1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月11日・アート・ブレイキーの講義

2014-10-11 | 音楽
10月11日は、「コムデギャルソン」のファッションデザイナー、川久保玲が生まれた日(1942年)だが、ジャズドラマー、アート・ブレイキーの誕生日でもある。

アート・ブレイキーは、1919年、 米国ペンシルベニア州のピッツバーグで生まれた。未婚の母の子どもで、その母親もアートを産んですぐに亡くなった。母親の友だちだった家族に引き取られて育ったアートは、学校でピアノを習い、十代のころにはクラブでピアノを弾いて働きだした。あるとき、クラブの経営者が彼にピストルをつきつけてきて、べつのピアニストと代わるよう命令された。以来、アート・ブレイキーはドラマーに転向したそうである。
23歳のころ、ニューヨークへ移り、マイルス・デイヴィス、チャーリー・パーカーなどと共演した後、35歳のころにジャズ・メッセンジャーズを結成。以後、メンバーを入れ替えながらも、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズとして、ライブ演奏やレコード録音をした。
日本にもジャズ・メッセンジャーズを率いて何度も来日し、人気を博した。日本は、黒人である自分を差別せず、人間として迎えてくれたうれしい国だとし、大の日本びいきだった。
ブレイキーは、 1990年10月、肺ガンのため、ニューヨークで没した。71歳だった。

ずっと昔、自分は米国ニューヨーク市のマンハッタンにいて、ある夜グリニッジヴィレッジにジャズを聴きに行った。自分はジャズについてまったく無知だったのだけれど「ヴィレジ・ボイス」というタウン紙を見ていたら、ジャズバーの広告が並んだなかに、知らない黒人の顔写真が他の写真よりひいでて大きく載っていて、これはきっと有名なジャズマンなのにちがいないと、出かけていってみたのだった。
バーは地下1階のとても広いところで、自分はテーブルにつき、マンハッタンやトムコーリンズをお代わりして、開演を待った。やがて、ピアノやダブルベース、トランペットなどの楽器奏者がでてきて、最後に白髪の黒人の老人がドラムセットの奥にすわり、演奏がはじまった。生まれてはじめて聴くジャズのライブだった。
何曲か白目を出してドラムをたたいた後、老人が立ってきて、スタンドマイクの前に立って、語りだした。
「ジャズというのは、クラシックやポピュラーなど、ほかのジャンルの曲とちがって、いま、この瞬間しかない音楽です。今日、この場所で、この瞬間のミュージシャンの感覚で演奏する音楽で、それは過去にも未来にも二度とないものなのです。それがジャズ音楽の特徴であり、尊いところなのです」
そう言って、またドラムのほうへもどっていき、演奏をはじめた。そうやって説明された上で聴いてみると、これがすばらしく聴こえる。ああ、この瞬間は二度と帰らないのだ、すごく貴重な瞬間なのだ、と。後でドラマーの名前をたしかめると「アート・ブレイキー」とあった。彼は当時64歳だった。
はじめて聴いたジャズの生演奏がアート・ブレイキーで、彼からジャズについて講義を受けたというのはステイタスだと思う。アート・ブレイキーのジャズ論は、そのままわれわれの人生にもあてはまると思う。
(2014年10月11日)



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『黒い火』(ぱぴろう)
47枚の絵画連作による物語。ある男が研究を重ね、ついに完成させた黒い火とは? 想像力豊かな詩情の世界。


