クリスマス前の土曜日の夜

2012-12-22 22:15:45 | インポート
こんばんは~、マリーで~す。

今日はうちのおばはんもミサの前練習からちゃんと聖歌隊に行ったのよ。ほんとなら後の練習にも出る筈だったんだけど、ミサの終わりごろにはなんだか熱が出てくるときみたいないやな寒気がしてきて、あの人、やっと風邪が治ったばかりだし、これは無理しないでおこうって、早くおうちに帰ってきたの。だってさあ、本番のイブミサで歌えなくなっちゃったんじゃがっかりだもんね。

今年はねえ、なんだか四ツ谷の教会のクリスマスの準備、いやに早くて、どんどん進んじゃって、祭壇の両側のもみの木の電飾もとっくの昔に点灯してるし、降誕節の4本のローソク(アドベント・クランツ)新しくなったのだけはいいんだけど、教会の庭の馬小屋の馬槽になんと、今日はもう赤ちゃんのイエス様が安置されてるの。伝統ではあれは24日の零時を過ぎてから安置するはずなんだけど、もうそんなことはお構いなしみたい。ほんでもってさあ、聖歌隊席の予備の会衆席になる場所にもう椅子の準備が始まってたのにもびっくりよ。

時代が変わって、考え方も変ったってことなのかしら。なんだか赤ちゃんのイエス様が馬槽においでになるのを待つ期待感とかそんなものはかけらもないじゃないの。あれよ、なんていうか、情緒みたいなものがないのよねえ。うちの風邪ひきおばはんときたらそんなことを気にして、寒いのに外の馬小屋に長居をしたりしてたのも調子が悪くなっちゃった原因かもしれないわ。

だけどそれでも、教会の1年の暦はちゃんと今日はマリア様のエリサベト訪問の場面なのよね。2000年の年月、毎年、この季節になると、同じ話を繰り返してマリア様とエリサベト、イエスさまと洗礼者ヨハネの名前を誰もが心に思い起こしてきたんだわさ。外側の形は変っていっても変らないものがあるって本当にすごいことよね。

時代が変っていくたびに日本語に翻訳された祈りの言葉も何度も何度もかわっていってるんだけど、その言葉の意味や中身は一切変らずに伝わっていってるのよね、これもたいしたもんだわさ。2000年の年月よ。マリア様へ大天使の挨拶に始まる祈りが今の時代にも伝わってるってなんてすごいことなのかしらって、うちのおばはんのポケットの中で、聞こえてくる神父様のお説教の端々を、ぼんやり聞き流してるだけのあたしでさえそう思っちゃうもん。

あれれ、もうこんな時間。明日があるからあの人、早く寝かさなくちゃ。今日はこんなとこでおしまいよ。ほんじゃまたね。