1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月21日・江戸川乱歩の遺産

2014-10-21 | 文学
10月21日は、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベルが生まれた日(1833年)だが、推理作家、江戸川乱歩(えどがわらんぽ)の誕生日でもある。名探偵・明智小五郎、怪人二十面相、少年探偵団の生みの親である。

江戸川乱歩は、1894年、三重の名張で生まれた。本名は平井太郎(ひらいたろう)。武士の家系で、父親は役所の書記係で、太郎はその長男だった。一家は父親の転勤にともない、引っ越しが多かった。
押川春浪の冒険小説や、黒岩涙香の探偵小説を愛読していた太郎は、中学を出ると、東京の早稲田大学に進学した。政治経済学部で学び、大学卒業後は、貿易会社、古本屋、ラーメン屋などさまざまな職業を転々としながら探偵小説を書いた。
29歳のとき、雑誌に投稿した『二銭銅貨』で作家デビュー。米国作家エドガー・アラン・ポーに漢字をあてた奇抜なペンネームで、欧米の探偵小説や科学、心理学をよく研究し、少年愛、女装、人形愛、残虐趣味など独特の趣味性を加味した推理小説を書いた。
推理作家として活躍しながら、探偵小説誌「宝石」の経営にたずさわり、日本探偵作家クラブを立ち上げ、私財を投じて推理作家の登竜門である江戸川乱歩賞を創設するなど、日本の推理小説の隆盛に尽力した。
晩年は、動脈硬化、パーキンソン病にかかりながらも、口述で著作を続けたが、1965年7月、クモ膜下出血のため、没した。70歳だった。
作品に『D坂の殺人事件』『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『鏡地獄』『一寸法師』『陰獣』『押絵と旅する男』『黒蜥蜴(くろとかげ)』などがある。

昔は、自分の認識によれば、男の子は小学校時代には推理小説を読むものと決まっていて、シャーロック・ホームズか、アルセーヌ・ルパンか、明智小五郎か、どれかをひいきと決めるべきだった。自分はルパン派だったので、ルパンものはすべて読み、ついでホームズものもかなり読んだ。でも、乱歩を読みだしたのは大学生になってからで、乱歩に関してはひどく奥手だった。
はじめて読んだ乱歩作品『押絵と旅する男』の味わいは忘れられない。冒頭の一文から乱歩独特の猟奇の世界へすっと読者をさらっていってしまう傑作だと思った。椅子のなかに人間が潜んでいて、すわった人を感じるという『人間椅子』の触覚の味わいは、川端康成の『眠れる美女』に通じる異常さで、そのすばらしさにしびれた。自分は推理小説を読んでも、トリックにはあまり関心がないみたいだ。

子どものころ、自分はテレビで映画『黒蜥蜴』を見た。これは乱歩の原作を、作家の三島由紀夫が戯曲化し、それを映画化したもので、二度映画になったうちの、自分が見たのは二度目のほうだった。
監督が深作欣二、音楽が冨田勲。明智小五郎役を木村功、黒蜥蜴役を美輪明宏が演じていた。黒蜥蜴がコレクションしている美しい人間の肉体標本のなかに、ボディービルをやっていた三島由紀夫本人がポーズをとっていた。当時、三島を知らなかった自分は、ひとつだけ顔のついた標本あって、それがまた眉毛の濃い変な顔なので、どうしてもっと美しい顔の役者を使わなかったのかと不思議に思ったものだった。

西村京太郎、 森村誠一、東野圭吾、桐野夏生、池井戸潤などはみな乱歩賞作家であり、江戸川乱歩が残した遺産の大きさは計り知れない。
(2014年10月21日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。ノーベル、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com


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10月20日・坂口安吾の堕落論

2014-10-20 | 文学
10月20日は、フランスの詩人、アルチュール・ランボーが生まれた日(1854年)だが、『堕落論』を書いた坂口安吾の誕生日でもある。