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10月10日・アルベルト・ジャコメッティの個性

2014-10-10 | 美術
10月10日は、作家、野坂昭如(のさかあきゆき)が生まれた日だが、彫刻家、ジャコメッティの誕生日でもある。

アルベルト・ジャコメッティは、1901年、スイスのボルゴノーヴォで生まれた。異端審問からこの地へ逃げてきたプロテスタントの子孫で、父親は画家だった。
アルベルトは高校を卒業し、18歳でジュネーヴの美術学校に入った。
絵画より、彫刻を志すようになった彼は、21歳のとき、フランスのパリに出て、「考える人」で有名な彫刻家ロダンの弟子のアントワーヌ・ブールデルの弟子になった。
20代のなかばから作品を発表しはじめたジャコメッティは、当時最新の芸術潮流だったキュビスム、シュルレアリスム、原始彫刻などの影響を受け、ピカソ、エルンスト、ミロや、文学者のアンドレ・ブルトン、哲学者のサルトル、詩人のエリュアールらと交友を結んだ。ニューヨーク近代美術館(MoMA)にある「午前4時の宮殿」は、このころ制作された。
第二次世界大戦後、ジャコメッティは、人体を引き延ばした細長い人物の彫刻を盛んに発表し、実存主義的だとしてサルトルに絶賛された。
1966年1月、心膜炎と気管支炎のため、スイスのクールで没した。64歳だった。

ジャコメッティの彫刻は、現代のオークションに出品されると、天井知らずの値段がつく。
2010年にロンドンのオークションに出た等身大の男性の、やはり針金的な細長い彫刻は、104.300万ドル(約104億円)の値がついた。

ジャコメッティというと、あの細長い、針金細工でできた人間のような彫刻である。ひと目見た瞬間、あっ、ジャコメッティだ、とわかってしまう。その強烈な個性がいいのだと思う。
ジャコメッティの作品を見ていると、個性というのは、外に向かって表現するものである前にまず、その人による世界の解釈の仕方だということがよくわかる。
(2014年10月10日)




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『オーロヴィル』(金原義明)
南インドの巨大コミュニティー「オーロヴィル」の全貌を紹介する探訪ドキュメント。オーロヴィルとは、いったいどんなところで、そこはどんな仕組みで動き、どんな人たちが、どんな様子で暮らしているのか? 現地滞在記。あるいはパスポート紛失記。南インドの太陽がまぶしい、死と再生の物語。

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10月9日・サン=サーンスの白鳥

2014-10-09 | 音楽
10月9日は、20世紀最大のロックバンド「ザ・ビートルズ」のジョン・レノンが生まれた日(1940年)だが、作曲家サン=サーンスの誕生日でもある

シャルル・カミーユ・サン=サーンスは、1835年、フランスのパリで生まれた。父親は政府の役人だったが、シャルルが生まれて3カ月後に没した。母親とそのおばにそだてられたシャルルは、早くからその音楽の才能を認められていて、2歳のときにピアノを習いだして、すぐに絶対音感があることがわかり、3歳半ではじめて作曲をした。
5歳ではじめて公衆の前で演奏し、10歳のときデビュー・リサイタルを開いた。そのとき、アンコールを受けた彼は、ベートーヴェンの32曲のピアノソナタのうち、ご希望のものを記憶を頼りに演奏しましょうと聴衆に申し出た。
13歳でパリの音楽学校に入ったサン=サーンスは、そこで10歳だったビゼーと仲良くなり、数々の賞を受賞し、すでに巨匠だったリストとも親交を結んだ。
16歳ではじめて交響曲を作曲したサン=サーンスは、22歳のとき、マドレーヌ教会のオルガニストとなり、オペラ、交響曲、管弦楽などにわたるさまざまな曲を書き、51歳のとき、代表作の組曲「動物の謝肉祭」と、交響曲第3番ハ短調・作品78「オルガン付き」を書いた。
73歳のときには、映画のために局を書き、映画音楽を作曲した最初の作曲家のひとりとなった。
サン=サーンスは、アルジェリア旅行中だった 1921年12月、肺炎のため没した。86歳だった。葬儀は国葬で執り行われた。

自分はいまサン=サーンスをあまり聴かない。たまに聴くのは「動物の謝肉祭」と交響曲第3番と、あと、美しいバスーン・ソナタくらい。でも、小学校のころは毎日のように彼の音楽を聴いていた。
自分の通った小学校では毎日、放課後の午後5時になると「動物の謝肉祭」の「白鳥」のメロディーが校内にあるあちこちのスピーカーから流れだし、
「5時になりました。教室にいる児童も、校庭にいる児童も、みんな帰りましょう」
と呼びかけるアナウンスが聞こえてくるのだった。
だから、自分はあの「白鳥」の甘美なメロディーを聴くと、条件反射的に、もう、家に帰らなくては、という気持ちになる。美しい、流麗な旋律を書く作曲家、という印象がある。
(2014年10月9日)



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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ポール・マッカートニー/メニー・イヤーズ・フロム・ナウ」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!



