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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月17日・サン=シモンの理想

2014-10-17 | 思想
10月17日は、ハリウッド女優リタ・ヘイワースが生まれた日(1918年)だが、社会思想家サン=シモン伯爵の誕生日でもある。ユートピア的社会主義の思想家である。

クロード・アンリ・ド・ルヴロワ・ド・サン=シモンは、1760年、仏国パリで生まれた。シャルルマーニュ大帝の血統をひく伯爵家の長男だった。
気性がはげしかったアンリは、18歳の年に陸軍に入隊。19歳の年には大西洋を渡り、騎兵隊の大尉として米国独立戦争に参加した。
23歳のとき、ヨーロッパへもどり、フランス・ネーデルランド(オランダ)連合軍を組織して英国に対抗しようと画策したり、スペインで運河建設の運動を起こしたりした。
29歳の年にはじまったフランス革命に際しては、彼は関わらず、民衆を前に「伯爵」の称号を放棄することを宣言し、国有地を売買する投機事業をはじめた。投機は成功し莫大な利益を上げたが、これが反革命的とみなされ、33歳のとき逮捕、投獄された。
政変によって釈放されたサン=シモンは、事業をやめ、38歳のとき、哲学研究に専念することを決意。以後、社会をいかにするべきかという社会変革の研究、著述に没頭した。
論文を書いては小冊子を印刷しているうちに、46歳のときには無一文となり、生活は逼迫した。そのとき、かつて彼の家の召使だった男に巡り合い、いまは成功し裕福になったその男の家の居候となって執筆を続けた。
50歳のとき、家主が没し、サン=シモンはふたたび生活に窮した。
53歳のとき『人間科学に関する覚え書』という小冊子を60部刷り、貧窮する現状を訴え援助を求める手紙を添えて友人や名士に送りつけた。この努力が実を結び、それからは政治家の資金援助を得て、執筆活動を続けた。
63歳になる年に、サン=シモンはピストル自殺をはかった。資金援助が断たれたこと、著作の反響がとぼしいこと、執筆上の悩みなどが彼に引き金を引かせた。自殺は未遂に終わり、サン=シモンは片目をなくして生き延びた。同情した政治家が援助を再開し、銀行家からの援助も得られるようになり、片目になったサン=シモンはさらに著述を続け、しだいに彼のもとに弟子が集うようになった。
1825年5月、サン=シモンは急性肺炎のため、パリで没した。64歳だった。

サン=シモンの思想の特徴は、産業というものを社会の中心に据えたところだった。ほかの思想家は、王権だとか、武力をもつ支配者だとか、資本家だとか、労働者だとか、社会のなかのある階層を中心に据えて社会を論じようとしたが、サン=シモンは、この世のすべての人間の能力をできるかぎり発展させるためには、富を生みだす産業こそ大切にするべきであり、産業を大事にして理想の社会体制を考えようとした。
サン=シモンが 友人や弟子に最後に言ったことばうこういうものだったという。
「何か偉大なことを成就するためには、夢中にならなければならぬことを覚えておきなさい。私の全生活の仕事を要約すれば、社会の全成員に、その能力の発展のために、最大の自由を与えるということです」(五島茂、坂本慶一「ユートピア社会主義の思想家たち」『世界の名著・続8 オウエン サン=シモン フーリエ』中央公論社)

サン=シモンの、自分がなすべきことを最優先して、自分の生計についてはほとんどかえりみない、という生き方は、現代日本の主流の生き方は正反対である。でも、そうやって生きた人の思想が、現代日本の産業中心主義の思想に通じる、それが興味深いと思う。
(2014年10月17日)


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