坂口安吾は、1906年、新潟で生まれた。本名は坂口炳五(さかぐちへいご)。父親は衆議院議員で、炳五は13人きょうだいの下から2番目だった。
忍者ごっこを好むやんちゃなガキ大将だった炳五は、中学生時代には授業をさぼってよく海辺で寝ていた。落第したため、東京の私立中学に編入し、東京で暮らした。
文学や思想書を読み、運動しては走り高跳びの全国大会で優勝する中学生だった。
父親が借金を残して亡くなったため、炳五は中学卒業後、尋常小学校の代用教員となり働いた。が、仏教に興味をもちだし、20歳のとき、教員を辞めて東洋大学に入り、インド哲学、仏教学などを勉強した。サンスクリット語、パーリ語、チベット語、ラテン語、フランス語などを猛烈な勢いで学んだ。
24歳で大学を卒業した後は、ポール・ヴァレリーやジャン・コトクーなどのフランス語作品の翻訳などをしながら、同人誌に小説を発表した。
敗戦直後の40歳のとき、評論『堕落論』、小説『白痴』を発表し、社会に衝撃を与えた。織田作之助、石川淳、太宰治らとともに「無頼派」と呼ばれ、一躍人気作家となった。
40代前半のころには、ヒロポン(覚醒剤)や睡眠薬などの薬物依存や、うつ病、神経衰弱を起こした。
1955年2月、脳出血のため没した。48歳だった。
作品に『桜の森の満開の下』『不連続殺人事件』『風と光と二十の私と』などがある。

坂口安吾の作品は、高校生のころにすこし読んだ。高校の夏休みの課題で、太宰治の『人間失格』を読まされ、太宰の仲間だったということで坂口安吾も読みはじめた。太宰が情緒的な魔性の文章家であるのに対して、同じデカダンスの無頼派でも、坂口は知性的で高い精神性をもつ思想家だった。「堕落せよ」というけれど、坂口安吾が薦める道は困難な、とてもきびしい道だと思う。

「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱(ぜいじゃく)であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。(中略)そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。」(坂口安吾『堕落論』青空文庫)
戦後の貧しい焼け跡のなかで、こういう発言をする精神の強さに自分などは敬服する。
堕ちている。いよいよ坂口安吾の言う通りに時代は進んでいると思う。
(2014年10月20日)



●おすすめの電子書籍!

『黒い火』(ぱぴろう)
47枚の絵画連作による物語。ある男が研究を重ね、ついに完成させた黒い火とは? 想像力豊かな詩情の世界。


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10月19日・リュミエール兄弟の遺産

2014-10-19 | 映画
10月19日は、メリルリンチを創設したチャールズ・メリルが生まれた日(1885年)だが、フランスの発明家、オーギュスト・リュミエールが生まれた日でもある。映画を発明した「映画の父」リュミエール兄弟の兄のほうである。

オーギュスト・リュミエールは、1862年、フランス東部の町ブザンソンで生まれた。父親は肖像画を描く画家で、写真館の経営者でもあった。オーギュストが生まれた2年後、弟のルイ・リュミエールが生まれた。
オーギュストは19歳のころから父親の仕事を手伝いはじめ、写真の感光剤や乾板を改良した。父親は有能な息子の協力を得て、写真乾板の工場をはじめ、感光剤を販売した。
32歳のとき、パリに出向いた父親は、そこで米国の発明王エジソンが作ったキネトスコープを見た。キネトスコープは箱をのぞきこんで動画を見る仕組みの映画装置である。
父親に勧められ、オーギュストとルイの兄弟は動画の研究をはじめ、キネトスコープを改良して、映像を大きなスクリーンに投影することによって、おおぜいがいっしょに見られるシネマトグラフ・リュミエールを開発した。
リュミエール兄弟は、映画を撮影し、1895年、オーギュストが33歳のとき、パリで世界初の映画を公開した。50秒ほどの短編映画が10本上映され、スクリーンに映し出された汽車が、こちらに向かって突進してくる映像に、場内は大騒ぎになった。
5年後の1900年開催のパリ万博でも、リュミエール兄弟の映画が公開され、その動く映像の迫力は世界に衝撃を与えた。
米国のエジソンは、彼ら兄弟の映画に刺激を受け、劇場映画製作に乗りだしていき、こうして、大西洋をはさんで、米仏の発明家が影響を与えあって、映画は育っていった。
リュミエール兄弟はグレタ・ガルボやマレーネ・ディートリッヒ、ジャン・ギャバンといったスターを輩出した映画産業の隆盛をながめ、第二次世界大戦後まで生き、兄のオーギュスト・リュミエールは、1954年4月に没した。91歳だった。弟のルイは、兄より早く1948年6月に83歳で亡くなっている。