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10月8日・武満徹の前衛

2014-10-08 | 音楽
10月8日は、精神医学者エルンスト・クレッチマーが生まれた日(1888年)だが、天才作曲家、武満徹(たけみつとおる)の誕生日でもある。

武満徹は、1930年、東京で生まれた。祖父は国会議員で、父親は保険会社に勤めるサラリーマンだった。父親の転勤にともない、生後1カ月で満洲の大連に引っ越したが、7歳のとき、小学校入学のため、家族と離れてひとり帰国。東京の伯父の家で育った。
戦後の16歳のとき、進駐軍のラジオ放送で音楽を聴き、音楽家を志すことを決意。横浜の進駐軍キャンプでボーイとして働いた後、18歳のとき、作曲家の清瀬保二に師事。しかし、技術的なことはいっさい教わらず、二人は音楽論を戦わせるばかりの師弟だった。
このころ、武満はピアノがないため、東京の町を歩きまわり、ピアノの音が聞こえると、見知らぬ家に頼みこんであがり、ピアノを弾かせてもらって練習したという。
ほぼ独学で作曲を学んだ武満は20歳のとき、清瀬と仲間が開催した作品発表会で、ピアノ曲「2つのレント」を発表し作曲家デビュー。
21歳のとき、交際していた画家、音楽家たちと芸術集団「実験工房」を結成。以後、この集団のつながりを通して演劇、映画、バレエなどの音楽を作曲するようになり、武満徹の音楽作品は知られるようになっていった。
日活映画「狂った果実」、劇団四季の「野性の女」、チョコレートのコマーシャル音楽などを手がけた後、27歳のとき、初のオーケストラ作品「弦楽のためのレクイエム」を発表。作品は新聞に酷評されたが、その録音テープを、たまたま来日中だったストラヴィンスキーが聴く機会があり、聴いたストラヴィンスキーはこう言って絶賛した。
「武満のは誠実さがあって厳しくていい」(小澤征爾、武満徹『音楽』新潮文庫)
それから武満は、日本フィルなどオーケストラからの依頼を受けて作曲したり、「切腹」「不良少年」「砂の女」「暗殺」「四谷怪談」といった映画音楽を担当したりしているうち、しだいに琵琶、尺八といった邦楽器を取り入れて作曲するようになった。この方向をオーケストラ用の楽曲に推し進めたのが、36歳のときの「エクリプス」であり、37歳のときにニューヨーク・フィルのために書いた「ノヴェンバー・ステップス」だった。琵琶と尺八がオーケストラと奏で合う斬新な「ノヴェンバー」は世界中で演奏され、タケミツの名は一躍、世界的なものとなった。
イェール大学の客員教授を務め、映画「天平の甍」の音楽を担当し、オペラ作品にも取り組んだ武満は、間質性肺炎や膀胱がんなどのため、1996年2月、東京の入院先で没した。65歳だった。

クラシック音楽にうとい自分は、指揮者の小澤征爾と親交のあった作曲家として武満徹の名前を知った。いま、小澤征爾指揮、トロント交響楽団演奏、ピアノが高橋悠治という豪華メンバーによる武満徹作品「アステリズム」を聴いているのだけれど、自分もようやくこんな現代音楽を聴くところまで来たか、と感慨深い。
武満徹作品には、音の美しさと鋭さ、そして自由があると思う。
ノーベル賞作家の川端康成がどこかで、
「いま、世界の最先端の文学とは、もっとも日本的な文学を書くことである」
というようなことを書いていたが、音楽の世界でそれをやったのが武満徹なのだろう。
(2014年10月8日)




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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?


