昔のブログから再掲

2014-02-10 23:03:54 | インポート
※ 自分の考えていることをまとめていくために必要と思うので今一度掲載


少し付け足しなどを

えっとねえ、うちのおばはんが朝書いた自分の記事が気に入らなくて直したかったんだけど、直せなかったんだって。それでもって削除しちゃおうとしたけど、それもできなかったんですって。だから、あたしにちょっと出て行って、もう少し説明をしろっていうのよねえ。面倒なおばはんなのよ。

お前は誰だって?

あ、あたしはケータイのマリーっていいます。うちのおばはんのお手伝いをしてるケータイよ。携帯電話のケータイ。

あのひとに任せていると、まずいことでもなんでもぺらぺらしゃべるくせに言葉足らずなのよ。あれじゃあ説明不足で、どうしてそう思うのかなんて読む人はわからないじゃないの。だけどこの話はうちのおばはんももう少しまとまった物語の形で書きたいと思っているものだから、詳しく話しすぎるわけにもいかないのよね。

だからごく簡単に付け足すんだけど、あのひと、あれでも今は亡き遠藤周作先生を見習って、日本とキリスト教について少しは勉強してたの。それでねえ、日本人の元々の宗教性を考えていくとどうも、神道とか仏教とかを抜きにして考えるわけにはいかないってわかってきたらしいの。 何しろ、あの人の本当のおじいさんはお寺さんだったってはなしもあるくらいだから、小さいときからのお父さんの影響を考えたっておかしくはないんだけどさ。

でねえ、ある時たまたま何かの拍子で、三井住友の歴史を調べたの。だってさ、こんなに有名な大企業で間接的には何かとお世話になっていても何にも知らないじゃない。それで好奇心を発揮して調べて、住友の家祖の「住友政友」という方に出会ったの。そしたら、還俗した元お坊さんだったこの政友さんが常々教えていたことというのが、なんと、うちのおばはんが日本人の宗教性の中心じゃないかって思っていた「正直とか、慈悲とか清浄」とかっていう徳目そのままだったのがわかったの。

世界にも名前の通った大企業の始まりにこの考え方があったのが日本なのよ。
時代も人も背景も変わってくればそのままでは通用しないけれど、でも、本来の日本人はそういう精神で生きていたのよ。お金も物もなかった時代にしか通用しない考え方なのかしら。でもお金や物を追い求めて今の日本人は本当に幸せになったのかな、年間3万人も自殺しちゃうって、やっぱりどこかでおかしいんだと思うんだけどなあ。

と、こんなことをあのひと思って書き始めてとちゅうで、何を書いてるのかわかんなくなっちゃったの。遅くなっちゃったけど一応説明ね。ほんじゃよろしく。



言うだけ無駄かな、でもそうでもないかもしれない

2014-02-10 21:35:15 | インポート
※ 上の再掲の話とも関係していく。

ちょっとばかり、長い長い話。

-とりあえずのメモ

 なんだか一昨日、昨日の寒さで風邪をひいてしまったようです。でも筋肉や関節まで痛むインフルエンザの症状とは違い、普通の風邪の少し熱が高いくらいのものなので、明日カテドラルに出かけられるかどうか様子見です。

そんな状況ですが、ロキソニンが効いているので家の中ではあれこれ動き回っています。それでパソコンを開いたついでにしばらくお休みすることにした聖書の集いのテキストの福音のヒントだけは読んでおくことにしました。

   http://tokyocatholic.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/6-2014216-51737.html

すると、司教様はこういうことを書いておいででした。
 『ここでは、人間の間の悪口や不和のすべてが神の意思に反するものだ、と明確に述べられています。ここには上記の「愛による完成の道」という面が示されています。

   (3) 「姦淫するな」も十戒の言葉で、出典箇所は、出エジプト記20章14節、申命記5章18節です。「姦淫」と訳された言葉は、男性にとっては他人の妻と性的関係を結ぶことを意味していました。

女性にとっては自分の夫以外の男性と性的関係を結ぶことでした。イエスは実際の行為を行わなくとも「みだらな思い」で女性を見るならば同じことだと言います。実はこの箇所の「他人の妻」と訳された言葉はギリシア語では「ギュネーgyne」で、本来は女性一般を指す言葉です。