インドやアフリカでも映画は盛んだし、もちろん日本や、米国ハリウッドもあるけれど、自分にとって映画の国はというと、やはりフランスである。甲斐バンドも歌っていた。
「映画を見るならフランス映画さ」(甲斐よしひろ「ポップコーンをほおばって)」

世界に映画祭は数多くあるけれど、やはり頂上に位置するのはフランスのカンヌ映画祭である。映画祭のにぎわいのほか、カルネ、ルルーシュ、トリュフォー、ゴダールといった監督たち、またあるいはベルモンド、ドヌーヴ、ソフィ・マルソー、エマニュエル・ベアールといった映画スターたちの活躍も、リュミエール兄弟の達成の上に築かれたものだと思うと、彼らがフランスに残した遺産の大きさをあらためて感じる。彼らの遺産は、極東の島国、日本にもちゃんと届いていて、その恩恵を自分なとずいぶんこうむっている。
(2014年10月19日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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10月18日・鈴木大拙の説得力

2014-10-18 | 思想
10月18日は、哲学者アンリ・ベルクソンが生まれた日(1859年)だが、仏教学者の鈴木大拙(すずきだいせつ)の誕生日でもある。禅を世界に紹介した人である。

鈴木大拙は、明治3年10月18日(1870年、西暦だと月日が異なる)、石川の金沢で生まれた。本名は鈴木貞太郎(ていたろう)。父親は旧金沢藩の藩医で、貞太郎は四男だった。
貞太郎は19歳のとき、高等中学を退学し、小学校の英語教師をした後、21歳で東京の専門学校に入り直し、22歳のとき、いまの東大である帝国大学の哲学科の選科生となった。選科というのは、一科目とか数科目の講義だけをとるコースのことで、鈴木は大学に通いながら、鎌倉の円覚寺に通って禅の修行をした。
25歳で専科を終了した後は、米国へ渡り、東洋思想系の書籍の出版にたずさわり、みずからも英語で禅について本を書いた。
39歳の年に帰国し、円覚寺に住みながら、学習院、東京帝国大学、大谷大学などで教鞭をとった。日本の大学のほか、ハワイ大学、プリンストン大学、ニューヨーク大学、コロンビア大学など米国でも禅や仏教について著述、講演をおこない、禅を世界に紹介し、広めた。
1966年7月、東京の入院先で没した。95歳だった。

『日本的霊性』『禅とは何か』『東洋の心』『東洋的な見方』など、鈴木大拙の著作は、自分は若いころにすこし読んだ。いまでも本をもっている。西洋的な理詰めで論理をきちんきちんと積み上げていくのでなく、急がずゆっくりと語っていき、いつの間にか納得させられているという感じの、不思議な説得力のある文章が印象的だった。
「西洋の人は客観的にものを観る。客観的に観るから知的になる。たとへば、ここに一つの紙片があるとする。西洋の人のやり方についていふと、この紙片は、白いとか、字が書いてあるとか、薄いとか、四角いとか、あるいはかう二つに折つてあるとか、そして科学的に見ると、この紙が何から出来てをるのか、(中略)とにかくそんなことで、この紙がわかつたことになるんですな。ところが東洋の人のやり方は、さうではなくて、特に老荘や、仏教の云ひ方は、さういふ紙を外から見た話ではなくして、紙そのものになれといふのですね。」(鈴木大拙「東洋の心」『鈴木大拙全集 第二十巻』岩波書店)
なるほどなあ、と思う。
日々生活に追われ忙しくしていて、ものごとを客観的に見られず、相手の立場に立ってみることもできず、結局なにもわからないまま、ただ無意味に走りまわって生きているだけになっているわが身を反省する。そのものになってみなくては。
(2014年10月18日)



●おすすめの電子書籍!