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10月7日・ニュースステーションという番組

2014-10-07 | 歴史と人生
10月7日は理論物理学者ニールス・ボーアが生まれた日(1885年)だが、テレビ番組「ニュースステーション」がはじまった日でもある。現在、古舘伊知郎がメインキャスターを務める「報道ステーション」の前身である。

「ニュースステーション」という番組は、テレビ朝日系列で、1985年10月7日に放送がはじまった。メインキャスターは人気アナウンサーの久米宏だった。
それまではニュース番組というと、正午だとか午後7時の決まった時刻に、テレビ局社員のアナウンサーが、10分とか15分とかの短い時間内に、国内、国外で起きた事件やできごとを手短に、感情を抑え、事務的な口調で淡々と伝えるものだった。
「ニュースステーション」は、そうしたニュース番組のあり方をがらりと変えた企画で、中学生が見てわかる、おもしろいニュースを目指した初の番組だった。バラエティーショーとしてのニュース番組が、午後10時から1時間以上の枠をとって開始された。
企画段階から参加していた久米はほかの仕事をすべてやめて、この番組に集中した。共演するアナウンサーの小宮悦子に彼は、24時間この番組のことを考えるようにと言った。
軽薄、ふまじめがウリだった久米のパーソナリティーを前面に押しだした番組で、久米は個人的な感想や意見をはっきりと口にした。そして、テレビらしい視覚に訴える演出を打ちだした。空港の近くから拾ってきた飛行機の部品を見せ、心当たりのある航空会社は名乗り出るようにと呼びかけ、大事故の被害者の人数ぶんの靴を借りてきてスタジオに並べてみせ、その事故のもつ意味を視覚化して視聴者に示した。
献身の結果同番組の視聴率は上昇し、安定して高視聴率を稼ぐ怪物番組となった。それまでニュースなど見なかった主婦、若者がこの番組だけは見るようになった。
この人気番組を他局は露骨にまねた。TBSは筑紫哲也を担ぎだして『NEWS23』を裏番組としてぶつけ、NHKは『NHKニュース10』を作った。とくにNHKの場合は、久米宏が政府や自民党に対して批判的コメントを頻発するのに反発した自民党側からNHK側へ、対抗して裏番組を作るよう強い圧力がかかかったという。「ニュースステーション」は、2004年3月26日に最後の放送を終え、18年半にわたる歴史に幕を閉じた。

「ニュースステーション」が登場したときの印象は鮮烈だった。番組中で久米宏が、
「この機材はべつのテレビ局から借りてきたものなんです。ええと、なんという局だったか忘れましたが、たしか日本で唯一、視聴者から受信料をとるテレビ局でしたが……」
とぬけぬけとしゃべるのだった。こんなニュース番組はほかになかった。

久米宏が降番を予告した日のことはよく覚えている。その夕方、自分はたまたまある週刊誌の編集部まで自分の書いた原稿を届けに行った。そうしたら担当者が、
「たったいま、スクープが入りました」
と、久米宏が「ニュースステーション」を降りることになり、今夜番組のなかで発表する、というのだった。帰り道、自分はほかの社の女性誌の編集部などに立ち寄り、仕入れたばかりの情報を吹聴してまわった。その夜「ニュースステーション」の番組内で来春終了との発表があり、翌日の新聞にはいっせいにそれを報じた。

いまでは、アイドルタレントがニュースキャスターを務めたりして、ニュース番組はさらに大衆向けへと進化している。そのターニングポイントは1985年の「ニュースステーション」開始にあったと言ってまちがいないと思う。
(2014年10月7日)




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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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10月6日・ル・コルビュジエの近代

2014-10-06 | 建築
10月6日は、平成天皇の少年時代の家庭教師、ヴァイニング夫人が生まれた日(1902年)だが、建築家のル・コルビュジエの誕生日でもある。

