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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

入梅

2019年07月02日 | 写真とことば

 

 登山に目覚めて一か月。梅雨に入りいきなり出鼻をくじかれた思いである。せっかく熾きた登山熱が冷めてしまうのが心配である。また困ったことに、自分は急速に冷めやすい体質なのだ。もともと山頂で使用してみたくて購入した携帯コンロと焼き網を、仕方ないから食卓に置き、タラを炙って酒のつまみにしてみた。干しダラを中火にかけ、ぷくぷくと泡が立つように膨らみ始めるころに、裏には程よく焼きめが付く。これを熱い熱いと言いながらハサミで短冊に切り、七味をまぶしたマヨネーズにつけて噛み切る。このやり方であっているのか知らないが、居酒屋の見よう見真似である。なかなかに旨い。携帯コンロは卓上でも場所を取らない。こんな使い方でもいいかな、と思い始めている自分がいる。

 先日の日曜日は、天気予報が雨と知り登山は早々に諦め、車を走らせて新戸倉温泉に行ってきた。湯が鮮やかな緑色だと聞いていたが、期待していたほど緑色ではなかった。が、汗がしっかり出て気持ちよかった。帰りがけにはあじさいを観に智識寺に立ち寄った。写真がそのときのものである。あじさいで有名というほど、あじさいは咲いてなかった。が、茅葺の屋根がなかなか趣があった。なんだかすべてが予定より少しずつずれている。ずれてもそれなりに満足している。人生における幸福とはそのようなものかも知れない。

 天気予報とは裏腹に、終日雨は一滴も降らなかった。むしろ好天であった。それなのに山を目指さなかったことをさほど悔やんでいない自分がいる。この自分は、責められなければいけない。ここでしっかり自分を責めておかねば、登山用品でタラを炙って満足するような、「ずれ」に甘んじた人間に堕してしまう。

  天気予報とのにらみ合いが続く。

 

 


中房温泉

2019年06月20日 | 写真とことば

 

 中房(なかぶさ)温泉はいい温泉である。1400メートルばかりも山道を登ったところにあり、そこからさらに燕岳(つばくろだけ)へ登山する入口になっているのだから、山の中の中である。渓谷に蝉時雨が響き渡り、野猿が道端でお迎えしようかというような奥地である。新緑に目を潤し、清涼な空気に喉を洗う。衣服を脱ぎ捨てて露天風呂に入れば、巨石が取り囲む湯船に、透明だが硫黄臭のある温泉がなみなみと溢れている。湯船は二つ、熱いのとぬるいのがある。まずは熱い方に入る。湯がじんじんと体中のツボを刺してくるが、しばらく入っているうちに熱さも落ち着き、柔らかく体を包んでくれるのを感じる。見上げれば青空に松。これで元気が出てこないはずはない。元気は元気だが、なんともゆったりとした元気である。隣のぬるいのに移れば、効能ある泉水に全身を浸らせているという感覚はさらに増す。このまましばらく眠ってもいいかなと思う。もちろん眠るわけにはいかない。

 湯上りには前庭の長椅子に座り、呆然とそよ風に当たる。なんだか来る途中に見た猿になったような気分である。あいつらは文明を眺めてぼうとしていた。自分は自然をながめながらぼうとしている。そんなに大差はない。

 またいつか、猿になりにここに来よう。


本末転倒

2019年06月11日 | 写真とことば

 

 日曜日は登山、が続いている。

 霧ヶ峰の隣にある鷲が峰を目指したら、霧が深くて断念。売店の人に尋ねたら、これくらいの霧は日常茶飯事だそうだ。「何しろ霧が峰ですからね」と、さも当たり前のことのように言われた。仕方なく下山して諏訪湖を一周する。一周できるというのは噂で聞いていた。初めてやったが、スタートからゴールまでの全行程を常に眺めながら歩くのはなかなか辛いものである。

 そもそも今回の目的は、何を隠そう買ったばかりの携帯コンロでラーメンを作ることにあった。その思い止みがたく、帰路牛伏寺の階段工に立ち寄り、誰も訪れない川岸で試す。刻々と悪くなる空模様を気にしながら慌てて作ったので、噴きこぼれもあったが、なんとか無事完成した。山頂でというわけにはいかなかったが、旨かった。

 食べたら早々に退散。

 

 


覚醒

2019年05月30日 | 写真とことば

 

 どうも山に憑りつかれたらしい。本格的な山登りを始めたのはほんの一か月ほど前だが、毎週でも登山靴を履きたくてうずうずするようになった。さほど体力のあるほうではない。楽をできるのなら人生楽を選んできた。それが突如、こうまで山に惹きつけられるとは。我ながら不思議でならない。

