ぺんぺんぐいん

ぺんぎん歩きは卒業したよ。

ところで

2006-04-10 02:12:05 | いろいろ
別れた相手とその後も仲良しな二人/気まずい二人。どれくらいの割合なんでしょ?

あるいは、単に音信不通になる二人。ちょっと気になる。

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すぐに進学せずあえて留年した理由は、
「自分の価値観に大きな変化が生じたから」
ってずっと思ってたんだけど、それ以上うまく説明できなかった。

人間観が変わったんだよねきっと。
で、それと連動して世界観にも大きな変更が加えられて。
進学を一年延ばしてでも、考えざるを得ない問題として膨れ上がった。

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もっと具体的に言うと。
人間の「理性」と「感情」という要素のうち「感情」を無視してきてた。
将棋において「論理」と「感覚」っていう両輪はあっても、感情ってあんま関係ない。
むしろ冷静な判断を下すためには、感情を完全に押し殺すことが必要だと思ってたから。

だけど、人間の感情という側面を無視してしまっては説明できない・理解できない問題にぶち当たった。
主にジャグリングのパフォーマンスを通して、ね。

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一番初めは、自分の知識の偏りのせいなのかと思った。

社会のことや文系・理系問わない諸学問について、あるいは芸能界とか。
そういうこと何も知らなかったから。
でも少し知ってみて、自分の疑問は何も解決されないように感じた。

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次は「科学で分析できるもの」と「科学では分析できないもの」の違いなのかと思って、
科学史や科学技術論の本を何冊か読んでみた。

当たらずとも遠からじ。「科学とは何か」ってしばらく考えてた時期もあった。
しかし依然としてピンとは来なかった。

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幸福論の問題なのかとも思った。

人は何に幸せを感じるのか。どうやって生きていたいと思うのか。
いろいろと自分の描きたい人生像を考えたりもした。

宗教に何か手がかりがあるかもと思って、キリスト教やイスラム教の本も少し読んだ。
人間は、どういう存在なのか。

当たらずとも遠からじ。でもやっぱちょっと違う。

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フランスにも、疑問を携えたまま一ヶ月行ってみた。
いろんな人たちに会って、いろんな体験があった。
なにかヒントを掴んだようで、掴めなかったようで。

芸術という営みになにかヒントがあるかもとも思った。
何度か観てみて、そこで自分に/観客に何が起こっているのかを考察してた。
何かわかったような、わからないような。

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次第に毎週パフォーマンスの仕事が入るようになって、そんな疑問も雲散霧消。

なんとなく自分の世界観、世界の認識の仕方、自分の立つ位置、というものを自分なりに体得できてきて、
留年を決心した時の疑問は言語化できないまま毎日を過ごしてた。

それでも自分の関心の方向性はいつも模索していたし、キーワードも拾い上げてきた。

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「自分が何か強い疑問にぶつかっている」というのはわかるのに、では
「何がわからないのか」「何に疑問を感じているのか」と言われると答えられない状態。

自分の価値観が急変したというところまでは感じ取れる。でも、どう変わったのかがわからない。
この気持ち悪さ。生きていることがもはや気持ち悪いくらい。

留年に関して明確に説明責任を果たすことができないということ。

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でも最近、ようやく言語化できてきた気がする。留年を決めてから実に丸2年半。

最終的なきっかけは、この3月に集中的に極めて多くの人と会って話したことだと思う。
何事も、自分が興味関心を持ってるものに集中的に接するとなにか吸収するものがある。

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「例えば風邪で寝込んでいる時、たとえ大した効果はなくとも布団の端を直してもらえたら・・ 嬉しいじゃない。」
と言われても、「この人は一体なにを言っているのだろう(・_・?)」ってな感じだった。笑

だって実際の効果がないことをしてもらったところで、なんの意味もなくない?って。
演算可能な範囲においてなんのプラスも産み出していないことには何も反応できなかった。

でも、そうじゃないんだよね。直してくれる、その相手の気持ちが嬉しいんだよね。
人は、演算可能な利害関係のみならず、気持ちと気持ちでもつながっているから。

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互いに負の気持ちを抱えたまま別れてしまうというのは悲しいことだと思う。

生きているうちに知り合える人の数なんてたかが知れている。
その中でせっかく時間と場所を共有した貴重な一人を、
負の存在として抱えてしまう/あるいは切り捨ててしまうってのは。もったいないことだよね。

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しかし相田みつをは凄いなぁ。
こんな長々と書いた文章を、もっと短く力強く何かで表せたらいいのに。。

まあそんな深い意味合いがある文章ではないけどさぁ。><