ル・コルビュジエは1887年、スイスのラ・ショー=ド=フォンで生まれた。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ。父親は時計の文字盤職人で、母親はピアノ教師だった。
シャルルは、家業の時計作りを継ぐために地元の装飾美術学校に入ったが、そこの校長に才能を見いだされ、すすめられて建築の仕事を手伝うようになった。
21歳のころ、フランス・パリに行き、建築事務所に勤め、その後、美術学校で教鞭をとったり、新建築の設計にたずさわったりした。
27歳のとき「ドミノシステム」を発表。これは、鉄筋コンクリートによる住宅建設方法で、水平スラブと周囲でそれを支える最小限の柱、各階へのアクセスを可能とする昇降装置を構成要素とするものだった。
33歳のとき、詩人や画家といっしょに雑誌創刊し、そのころから「ル・コルビュジエ」というペンネームを使いだした。
ル・コルビュジエは「住宅は住むための機械である」という思想を推し進め、1925年、38歳のときに開かれたパリ万博では、装飾性を排除した「レスプリ・ヌーヴォー館」を発表し、建築界に衝撃を与えた。
43歳のとき、「低層過密な都市よりも、超高層ビルを建て、周囲に緑地を作ったほうが合理的である」とする考えを打ち出し、この思想は以後、世界の都市計画の考え方に大きな影響を与えることになった。
パリ郊外ポワシーにある「サヴォア邸」、「マルセイユのユニテ・ダビタシオン」「ロンシャンの礼拝堂」などを造った後、1965年8月、南仏カプ・マルタンで海水浴中に心臓発作のため没した。77歳だった。

ル・コルビュジエが提唱した理論に「近代建築の五原則」というものがあって、それはこういう内容である。
・ピロティ(一階部分に柱を残して外部空間とする構造)
・屋上庭園
・自由な平面
・水平連続窓(横長の窓)
・自由な立面
これを実現した典型的な例が「サヴォア邸」とされている。

ル・コルビュジエの近代建築の提議からいうと、わが家などは建築以前の代物で、ただの掘っ建て小屋である。やはり現代人らしい文化的な家に住むためには、広い空間と、豊かな資金が必要なようだ。
自分などは、こたつを置いた四畳半の、ごろりと寝ころがれば、ステレオにも冷蔵庫にも勉強机にも手が届いた、こぢんまりとした便利な下宿時代の部屋がいまだに懐かしく、ル・コルビュジエの建てるようなだだっ広い家だとどうも落ち着かない。ということは、家の側でも、住むのにふさわしい、それなりの人を要求するということで、自分などはそもそも近代建築に住むのに不適格な原始人タイプのかもしれない。やれやれ。
(2014年10月6日)




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『マネーマントラ』(天野たかし)
つぶやくだけでグングン金運が上昇、ウホウホお金が儲かってしまうという魅惑の呪文「マネーマントラ」の本。成功する呪文の本。貧富の原因は口ぐせにあった。あなた向きのマントラをさぐる診断テスト付き。


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10月5日・ロバート・ゴダードの苦難

2014-10-05 | 科学
10月5日は、大百科事典『百科全書』の著者・編者のドゥニ・ディドロが生まれた日(1713年)だが、「ロケットの父」ロバート・ゴダードの誕生日でもある。

ロバート・ハッチングズ・ゴダードは、1882年、米国マサチューセッツ州ウースターで生まれた。少年時代にH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を読んで、宇宙ロケットへの関心を強めた彼は、クラーク大学、プリンストン大学に入り、スミソニアン協会から資金援助を受けてロケット・モーターの設計に取り組んだ。
37歳で月飛行の可能性について論じ、44歳の年には、マサチューセッツ州内で初の液体燃料ロケットを打ち上げ実験をおこなった。液体燃料で推進力を得る人間の腕くらいの大きさのロケットは、2.5秒で41フィート(約12メートル)の高さまで飛んだ。まだ複葉機の戦闘機が飛んでいた第一次大戦が終わったばかりのころの話である。
その後、実験場をニューメキシコ州ロズウェルに移してロケット研究を続けた。
第二次世界大戦中は、ゴダードは海軍のためにロケット工学の研究を行ったが、海軍は彼の研究の価値がほとんどわからなかったという。ただし、ゴダードのロケット研究は、海軍の艦艇から飛行機を発進させるカタパルト技術に生かされた。これが、現代においてなお、米軍が極秘中の極秘の軍事機密として同盟国にも明かさないカタパルト技術となって受け継がれている。
ゴダードは喉頭ガンのため、第二次大戦が終わる直前の、1945年8月10日に没した。62歳だった。ゴダードが発明した214件の全特許は、彼の死後、合衆国政府が未亡人から買い取った。

