晴れ 麻痺側の腰、脚が痛み、しびれる。歩行がつらい。あっためてシップを考えるが、さて、シップの入手…。
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体を動かすのが難儀な一日。やむを得ず、パソに向かってできることをした。
夕食は家族そろってくら寿司へ。全員で7名。そろったのは久しぶり。調子に乗って食べすぎたな。
足腰の調子は最悪。歩行困難のところを杖を頼りによれよれ、何度も肥田氏爪先が床につまずいた。脚が上がっていないから。弘美君に買ってきてもらった大判のシップ張り薬のお世話になる今夜。これも久しぶりのことゆえ、どうなりますやら。痛みの緩和があり、睡眠がとれることを祈ります。
たった一言が歴史の回り方を変えてしまう。(しつこいほどの「セガン」話題)
エドゥアール・セガンは1880年10月28日に、ニューヨーク市で死亡している。同月31日葬儀。幾人かの関係者による挨拶・弔辞が残されている。セガン研究初期の信頼すべき史料として重宝されてきた。中でも、セガンの友人ブロケット博士の弔辞は、不詳だったセガン生育史、社会活動史にも及んでおり、研究の基礎資料として扱う向きが多かった。その中から―
「セガン博士は、最も重要な博愛的事業に43年間取り組んだ。しかも全くの無償で奉仕し、…」
未踏の白痴教育を独力でやり続け、歴史のページを大きく切り開いた、というわけだ。そのために、「どんな仕事でもして必要な資金を調達した」とも、ブロケットは述べている。
セガン研究に招じ入れられたのは、実は、セガンはどんな仕事をしていたのかを鮮明にすること、というご下命に象徴される。自分は動かず他者を奴隷のごとくに酷使する得意技の行使!必要資金はびた一文もお出しになりませんものね。
さて、調査方向は?私の知る苦学生は「死体洗い」の仕事(生活費、学費を完全に賄うためには、短時間で高額な賃金の職種を選ぶ)を選んでいるが、ブロケットの弔辞をよく読むと、セガンは白痴の子どもたちの養育もしていた、とあるから、多額の資金が必要であったろう、苦学生のように、職務内容を選ぶゆとりなどなく、自らが住める、食える、学べる、子どもたちを住まわせる、食わせる、教える、などができるほどの、稼ぎを得ていた、というブロケットの話の行先になる。セガンはいまだ法学部学生であったから、「そんな馬鹿な!」というのが、私の第一声。それとも完全親掛の甘ちゃんか?
「ブロケット博士は偉大な人です。その人が嘘を言っているというのですか!」(例のごとく某氏)という罵りに近い叱咤の声を背中に浴びて、パリに調査に赴いた。2004年の秋以降の作業となる…。数年かけて、数本の短編を見出したのみである。それではとても生きていけるはずはない‥‥。