1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月26日・トロツキーの生命力

2014-10-26 | 歴史と人生
10月26日は、作家、織田作之助が生まれた日(1913年)だが、ロシアの革命家、レフ・トロツキーの誕生日でもある。

レフ・トロツキーは、1879年10月26日(グレゴリオ暦だと日付が異なる)に、帝政ロシア統治下にあった、現在のウクライナのヘルソンに近いヤノフカ村で生まれた。本名は、レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン。両親ともユダヤ系で、広い農地をもつ富農だった。レフは8人きょうだいの1人で、上に姉や兄がいた。
レフは9歳のとき、黒海に面した港湾都市オデッサのドイツ人学校に入った。
読書家だったレフは、17歳ごろから政治活動に目覚め、共産主義運動に加わった。革命をあおる小冊子を作って配り、19歳のときに逮捕され、シベリア送りとなった。
23歳になる年に流刑先のシベリアから脱走し、英国ロンドンに渡って、機関紙発行にたずさわり、ロシアの帝政を倒す革命運動を海外からあおった。このころから彼が名乗るようになった姓「トロツキー」は、彼がロシアの拘留施設のなかで会った看守の名だという。
トロツキーは26歳のときロシアに帰国し、ゼネストに参加したが、逮捕され、またもやシベリア流刑を宣告された。が、移送中に脱走し、オーストリア、スイス、フランスへと渡り、ふたたび外国の亡命先から言論活動によって革命を叫びつづけた。
1914年、トロツキーが35歳の年に第一次世界大戦が勃発。
1917年、トロツキーが38歳の年に、ロシア革命。彼はロシアへ帰国し革命を指導した。
ロシア革命とはおおまかにいって、ロシア皇帝による帝政が倒される二月革命と、それによってできた臨時政府が倒されボリシェビキ(多数派)による支配が確立する十月革命の二つだが、トロツキーはとくに十月革命のときに指導力を発揮し、赤軍を創設し、ロシア革命の指導者であるレーニンにつぐナンバー2の地位にのぼりつめた。
トロツキーが45歳の年にレーニンが没すると、たちまち権力争いが起こった。レーニンは後継者をトロツキーと指名していたが、スターリンはその情報をにぎりつぶし、権力闘争に勝利した。スターリンはトロツキーの全役職を解任し、ソビエト連邦から国外追放した。
50歳のトロツキーはトルコ、フランス、ノルウェー、メキシコと亡命先を転々としながら、スターリン批判の発言を続け、著述活動を続けた。そうして、1940年8月、メキシコの隠れ家で、スターリンの放った暗殺者によって、登山用のピッケルを頭に打ち込まれ暗殺された。60歳だった。

ずっと昔、自分は「暗殺者のメロディ」という映画を見た。メキシコに亡命中のトロツキーの晩年を描いたもので、トロツキーをリチャード・バートンが演じ、彼を手伝う女性秘書がロミー・シュナイダー、その恋人役がアラン・ドロンだった。このドロンが暗殺者になるわけで、ドロンの陰のあるムードがマッチした、印象深い映画だった。トロツキーの暗殺者はメキシコで20年の刑期を務めあげた後、ソ連へ行き勲章をもらったそうだ。

トロツキーは精力家で、革命運動や言論活動で忙しいなか、いつも女性と関係をもっていた。シベリア抑留中に女性と結婚し子どもをもうけ、メキシコでは女性画家のフリーダ・カーロとも関係をもっている。カーロと別れ、べつの女性に乗り換えた後に暗殺された。トロツキーは頭も切れたろうけれど、その強い生命力には脱帽する。
(2014年10月26日)


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