ゴダードの頭脳は時代の先を行き過ぎていたために、当時の人々には理解されなかった。彼は真空の宇宙空間でもロケットは推進できると主張したが、科学者やマスメディアから嘲笑された。
また、ロケットの発射実験をした際にも、目標の高度を達成したのにもかかわらず、その後、落下してきたロケットが地面にぶつかって壊れたのを見た新聞記者が、「ロケットは空中分解した」と誤報を書き立て、それがもとで実験中止に追い込まれたこともあった。
ゴダードはしだいに人を信用しなくなり、たったひとりで実験を続けるようになったらしい。
ため息の出る話である。先をゆく人というのは、苦労するものだなあ、とあらためて思う。

ゴダードはこう言っている。
「何が不可能かを言うのはむずかしい。昨日の夢は、今日の希望となり、また、明日の現実となるのだから。(It is difficult to say what is impossible, for the dream of yesterday is the hope of today and the reality of tomorrow.)」(QuotationsPage.com and Michael: Moncurhttp://www.quotationspage.com/)
(2014年10月5日)



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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。

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10月4日・新村出の『広辞苑』

2014-10-04 | 歴史と人生
10月4日・新村出の『広辞苑』

10月4日は、仏文学者の河盛好蔵が生まれた日(1902年)だが、言語学者の新村出の誕生日でもある。『広辞苑』を作った人である。

新村出(しんむらいずる)は、1876年に、山口で生まれた。出生時の名は関口出だった。
父親の関口隆吉は旧江戸幕府の幕臣で、若いころには熱烈な攘夷(異国を打ち払う)論者だった。若き隆吉は、反対意見をもつ同じ幕臣の雄、勝海舟が馬に乗って通りかかったところを、いきなり刀を抜いて斬りかかったことがあった。馬が驚いて走り去り、勝は無事だった。度量の大きな勝はこの殺人未遂をとがめだてせず、隆吉に手紙を書き、以後二人は友人になった。
明治初期には、各県の長官を県令と呼んだが、隆吉は山形県の県令を務めた後、山口県に県令として赴任し、そのとき出が生まれた。山形と山口と「山」の字を二つ重ねて「出」と命名した。後に新村出は自分の雅号を「重山」と名乗ったが、それも同じ伝である。
ちなみに父親の隆吉は、その後、静岡県知事として赴任し、一家は静岡へ引っ越した。流吉は土地の有力者だった清水の次郎長などとも親交があり、息子の出も次郎長を訪ねたことがあるという。
出が13歳のとき、父親の隆吉が列車の正面衝突事故で没した。出は、十五代目将軍だった徳川慶喜の家扶(補佐する職員)の新村家の養子となり、彼は静岡の中学、一高をへて、東京帝国大学に入り、言語学を専攻した。
26歳で東京高等師範学校の教授、28歳で東京帝国大学の助教授となった。
30歳のころから、英、独、仏などヨーロッパに留学し、33歳のとき、京都帝国大学の教授に就任。以後、京都に暮らして、日本語の古音の研究や、東方諸民族の言語との比較研究、南蛮紅毛人の文献による日本語研究を続け、そのかたわら、日本語辞書の編纂にも力を尽くし、『広辞苑』を編纂した。
1967年8月に没した。90歳だった。

国語辞書で最大のものは、小学館の『日本国語大辞典』全14巻15冊(第二版)だろうから、自分はその子どもという意味で小学館の『国語大辞典』を本棚に置いて使っている。ふだんはこれで調べておいて、それでも困ったときは図書館の『日本国語大辞典』に相談に行く、というわけである。
でも、多くの人に使われている日本語の基準という意味で岩波書店の『広辞苑』を意識しないわけにはいかず、こちらもいつも手元に置いている。同じことばを、これら二つの辞書でひくことも多い。比較すると、その個性が表れて、とてもおもしろい。

日本の現代人は、ことばで説明するのが下手になったと感じる。人に何かものを尋ねても、ちゃんと説明が返ってくることはすくない。自分のぼんやりした印象を言うばかりで、それで説明した気になっている人が多い。ことばの説明となると、いよいよむずかしい。『広辞苑』は偉業だと思う。

新村出は新仮名遣いに反対したそうだ。自分も旧仮名遣いのままでもよかったような気がする。新仮名遣いは、理屈が通らない、いい加減に決めた変更があるので、迷いやすい。表音主義の表記で日本語を使いやすく、ということだけれど、中途半端になってしまった。そして、古文を読むのに抵抗を感じるようになってしまった。

新村出が詠んだ歌にこういうのがある。
「国語辞書いまだヴの音ヴの文字を立てずにゐるをいかにかはせむ」(新村出『白芙蓉』)
(2014年10月4日)




●おすすめの電子書籍!