『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
同胞として誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、松前重義、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。日本人ってすごい。

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10月17日・サン=シモンの理想

2014-10-17 | 思想
10月17日は、ハリウッド女優リタ・ヘイワースが生まれた日(1918年)だが、社会思想家サン=シモン伯爵の誕生日でもある。ユートピア的社会主義の思想家である。

クロード・アンリ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモンは、1760年、仏国パリで生まれた。シャルルマーニュ大帝の血統をひく伯爵家の長男だった。
気性がはげしかったアンリは、18歳の年に陸軍に入隊。19歳の年には大西洋を渡り、騎兵隊の大尉として米国独立戦争に参加した。
23歳のとき、ヨーロッパへもどり、フランス・ネーデルランド(オランダ)連合軍を組織して英国に対抗しようと画策したり、スペインで運河建設の運動を起こしたりした。
29歳の年にはじまったフランス革命に際しては、彼は関わらず、民衆を前に「伯爵」の称号を放棄することを宣言し、国有地を売買する投機事業をはじめた。投機は成功し莫大な利益を上げたが、これが反革命的とみなされ、33歳のとき逮捕、投獄された。
政変によって釈放されたサン=シモンは、事業をやめ、38歳のとき、哲学研究に専念することを決意。以後、社会をいかにするべきかという社会変革の研究、著述に没頭した。
論文を書いては小冊子を印刷しているうちに、46歳のときには無一文となり、生活は逼迫した。そのとき、かつて彼の家の召使だった男に巡り合い、いまは成功し裕福になったその男の家の居候となって執筆を続けた。
50歳のとき、家主が没し、サン=シモンはふたたび生活に窮した。
53歳のとき『人間科学に関する覚え書』という小冊子を60部刷り、貧窮する現状を訴え援助を求める手紙を添えて友人や名士に送りつけた。この努力が実を結び、それからは政治家の資金援助を得て、執筆活動を続けた。
63歳になる年に、サン=シモンはピストル自殺をはかった。資金援助が断たれたこと、著作の反響がとぼしいこと、執筆上の悩みなどが彼に引き金を引かせた。自殺は未遂に終わり、サン=シモンは片目をなくして生き延びた。同情した政治家が援助を再開し、銀行家からの援助も得られるようになり、片目になったサン=シモンはさらに著述を続け、しだいに彼のもとに弟子が集うようになった。
1825年5月、サン=シモンは急性肺炎のため、パリで没した。64歳だった。

サン=シモンの思想の特徴は、産業というものを社会の中心に据えたところだった。ほかの思想家は、王権だとか、武力をもつ支配者だとか、資本家だとか、労働者だとか、社会のなかのある階層を中心に据えて社会を論じようとしたが、サン=シモンは、この世のすべての人間の能力をできるかぎり発展させるためには、富を生みだす産業こそ大切にするべきであり、産業を大事にして理想の社会体制を考えようとした。
サン=シモンが 友人や弟子に最後に言ったことばうこういうものだったという。
「何か偉大なことを成就するためには、夢中にならなければならぬことを覚えておきなさい。私の全生活の仕事を要約すれば、社会の全成員に、その能力の発展のために、最大の自由を与えるということです」(五島茂、坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」『世界の名著・続8 オウエン サン=シモン フーリエ』中央公論社)

サン=シモンの、自分がなすべきことを最優先して、自分の生計についてはほとんどかえりみない、という生き方は、現代日本の主流の生き方は正反対である。でも、そうやって生きた人の思想が、現代日本の産業中心主義の思想に通じる、それが興味深いと思う。
(2014年10月17日)


●おすすめの電子書籍!

『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?

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10月16日・ギュンター・グラスの告白

2014-10-16 | 文学
10月16日は、『ドリアン・グレイの肖像』を書いた英国の作家オスカー・ワイルドが生まれた日(1854年)だが、独国の作家ギュンター・グラスの誕生日でもある。『ブリキの太鼓』が有名だと思う。