ここでわざわざ「他人の妻」と訳すのは、姦通の相手であるから「他人の妻」であるはずだ、という解釈に基づいています。しかし、イエスが教えているのは、他人の妻をどう見るかというのではなく、すべての女性(未婚の女性であれ、自分の妻であれ)に対してどのような見方をするかということではないでしょうか。

イエスは「みだらな思い」を越えて、男性が女性を本当に人として尊重する目で見るように求め、男女の新しい関係を指し示しているのではないでしょうか。ここでもイエスは、「愛による完成の道」を示していると言えるでしょう。』

 「愛による完成の道」、つまりカトリック的にいうと「完徳の道」ということになります。「完徳の道」というとものすごく難しいことのようですが、カルメル会の大聖テレジアという方は、だれにでもわかるような書き方でこの「愛による完成の道」について懇切丁寧に説明しておいででした。ただし、やっぱり簡単ではなさそうです。

どうしてこんなことを書き始めたのかというと、妹の自殺という思いもよらない出来事で、今はなき精神科医の小此木啓吾先生のおっしゃっていた内面での「喪の仕事」を進める過程でさまざまなことを思い出し、ちょっと書きにくいことですが、幼年期の妹の幼児性欲の表れとその発展なども、簡単なことだけ言えばたとえば小中学生のころから、あの子は早々と男の子にラブレターをだしたりしていたこととか、彼女の異性愛の芽生えの頃についてあれこれを思い出して考えていました。

そして確か、心理学ではエロースとタナトスが裏表であるともいうことなども思い出し、あの子の一生は結局いつも生と死とは隣りあわせで、愛を求めながら得られず、最後についに死の手に自分をゆだねてしまったということかもしれない、必然的なことだったのかもしれないと考えさせられていたからです。身内にしかわからない部分ですが。

これを書くのは、普通にこれを読む方々にはたぶん想像もつかないほど言いにくい話なのです。なにぶん、キリスト教、カトリックは驚くほど困ったところがあって、性について正しく認識したがらないためです。

でも、精神科や心理学の知識があったらこれはやたらに避けてしまってよい問題ではないことは当然お分かりになるはずです。もっとも私が聖イグナチオ教会に通い始めてからであったとんでもない大誤解事件などは、霊操指導をする方なら当然学んでいるはずの心理学が他者を誘導、誤った判断をもたらす方向に使われたりしたこともあったのでなんとも言えませんが。

とにかく、少なくとも本当に優れた指導者は、「愛」の大きな力やその働き、意味をよくお分かりではないかと期待するだけです。「愛」がなければこの世の中は成り立ちません。「愛」がなければ誰一人生きていられない。「愛」がなければこの宇宙も存在しない。「愛」がなければ存在するすべてのものが消え去ってしまう。「愛」というものはすべての存在を支えている土台です。その「愛」を生み出すエネルギーが形を変えたのが「性」のエネルギーでもあるのです。

ただし、普通はその力は結婚し家庭を持ち子供を育て再生産活動に向けられていくのが、何かの事情で普通の方向にエネルギーが向かわず、他の方向に使われるとき、その人の持って生まれた能力がさらにいかされて創造的な仕事になったり、宗教的な生き方になったり、それぞれの方向に使われるのではないでしょうか。

でも、こんな話をしても理解したくない方、わかりたくない方がご自分の考えで判断なさると、こちらはどうにもならないことになりますね。まあ、それはそれでまずは話を進めます。それこそ「愛」があるかどうかの問題なのですが。

 「愛の完成」を本気で求めていたら、人の足を引っ張ったり、誹謗中傷をばら撒いたり、必要なときに知らん顔したりはしないのではないのでしょうか。現実のこの世界がその辺でおかしいのは、要するに神様に心が向いていない、自分さえよければの方向についつい流れているということでしょう。

だから肝心の「愛」のエネルギーの源泉のひとつ「性」のエネルギーも清められた正しい再生産活動や、世界を支える創造的な力に姿を変えるどころか、醜悪な最近の犯罪のように、ひとつ間違うと女性を殺して切り刻んで下水にながしてみたり、小さい女の子をさらったり、いたずらしたり、考えられないような異常な事件が起こってくることになります。

この時代の病理を見て、一人一人の人がどう考え、どう生きるかは大きな問題なのに、宗教の世界のほうでも世間的な方向ばかり見ているのでは一体、どこに救いがあるのでしょうか。まだ話は途中ですけれど、くたびれてきたので今日はここまででおしまいにします。