『出版の日本語幻想』(金原義明)
編集者が書いた日本語の本。問題集の編集現場、マンガ編集部、書籍編集部で、本はどんな風に作られているのか? そこの日本語はどんな具合か? 涙と笑いの編集現場を通して、出版と日本語の特質、問題点を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。


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10月3日・ルイ・アラゴンの愛と抵抗

2014-10-03 | 文学
10月3日は、女流作家、平林たい子が生まれた日(1905年)だが、フランスの詩人・作家のルイ・アラゴンの誕生日でもある。シュールレアリスム作家として有名かもしれない。

ルイ・アラゴンは、1897年、フランスのパリで生まれた。父親は政治家だったが、当時17歳だった母親より30歳も年上で、子どもを認知しなかった。そこでルイは、母親と母方の祖母に育てられた。彼は父親のことをただ「名付け親」とだけ聞いて育った。
第一次世界大戦がはじまった17歳の年に大学入学資格試験に合格した彼は、ソルボンヌで植物学、生理学、生物学などを学び、医学の道を進もうと考え、軍に志願入隊した。そのころ、彼は実の父親について知り、衝撃を受けた。また同時期に彼は、シュールレアリスムの総帥アンドレ・ブルトンと知り合った。
陸軍病院の軍医補実習生をへて、アラゴンは21歳になる年に西部戦線へ送られた。その5カ月後にドイツが降伏し、終戦となった。終戦後も、アラゴンのいる部隊は、占領軍としてドイツに駐留しつづけた。そのとき、退屈のあまり、ひまつぶしに書きだしたのがシュールレアリスム小説『アニセまたはパノラマ』だった。
アラゴンは、既成の文学スタイルを破壊し、新しい価値観を打ち立てようとするダダイズム、シュールレアリスム(超現実主義)の詩人、作家として詩や散文を発表したが、33歳のころから、コミュニズム(共産主義)によるリアリスム(現実主義)の作家へと180度方向転換をし、それまで同志だったブルトンたちと袂を分かった。
30歳のとき、共産党に入党し、たびたびソビエト連邦を訪れた。
第二次世界大戦にあたり、彼はふたたび兵役についた。そして、ダンケルクから撤退し英国へ逃げた延びた兵士たちのなかに、43歳のアラゴンも混じっていた。その撤退のときをうたった詩が「ダンケルクの夜」である。
大戦中は、ドイツ軍の捕虜となり、脱出した後、除隊。ドイツ軍から逃げてフランス各地を転々としながら、反ファシズムの運動を鼓舞する詩を書いた。
戦後は、雑誌の編集長となり、ソ連のスターリン主義に反発する、ソルジェニーツインやミラン・クンデラといった東側の反体制的作家たちの作品を盛んに雑誌に載せた。
出版社の経営にたずさわった後、75歳のころから、コミュニズムから離れ、ふたたびシュールレアリスムの作風の小説を発表しだした。
そして、1982年12月、パリで没した。85歳だった。

自分は若いころ、ジャリ、ブルトンなどシュールレアリストたちの作品を読んでいて、アラゴンのも読んでいた。だから、自分にとってはなつかしい作家である。

アラゴンは、戦乱の時代に生きた、愛と抵抗の詩人だったと自分は思う。
彼のスタイルは、ダダイズム、シューレアリスム、コミュニズム、またシュールレアリスムと目まぐるしく変遷したが、それは見方を変えれば、反保守主義、反リアリズム、反ファシズム、反リアリズムと、時々の体制側に対し一貫して抵抗した姿とも見える。
一方で、アラゴンは31歳で知り合ったロシア人のエルザという女性を終生の恋人としていて、彼女のことをうたった愛の詩も多い。たとえばこんな風に。
「どんな扉もぼくには君の通路にすぎない
 どんな空もただ君の瞳だ それを笑う人などかまうものか
 いつも少しずつ進む電車が君を運んでくれますように」(橋本一男訳「とこしえにつづく逢いびき」『世界詩人全集18 アラゴン、エリュアール、プレヴェール詩集』新潮社)
(2014年10月3日)