ギュンター・グラスは、1927年、自由都市国家ダンツィヒで生まれた。ダンツィヒは、現在のポーランドのグダニスクだが、ギュンターが生まれた第一次大戦と第二次大戦のあいだの時期、国際連盟に承認、保護された都市国家だった。
父親はドイツ人の食料品店を経営者。母親は西スラヴ系の少数民族カシューブ人だった。
ギュンターが6歳のとき、ダンツィヒの選挙でナチスが過半数をとり、政府は反ユダヤ、反カトリックの法律を施行した。ダンツィヒに住むドイツ人は、ドイツ青年党などドイツ系の組織に吸収され、ユダヤ人とともにポーランド人も迫害されるようになった。
ギュンターが9歳のとき父親がナチス党に入党し、12歳のとき都市国家ダンツィヒはナチスドイツに併合された。ギュンターは15歳で労働奉仕団員となり、17歳のときにはナチスの武装親衛隊員になっていた。
ナチスドイツの降伏によってヨーロッパの第二次世界大戦が終わると、18歳のグラスは米軍の捕虜収容所で半年間暮らした。釈放後は、デュッセルドルフで石工として働きながら、文学グループに加わり、詩や戯曲を書いた。
32歳のとき発表した長編小説『ブリキの太鼓』が話題を呼び、作家生活に入った。『ブリキの太鼓』は西ドイツ、ポーランド、フランス、ユーゴスラビアの4カ国制作で映画化され、グラスが52歳のとき、カンヌ国際映画祭で最高賞のパルム・ドールを受賞した。
グラスはその後、ダンツィヒ三部作の『ブリキの太鼓』『猫と鼠』『犬の年』などを書き、1999年、72歳のとき、ノーベル文学賞を受賞した。
2006年、78歳の年に自伝的作品『玉ねぎの皮をむきながら』を発表。ダンツィヒでの少年時代から『ブリキの太鼓』を発表するまでの前半生をつづったこの文章のなかで、グラスはかつてナチスの武装親衛隊に在籍していたことを告白。これは各国のメディアに大反響を巻き起こし、ノーベル賞を返還すべきだなどの批判もあった。
2014年、86歳のときに創作活動からの引退を表明した。

『玉ねぎの皮をむきながら』を自分は読んだことがある。
「執拗に質問していると、想起は玉ねぎに似てくる。その皮をむいて一文字一文字、明らかにすることを求める玉ねぎだ。(中略)まだ乾いていて、パリパリと音のする皮の下にさらに別の皮があり、それもむかれると、みずみずしい第三の皮が出てくる。またその下には第四、第五の皮が待っていて、何やらつぶやいている。(中略)玉ねぎにはたくさんの皮がある。山ほどあるのだ。ひと皮むければ、すぐに新たに生まれ変わってしまう。だが、刻むと涙が出てくる。皮はむかれて初めて、真実を語るのだ。」(依岡隆児訳『玉ねぎの皮をむきながら』集英社)
戦争の前後を通じてのむごたらしい事件や悲惨な状況、刻々と変化する情勢に呼応して変わる人の心のいやらしさを見せつけられ、ことばを失う。いろいろ考えさせられる。

元ナチスであったことを隠してノーベル賞をもらったのはけしからんではないか、とグラスを非難する人たちは言うのだろうけれど、その当時にその場に居合わせたら、そんなことも言えないろうし、グラスが経歴について沈黙していた気持ちもわかる気がする。
現在、日本にもそういう暗い時代が迫っているようだけれど、社会の価値判断が目まぐるしく変わる戦争前後の混乱期は、自分の意見をもった近代市民にとってはほんとうに生きにくい、勇気を試される時代だと思う。
(2014年10月16日)


●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ドリアン・グレイの肖像」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

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10月15日・ミシェル・フーコーの知の考古学

2014-10-15 | 思想
10月15日は、ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェが生まれた日(1844年)だが、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの誕生日でもある。

ミシェル・フーコーは1926年、フランス西部のポワチエで生まれた。父親は外科医だった。高等師範に進んだミシェルは、エリートとして期待される肩の荷の重さや、同性愛者である自分の性的傾向、また、大学教員の資格試験に落第したショックなどから、22歳と24歳のとき、二度自殺未遂を起こした。
フランス共産党に入党し、26歳のとき、高等師範学校の教師となった。
それから大学の心理学教室の助手をへて、フーコーは29歳で、スウェーデンのウプサラにあるフランス会館の館長となった。その地で、後に『狂気の歴史』としてまとまることになる代表作を執筆。
40歳のときに発表した 『言葉と物』は、その重厚で難解な内容にもかかわらず学生たちによく読まれ、ベストセラーとなった。
その後、ヴァンセンヌ実験大学、コレージュ・ド・フランスの教授を務めた後、1984年6月、後天性免疫不全症候群(AIDS)のため没した。57歳だった。

