1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

1月13日・狩野芳崖の志

2024-01-13 | 美術
1月13日は、『くまのパディントン』の作者マイケル・ボンドが生まれた日(1926年)だが、狩野芳崖(かのうほうがい)の誕生日でもある。江戸時代から明治時代にかけて生きた日本画家である。

狩野芳崖は、文政11年1月13日(西暦だと異なる)、下関に生まれた。小さいころは幸太郎といった。
父親は長府藩(ちょうふはん)の御用絵師で、幸太郎の師匠は父だった。
19歳のころ、江戸へでてべつの絵師のもとで修行。
30歳のとき帰郷。このころから「芳崖」の名を名乗るようになった。
廃藩置県があったのが、43歳のとき。
これによって、全国で200万人の藩士が解雇されたというが、藩のお抱え絵師だった芳崖も、給料がもらえなくなり、生活は途端に困窮しだした。
カイコを飼ったり、陶磁器の下絵を描いたりしたが、苦しい暮らしむきがつづいた。
路頭にまよう寸前のぎりぎりの窮乏のなかで描き、展覧会に出品した作品「桜下勇駒図」「雪景山水図」が、審査員だった東京大学のアーネスト・フェノロサに認められるところとなり、フェノロサとの親交がはじまる。それまで、芳崖の絵はモノクロの水墨画だったが、このころから色に目覚め、彩色をはじめた。
さらに西洋画の空気遠近法や陰影法をとりいれ、新しい日本画の創造を目指し、「悲母観音像」の製作にとりかかる。
フェノロサが創立に向けて奔走していた東京美術学校(芸大美術部の前身)の、初代日本画主任教授に、芳崖は就任する予定だった。が、学校がはじまる前に亡くなってしまった。
絶筆となった「悲母観音像」は、亡くなる4日前まで、描きつづけていたらしい。
「あと3日あれば」
といい残して芳崖は没した。60歳だった。

「悲母観音像」は、なんともいえない深い魅力をもった作品で、たて型の画面の雲間の、右上のほうに悲母観音がぽかりと浮かんで立っていて、その足元のあたりに、シャボン玉のような透明な球がふんわり浮かび、なかに赤ちゃんがいる。見下ろす観音さまと、しゃぼん玉のなかから見上げる赤ちゃんの目と目が合って、そこに目に見えないきずながある。背景には、この世とは思われない、奥行きが限りなく深く感じられる虚空。空間の配置がすばらしく、絵全体から強烈な魅力が放射されている。
この傑作が未完成だったとは信じられない。あと3日で、どこをどう描き足したかったのか、まったくわからない。

芳崖という人は、生活にほんとうに苦労した人だが、生活苦に負けず、それに打ち勝った。そんなものをものともせず、自分の芸術の理想を最後まで追いつづけた。

「芳崖」の号は、「禅の極致は法に入れて法の外に出ることである」という教えから、「法外」の「ほうがい」の音からつけた名だという。志の高さを見習いたい。
(2024年1月13日)



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