いもうとよ―3

2017-03-25 16:56:02 | Weblog
一応説明しとくけど、まだ今は昔の回想の部分だからそのつもりで読んでね。この話は2004年の出来事を2005年にふりかえってみたときのことなの。ややこしくてごめんなさいね。


こんばんは~、マリーで~す。

時間はもう夜の7時近いんだけど、お外はまだ明るくて、いかにも夏の夕方って感じで、うちのおばはんも今日あたりは部屋の窓と台所のドアを開けて部屋の中を風が流れるようにしてるのよ。昨日みたいな猛暑じゃドアを開けるとお外から燃えてるような空気が入ってくるばかりでどうにもならなかったのが、今日はこの時間、だいぶ涼しくなってるんだわさ。

今日はねえ、あたしとタブレットのアローちゃんも一緒にうちのおばはんのお供で四谷の教会に行ってきたのよ。あの人、このところ天候や体調が問題で最低限しか教会に行ってないから内心気が咎めてるんじゃないの、猛暑でも暑い季節のほうが本当は足腰の調子もいいのよね。

とは言っても昼間のお外は強烈すぎちゃってびっくりしたわ。まるでもう空気が燃えてるみたいな暑さよ。だからあの人のパソコンは夏になると暑さで熱暴走を起こすのかって初めて実感しちゃったわよ。

それでもあの人、久しぶりの四谷の風景は懐かしかったみたい。帰りに四谷のドコモショップがすぐ近くだから、料金の支払いに寄ったのよね。ほんでもって駅に戻る方向に歩いてくと、去年、相談に寄った交番もすぐ近くよ。あの時もミサが終わって帰りに思い余って駅前の交番で、いなくなった妹のことでどうしたらよいか相談したの。

ああいうのって、本当は当事者の住所の近くの警察に捜索願いを出すんですってね。でも当事者の妹や義理のお母さんの住所は千葉の房総だし、義理のおかあさんはそのうち帰ってくるから捜索願なんて冗談じゃないよとかって調子だし、仕方なしにうちのおばはんも、なんだかしれないけど何かあったような感じがするという思いだけを原動力にして動き始めたのよ。だから実の姉だし、親族ってことで交番で教わったように荻窪警察署に行ったの。こういうの勘ていうのかなあ。

一昨年の秋にスカイツリーに一緒に行ったときの話題の流れが何かひっかかってたらしいのよ。なんだかねえ、自分はいつだって身の始末はつけられる心積もりで生きてきたんだから、とか何とか話題が変だったの。

それから独り言みたいな感じでポツリと「60歳過ぎたら死んでもいいわよね」なんてことも言ったらしいのよ。

うちのおばはんだって気にはなったけどまさかって思うじゃないの。まさかって思いながらなんとなくひっかかっていたからこそ警察に行ったのよ。

それは実の妹のことだもの、何とか無事でいてほしいって思わないわけがないじゃないの。だけどあの人変な人だからただ心配だからっていうのとも違うのよね。心の奥深いところでは、最後のところはなるようにしかならないのはわかっていたの。あの人のなるようにしかならないって言うのはただの諦めともまた違うのよ、なんていったらいいのかしらねえ。

誰だってみんな一生懸命神様、仏様に祈るわよね。人間の力ではどうにもならないことでも、人間以上の大きな力のある方に何とかしてほしいって願うわよね。だけど、うちのおばはんときたらさ、お願いはするけど、人間の考えることと、神様のお考えが同じとは限らないんだし、神様のお考えは人間の側の希望、願いよりもっと広い視野から判断なさってのことだと思うから、その意味でなるようにしかならないって思ってるらしいのよ。

あのさあ、あの人、本当に神様を信じてるのよ。だけど、あの人が信じている神様はちっぽけな神様じゃなくてもんのすごく大きな神様なのよね。広大な大宇宙を創造して、その存在を支えているお方なんだわさ。そのとてつもない大きな大きなお方のなさることは時にはちっぽけなこちらの希望とはまるでかけ離れているかもしれないのよねえ。でもそれもこれもすべて、すべて最終的なところでは一番よいことになっていくんだって、それを信じるのが信仰だって思ってるらしいの。そういう目で見れば今起こっていることはなるようにしかならないってことになるらしいわ。

何か理屈っぽくてわかりにくい? そんなのあの人の名前をみればわかるじゃない、理屈の理に恵まれた子よ。小学二年のときにはもう担任の先生から子供のくせに理屈っぽいっていわれたくらいだもん、生まれつきよ。

あれれ、何か変な話になっちゃったから今日はこのへんでおしまいにしとこっと。ほんじゃ、またね。