20代の終わりごろ、自分には構造主義のマイブームがあって、言語学のソシュールとか、人類学のレヴィ=ストロース、それからこのミシェル・フーコーの本などを一時期つぎつぎと読んだ。半分は知的なファッション、衒学趣味だったと思う。
構造主義はいずれも自分には読み通すのがむずかい本ばかりだったけれど、それでも、なかでもいちばん親しんだのがフーコーだった。『狂気の歴史』には脱帽した。『言葉と物』など一時買い集めたフーコー本はみんななくなってしまったけれど、彼が43歳のとき書いた『知の考古学』だけはいまでももっていて、ときどき拾い読みする。

「地球は丸い、あるいは種は進化する、といった断定は、コペルニクスの前と後、ダーウィンの前と後では、同一の言語を構成しない。」
「『夢は欲望を実現する』という文は、たしかに数世紀を通じて繰り返し言われうる。が、この文は、プラトンにおいてとフロイトにおいては、およそ同一の言語ではない。」(いずれも中村雄二郎訳『知の考古学』河出書房新社)
こうした記述は、自分にとっては、とても新鮮だった。これこそ、まさに、歴史でなく、歴史学が必要である理由である。
たとえば、いま自分たちは紫式部や松尾芭蕉だとか古人の書いたものを読んで、わかった気になっているが、じつはそれが書かれたときには、まったくちがった意識で書かれていたはずなので、そうした文言を書かれたときの意味の通りに理解するためには、その当時の時代状況や書き手の状況などをよく知る「知の考古学」が必要になってきますよ、というのである。

時代小説やテレビの時代劇などを見ると、現代的な意識と倫理観をもった現代人が、ちょんまげを結い、昔の着物を着て歩いている感じで、べつにそれに文句はないけれど、ああいうものを見るたび、自分はフーコーを思いだす。
(2014年10月15日)



●おすすめの電子書籍!

『出版の日本語幻想』(金原義明)
編集者が書いた日本語の本。問題集の編集現場、マンガ編集部、書籍編集部で、本はどんな風に作られているのか? そこの日本語はどんな具合か? 涙と笑いの編集現場を通して、出版と日本語の特質、問題点を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。


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10月14日・ラルフ・ローレンの軽み

2014-10-14 | ビジネス
10月14日は、芸術家、会田誠が生まれた日(1965年)だが、ファッションデザイナー、ラルフ・ローレンの誕生日でもある。いわゆる「アメトラ(アメリカン・トラッド)」の人気ブランド「ラルフ・ローレン」「ポロ・スポーツ」の総帥である。

ラルフ・ローレンこと本名ラルフ・ルーベン・リフシッツは、1939年、米国ニューヨークで生まれた。ベラルーシから移ってきたユダヤ系移民の血筋で、父親はペンキ屋だった。
ニューヨーク市立大学に進み、ビジネスを学んだが中退。23歳のころ、合衆陸軍に入り、25歳のとき除隊し、ラルフ・ローレンと名乗るようになった。
服飾チェーンのブルックス・ブラザーズにセールスマンとして勤務した後、28歳のとき、トラディショナルブランドのノーマン・ヒルトンの資金援助を受けて独立。自分のブランド「ポロ(Polo)」を中心としたネクタイを売り出した。
以後、ポロシャツ、スーツなどメンズウェアを手がけて成功。スティックを振り上げたポロ選手のマークが付いた服は引っ張りだことなり、偽物が出まわった。
32歳のときからは女性服も手がけるようになった。
映画スターのオードリー・ヘップバーンやケーリー・グラントと親交のあったラルフ・ローレンは映画の衣装デザインも多く手がけた。
35歳のとき、ローレンは、ロバート・レッドフォード主演の映画「華麗なるギャツビー」の男性キャストの衣装を担当。同映画はアカデミー賞の衣装デザイン賞を受賞した。
38歳のときには、映画「アニー・ホール」に主演したダイアン・キートンが、ラルフ・ローレンのネクタイを締めたことでも有名になった。
ローレンのアメリカン・トラディショナルは米国はもとより、ヨーロッパ、アジアにも店舗を展開し、世界的企業に成長した。

