た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

鰻賛歌

2018年11月06日 | essay

 鰻の話である。

 鰻は不思議な生き物である。くねくねとしてぬるぬるしている。子供の頃、夏祭りで鰻のつかみ取りがあった。なんでこんな気持ち悪いものをつかまなければいけないのか訳が分からなかった。不思議な生き物だから、調理されても不思議な感が残る。自分からすすんで食べようという気がしない。歯ごたえが妙に柔らかいし、タレの濃さで何かを誤魔化されている気がする。だって実体はあの、くねくねぬるぬるなのだ。いや、食べてみると確かに美味しい。けっこう印象に残る美味しさである。が、騙されてはいけない。第一、値段が高過ぎる。法外である。鰻に払う金額でかつ丼なら三杯注文できる。別にかつ丼を食べたいわけではないけれど。

 ところが、衝撃的な鰻に出会ってしまった。

 現在同居している義母は、鰻が大好物である。それで年に何度かは、懐具合を気にしながらも食べに行くことがある。鰻屋の暖簾をくぐってかつ丼、と言うわけにもいかないので、私も鰻重を注文する。行きつけの鰻屋が諏訪地方にあるのだが、店の名前はここでは伏せよう。別にこの記事を誰が見るわけでもなかろうが、一応公共の場に著すのだから、褒めるのであれけなすのであれ、素人が匿名で店の経営を左右する発言をするのは無責任である、というのが私の持論である。だから私は「口コミ」が嫌いである。嫌いでも思わず見てしまうのだが、やっぱり嫌いである。

 この度もその行きつけの鰻屋に行った。行きがてら牛伏寺で紅葉を見て、道の駅でトイレ休憩をして、店に到着したのはお昼を少し過ぎていた。紅葉が綺麗だったので、気分は悪くなかった。小腹も空いていた。

 いつもは混んでいるのだが、時刻が遅いせいか、すんなりと席に通された。義母と妻と私の三人、鰻重を注文する。

 出てきた鰻重の蓋を開け、最初のひと口を頬張った瞬間であった。得も言われぬ香りが鼻を包んだ。そのあとに繊細で深い味わいが口の中に広がった。ああ、これは美味しい、という実感が、振動で全身に伝わった。

 焼きが強いわりに、中身がふんわりした食感なのがこの店の特徴である。私はどちらかと言うともう少しパリッと固い方が自分の好みだと思っていたが────その日はお腹が空いていたのだろうか。タレの濃厚な甘い香りと鰻の脂のコクと、皮の香ばしさと、そこに閉じ込められた身のふわっとした食感のすべてが、完璧に調和しているのを感じた。上等な羽毛布団にくるまれているような満足感があった。

 私が妻や義母の顔を見ると、向こうも目を合わせてくる。三人とも感じていることは同じらしい。

 「美味しいね」

 「美味しい」

 以前食べた時も確かに美味しかった。しかし、今日のこの特別な感慨は何なのだろうか。

 鰻が違うのだろうか。特別逞しく健康的な生き方をした、鰻仲間から兄貴と慕われているような立派な鰻がたまたま当たったのだろうか。それとも、調理のなせる業だろうか。最近腕を上げたね、などと女将に褒められたばかりの焼き手が気合を入れて焼いたのだろうか。それとも、すべてはいつも通りだが、食する我々の側の心もちと腹具合が、しっかりと味わう体勢になっていたのだろうか。

 私にはわからない。

 途中で山椒を振ったが、山椒がいらない仕上がりだった。

 <これが鰻重なのだ>と今更のように心に呟きながら箸を動かした。

 食べ終えて箸を置き、ふと見ると、食事制限のある義母も完食している。普段は気を付けて少し残すのだが、よほど美味しかったのだろう。

 不思議なのはここからである。

 鰻食は店で終わらなかったのだ。鰻食という言葉があるかどうかは知らないが。温泉に立ち寄ってから家に戻り、翌日になっても、なにか、口蓋に丸く張り付いたように、鰻の芳香が残っている感覚がある。鰻がまだ口の中にある、という気さえする。そんな風に感じることは滅多にない。確認してみると、同行者二人もそう感じているらしい。そうか、鰻はこんなに、こんなに美味しいんだ、と考えを改める絶好の機会になった。くねぬるもこれなら大歓迎だ。

 

 もちろん、考えを改めたからと言って、頻繁に食べに行けるところではない。懐具合を確かめつつ、それでもどうだろう、来年の敬老の日を待つというのはいくらなんでも遠過ぎるか、などと思案している。

 

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