言うのもおかしいが、私が小学校三年生まで、通信簿の成績がオール1に近かったのも、「禰寝」ということばの刺激が強すぎて頭の中が腸捻転を起こしていたせいだなどと、こじつけてみたくもなるのである。」p.12
・「私は小学校六年のとき「ダジャレ王」と呼ばれていた。(中略)仕事のようにダジャレを考え、思いつくとノートに書き留めた。  なぜこんなにダジャレに夢中になったかと言えば、授業中に何気なく言ったダジャレがクラス全員に思いっきり受けたからである。そのダジャレは、

 ゴジラさんゴジラへどうぞ

というのだった。
」p.14
・「私の目ざす詩は「ゴジラさんゴジラへどうぞ」である。  私は自分の書いた詩で、読者に笑い転げてほしい。ユーモアとかエスプリとか、笑ったあとに人生の含みを感じたりする笑いではなく、体操みたいにただ笑い飛ばしておしまい、ということばが書きたい。」p.17
・「「早朝ソフトボール大会」では、生活にせっぱつまっていた私は、そのせっぱつまった自分自身をどうにかしたくて、ことばにすがりついたのであった。私にすがりつかれたことばは、ことば本来の自由を失って、ちぢこまってしまった。<決めつける>とはそういうことだ。鈴木志郎康さんは、そのことを批判し、「ことばをもっと自由に解放せよ」と言ったわけだ。」p.46
・「ここまで読んだ読者の中には、じゃあ自分の気持を詩に書いたらいけないの?――と戸惑っている人もいるだろう。いや、書いていいのである。ただ、詩の場合は、他人に自分の気持を伝えようとしてことばを使ってはいけない、ということである。じっさいのところ、他人はあなたの気持ちなんかには興味がないのだ。日記に書く詩ならともかく、他人に読んでもらおうとうする詩では、ことばになまの自分を押しつけないことが必要最低限の礼儀ではないだろうか。」p.47
・「ふんどしだけをして、便器に跨って朗読をはじめると、まず自分の詩のことばの強さがわかる。肉体がすっぱだか状態なので、朗読している詩のことばもすっぱだか状態になって、すっぱだかなあまりに自分のことばがお客の視線に敏感に反応している。」p.65
・「ことばと肉体は、じつは同じものなのではないか。満員電車に肉体がぎっしり詰め込まれているように、ことばをぎっしり詰め込む詩はできないだろうか。詩という箱の中に、これでもかこれでもかとことばを押し込んで、ことばがぎちぎちになって、意味も余白も立ち入る隙のない詩をつくりたい――。  私の詩はどんどんそっちへ向かっていった。」p.66
・「詩のことばは、その「見られている自分の肉体」と同じ強度を持っていなければならない。同じ強度を持たなければ詩のことばにならない。」p.71
・「泣き虫でなくても詩は書けるが、自分のことが好きでない人間には、詩は書けないのではないか――自分勝手にも、私は内心そんなふうに思っている。」p.89
・「狭いが、狭いところをもうひとつ見きると、すごく遠くの広い世界が見えてくる。」p.109
・「私の理想の詩は比喩がなくてもきちっと詩のことばとして立っている山之口貘のような詩である。」p.114
・「詩とは、崩れていく自分をもう一度こちらに引っぱり戻すチカラなのかもしれない。自分に必死になることかもしれない。」p.160
・「解釈しなければわからないことばなんて未熟なだけだし、文章から書かれてある以上の意味をさぐるのはバカらしい。今の私はそう思っている。」p.164
・「不思議なもので、詩はひとつがわかると、他の詩もどんどんわかってくるようになる。最初の詩がわかるまでに一ヶ月かかったとすると、次の詩は一週間ぐらいでわかる。その次の詩は一日でわかるようになり、しまいには一回読んだだけでスッとわかるようになる。」p.166
・「ことばでいちばん大切なのは、正確ということだ。このことはこのことばでしか顕せないという、その一言でピタッと表現しなければならない。そういうことばを見つけてこなければならない。だが、ことばはそう簡単には見つかってくれない。」p.167
・「長篇書き下ろしは遠くを見ながら足元も固めていくという油断も隙もない芸当を必要とする。  小説家にとって、処女作は、恐いもの知らずというか、勢いと書きたい気負いで書けてしまうが、書き下ろしとなるとそうはいかない。私の処女作『高円寺純情商店街』の場合も物語りのうねりよりも乾物屋のディティールにこだわって書くことができた。」p.205
・「詩のことばはテレビのギャグよりも得した気分にさせてくれるのだから、まだまだ捨てたものではないと思った。」p.213

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【本】高円寺純情商店街(2007.9.29)

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