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『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
同胞として誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。平林たい子、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、松前重義、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。日本人ってすごい。


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10月2日・スティングの忠告

2014-10-02 | 音楽
10月2日は、「マハトマ(偉大なる魂)」ガンディーが生まれた日だが、ロックミュージシャンのスティングの誕生日でもある。

スティングこと、ゴードン・マシュー・トーマス・サムナーは、1951年、英国イングランドのウォールズエンドで生まれた。父親は機械工場に勤める工員で、ゴードンが5歳のとき、牛乳販売業の権利を買い取って独立。ゴードンも7歳ごろから牛乳配達を手伝わされるようになった。まだ人々が寝ている未明に起きだす牛乳配達は、とくに冬場はつらかったが、早朝の沈黙の景色は想像力を刺激し、すばらしい体験でもあったという。
ゴードンは大学に入り、中退。バスの車掌や建築現場の労働者、税務署の事務員など、職を転々とした後、あらためて教員養成大学に入り、卒業した。そして23歳のころ、イングランド北部のノーサンバーランドで小学校教師の英語教師になった。
教員生活のかたわら、週末にはナイトクラブのジャズバンドといっしょに演奏していた。25歳のとき、ドラマーのスチュワート・コープランドに誘われ、ロンドンに出て音楽活動に専念することを決心。ギターのヘンリー・パドゥバーニを加えて3人でポリスを結成した。やがてパドゥバーニが抜け、代わりにアンディー・サマーズが加わり、3人編制のパンクバンドとしてポリス(The Police)はライブ活動をスタートさせた。このころは貧しく、生活は苦しかった。スティングは俳優のアルバイトをして糊口をしのいだ。
スティングが27歳のとき、ポリスはファースト・アルバム「アウトランドス・ダムール」を発表。28歳のとき、ポリスはセカンドアルバム「白いレガッタ」を発表。アルバム中の曲「孤独のメッセージ(Message in a Bottle)」が世界的ヒットとなり、ポリスは一躍トップグループにのし上がった。ポリスは名盤「ゴースト・イン・ザ・マシーン」「シンクロニシティー」などを発表した後、解散。スティングは34歳でソロ活動をはじめ、いまにいたっている。

1983年、ポリスのシングル「見つめていたい(Every breath you take)」が発売されたとき、自分はニューヨークにいて、FMラジオではじめてこの曲を聴いた。ため息の出るような名曲だった。あるラジオのDJがこの曲を4回続けてかけたのを聴いたこともある。3回かけた後「いい曲だ」とため息をついて、もう1度かけたのである。その年の暮れにポリスは解散した。

自分はポリスとスティングの大ファンで、ポリスやスティングの楽曲はすべて聴いていると思う。武道館のスティングのコンサートに行ったこともある。
スティングの書く曲の歌詞は概して単純だけれど「孤独のメッセージ」はロック史上に燦然と輝く名歌詞である。彼の曲はむしろメロディーとリズムが秀逸で、それを彼があのハスキーな哀調を帯びた声で歌うとすべて名曲になってしまう。曲調がものさびしいほどひきたつ彼の歌声は、つねに孤独な魂の代弁者でありたいと言う彼の音楽性にぴったりと合っている。その歌声は、聴く者の頭のなかに忍び込み、強引に歌の世界を作り上げてしまう。一度好きになると病み付きになる魅惑の声だと思う。

スティングの息子、ジョー・サムナーもロックミュージシャンだけれど、スティングは同じ音楽業界に入った息子にこうアドバイスしたそうだ。
「スーツを着た人間を信じるな」
(2014年10月2日)
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『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。ガンディー、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。

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