アメリカン・トラッドは、もともと米国アイヴィー・リーグのファッションで、ボタンダウンのシャツや、軽やかなジャケットに代表される。ラルフ・ローレンは、いまや英国のチャールズ皇太子も愛好する世界的なファッションとなっている。

ローレンの折り目正しい、でもあまり重々しくならない、すっきりとした軽さのファッションが広く受け入れられているのは、自分にはよく納得できる。
以前、年下の若い友人男性に、お世話になったお礼にネクタイを贈ろうとして、自分はネクタイを物色しに服屋へ行った。はじめは、ジバンシーとか、イブ・サン・ローランとかにしようと思っていたのだけれど、たまたまその店にあったものがそうだったのかもしれないけれど、そうしたヨーロッパ系のネクタイはすごく渋くて、50代か60代くらいにならないと似合わない重々しさなのだった。それで、となりに並んでいた、もっと軽やかですっきりとしたラルフ・ローレンのネクタイを選んだ。
後で人づてに聞いたら、使ってくれているようで、よかった。

「愛のほかに、お金で買えないものはあるでしょうか?」
という問いに対して、ラルフ・ローレンはこう答えている。
「すばらしいものは、ほとんどが金では買えないものさ。愛……は買うことができるよ。残念ながら」(モーリッツ・フォン・ウースラー著、田丸理砂監訳『インタヴューズ』三修社)
(2014年10月14日)




●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。

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10月13日・マーガレット・サッチャーの行動力

2014-10-13 | 歴史と人生
10月13日は、シンガーソングライターのポール・サイモンが生まれた日(1941年)だが、英国初の女性首相、マーガレット・サッチャーの誕生日でもある。

マーガレット・サッチャーは、マーガレット・ヒルダ・ロバーツとして、1925年、英国イングランドのグランサムで生まれた。父親は食糧雑貨商で、市長を務めた名士だった。
代々メソジストの敬虔な信者で、質素倹約、自己責任、自助努力を家訓とする家に育ったマーガレットは、オックスフォード大学に進み、化学を専攻した。大学卒業後は、一般企業で研究者となり、アイスクリームに空気を混ぜて、たくさんに見せる技術の研究などをした。25歳のとき、政治家を志し、保守党から下院議会議員に立候補し、落選。
26歳になる年に、ビジネスマンのデニス・サッチャーと結婚し、マーガレット・サッチャーとなった。結婚に際し、マーガレットは将来政治家として立つ意思を告げ、夫は彼女に全面的に支援することを約束した。マーガレット・サッチャーは34歳で下院議員に初当選を果たし、45歳で教育科学相、50歳のときに保守党史上初の女性党首となった。
51歳のとき、ソビエト連邦の機関誌が彼女のことを「鉄の女」と呼んで非難し、それが彼女のニックネームになった。
1979年、54歳のとき、規制緩和と民間委託による競争原理の導入を訴え、選挙で保守党を大勝利に導き、英国初の女性首相に就任した。
就任後は公約通り、公務員を減らし、電話、ガス、水道、空港などの国営事業を民間へ委託し、所得税と法人税を下げ、消費税(付加価値税)を上げる荒療治をおこなった。結果、英国病と呼ばれた経済は息を吹き返し、シティーには世界各国から資金が集まった。
1982年、彼女が57歳のとき、南大西洋の英国領フォークランド諸島へアルゼンチン軍が侵攻する事件が起きた。サッチャー首相は反撃と島の奪回を即決。内閣の閣僚たちが軍隊の派遣に反対すると、彼女はこう言い放った。
「この内閣に男は一人しかいないのですか?」
英国軍は駆逐艦、フリゲート艦を失い、250名以上が死亡するという痛手を負いながらもアルゼンチン軍を駆逐し島の奪還に成功した。この勝利によりサッチャーの英国内の人気は高まった。
1990年、サッチャーは65歳で首相、保守党党首を辞職。以後、貴族院議員となり、晩年は認知症をわずらっていた。英国王室からガーター勲章、日本の皇室から勲一等宝冠章を授与された後、2013年4月、脳卒中のため、ロンドンで没した。87歳だった。

サッチャーの新自由主義の経済政策は英国に喝を入れ、新風を招き入れた。それは外国の資本を呼び込んで、自国の企業を外国企業の子会社にしただけの「ウィンブルドン現象」ではないか、との批判もある。また、国民に自助努力を求め、公務員をクビにして政府支出を減らし、市場競争をあおった結果、ヴァージン・グループのリチャード・ブランソンのような成功者が登場する一方で、大量の失業者が出た。失業者たちはサッチャーこそ英国を悪くした元凶だと批判し、彼女の死が伝わると各地で祝賀会が催されたほどで、いまだに彼女の経済政策の評価は定まっていない。全員が歓迎する政策などないということかもしれない。いずれにせよ、サッチャー首相は有言実行の人で、その断固とした行動力は尊敬に値すると思う。サッチャーはこう言っている。
「もしも好かれようとしているのみならば、人はいつもなんにでも妥協するよう身構えていて、結局何もできないままでしょう。(If you just set out to be liked, you will be prepared to compromise on anything at anytime, and would achieve nothing. )」(Goodreads Inc: http://www.goodreads.com/)
(2014年10月13日)




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10月12日・コロンブス・デイの異論

2014-10-12 | 歴史と人生
10月12日は、プロスキーヤー、三浦雄一郎が生まれた日(1932年)だが「コロンブス・デイ」でもある。約500年前、クリストファー・コロンブスが、西インド諸島のサン・サルバドル島に上陸した日である。

1492年8月、イタリアのジェノヴァ出身の探検家・奴隷商人の山師クリストファー・コロンブスが、口八丁でなんとか口説いてスペイン王室に資金を出させ、3隻からなる船団を率いて、スペイン・パロスの港を出航した。船団は大西洋を渡りきり、同年1492年10月12日、たどりついた西インド諸島の島に上陸し、この島をサン・サルバドル島と命名した。
コロンブスとしては、黄金の島ジパング(日本)を目指していたので、この地域は途中にあるインドだと考えた。それでこの地域を西インド諸島とか、現地人をインディアンという習慣が残った。コロンブス自身は、死ぬまでそこがインドだと信じていたという。
さて、島に上陸したコロンブス一行を、現地の人々は歓迎し、水や食料や贈り物をもって彼らを迎えた。対するコロンブスは、現地人の拉致、奴隷化、黄金を供出するようにとの脅迫、見せしめのための手首の切断、大量虐殺、おもしろ半分の虐殺などでもって応えた。
このコロンブス上陸の日を、18世紀ごろから米国では記念日として祝われるようになり、現在は10月の第2月曜日がこの「コロンブス・デイ」として国民の祝日となっている。

しかし、1911年、ネイティブ・アメリカンたちによって、この日は「インディアンが白人のアメリカを発見した日」であるとの訴えが起こされて以来、この日を祝日としたり、名称を変更するべきだとする講義運動やデモ行進もおこなわれるようになり、コロンブス・デイを祝わない州も増えてきた。

冷静な科学者だったフィレンツェ生まれのアメリゴ・ヴェスプッチとちがい、ジェノヴァ生まれのコロンブスはただただ欲に目がくらんだ野蛮人だった。
コロンブスのした所業を読むと、自分などは気分が悪くなり吐き気もよおすけれど、これそが伝統的なキリスト教徒の姿らしいなあ、とも思う。
自分は、イエス・キリストは迫害され惨殺された新興宗教の教祖であり、まったく信じられないくらいにいいことを言った偉人だと思うけれど、彼の死後の、ヨーロッパの弟子たち、つまカトリックの連中が、ゲルマン世界に対して、あるいは南北アメリカ大陸やアフリカ大陸に対してしでかした不始末は言語道断で、いまだにそのせいで世界は紛糾している部分も大きいわけで、コロンブスがおこなった虐殺行為はその典型的な例だと思う。

科学とか、文明とか、新技術だとか、そういったものを力強く推し進め、世界に広げていったヨーロッパ人が、同時に一方で、お腹をすかせたときにしか獲物を襲わない野獣よりももっとひどい残虐性を持ち合わせている事実を、自分はとても不思議に思う。コロンブス・デイは、そういう不思議についてちょっと考えてみるべき日なのでは?
(2014年10月12日)



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