 山は美しい。低い山ですらそう思う。じゃあいったい何がどう美しいのかと問われれば、答えは簡単ではない。頂上からの大パノラマや見事な瀑布、といった景勝地ならわかり易いが、とりわけ眺望のよくない森の中でも十分美しいと感じる。それはなぜか。

 平地の街の建物の中で、所在なく一人考え込んでいたら、一つの答えに辿り着いた。

 すべてがそこにはある。

 山には、語弊を恐れず言えば、すべてがある。どの地点でも均一なものはなく、常に予測不可能な色彩が広がっている。緑だけではない。白樺の色、黒い切株、小さな野花、名も知らぬ枯草。空気だって予測不可能だ。暑かったり、涼しかったり、刻一刻と変化する。樹形はつねに多様である。幾重にも織り重なる小鳥のさえずり。岩を踏みしめる感触。鼻孔をくすぐる複雑な匂い。

 生きていれば感じ取るものを、存分に与えられ、感じ取っているという豊かさが、そこにはある。

 一方で街の生活はどうだ。外に出なくてもいい。日光に照りつけられなくてもいい。歩かなくてもいい。いつも同じ景色を眺めていればいい。疲れを感じなくてもいい。予測できないことに戸惑わなくていい。欲しいものが欲しい場所ですぐに手に入る。保証された安心を買うことができる。温度も調節できる。快感さえ調節できる。便利なのだ。あまりに便利で、退屈のあまり孤独を感じるのだ。

 何もかもわかり切ってしまうさみしさが、そこにはある。

  

 次の登山に向けて、携帯コンロを買った。調味料も冷蔵庫もない山上で、そんなに旨い料理はできないだろうと思う。だが、不便という予測不可能な領域へ挑むことに、なんと興奮を覚えることか。

 

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 引きこもりの問題が世間を騒がせている。街に出て面白くなければ、そりゃ引きこもる気持ちもわかる。しかし引きこもることで、一層の虚無感と向き合わざるを得なくなる。何もかもが揃っていても、何もない、という苦しみだ。

 彼らに山に登って欲しい。自然の豊潤さにぜひ触れて欲しい。と、自分がまだ大して登ってもいないのに偉そうに思う。

 山は、まだ見ぬ景色を与えてくれる。

 

 再来週あたりは、鷲が峰か。

 

 

 


山上の昼食

2019年05月24日 | 写真とことば

 最近登山を始めた。始めたと言っても、まだ美ケ原と守屋山という、低い山を二つ登ったばかりである。美ケ原に至っては、購入した『信州の日帰り登山』にも載っていなかった。

 山頂に着いて驚くのは、どちらも自炊する人で賑わっていたことである。携帯コンロでバーベキューをしながら語らう団体もあれば、ラーメンを作る二人連れがいたり、かと思うと若者が一人、ホットサンドを焼いて自分だけの世界に浸っていたり。なるほど、近年の登山ブームはこういうところに醍醐味を見出しているのか。山登りより、山を登った後が本番なのだ。いろいろ便利な道具が売られているから、それをさりげなく他の登山客に見せつけるのも虚栄心をくすぐるのだろう。

 自分たちも次回は、と思うと山登りが一層楽しくなる。他の登山客の目を引くものでなければ。炭を担いで上がって炭火焼でもやってやろうか。それはさすがに森林組合の人たちに叱られるか。そもそも、たったふた山登ったばかりで気が早いか。

 山上の調理はおいおい考えていくことにしよう。焦る必要はない。涼風に汗を洗われ、はるか遠い山並みを見つめながら、お握りを頬張る。それだけでも、びっくりするくらい美味しいのだから。

 

 

※写真は美ケ原


ウポポイ! 北海道

2019年03月12日 | 写真とことば

北海道を旅した。

二十五年前、学生時代にも旅した大地である。

そのときは寝袋の入った大きなリュックを背負い、ヒッチハイクをしながら、

パンの耳を食べ、観光地を避けて自然の中をさまよった。

二十五年経った今、

妻を連れた観光旅行は、飛行機に乗り、レンタカーを借り、

寿司屋に入り、ビール園でジンギスカンをたらふく食べ・・・・

だが

だがそれで、なんなんだ?───

───そう、二十五年前の自分が問う。

そこにどんな感動があるんだ?

旅行の終盤、予定のコースを外れ、観光パンフレットにない道に車を走らせた。

何もない、と言えば、確かに何もない場所である。

そのとき撮った一枚。

ようやく、北海道に帰ってきた気がした。

 

 


旧篠ノ井線廃線敷遊歩道

2018年11月27日 | 写真とことば

 使われなくなったトンネルがあった。使われないままに、何処(どこ)かと此処(ここ)をつないでいた。人間も老いていけばそんなものかも知れない。

 トンネルへ続く路は遊歩道になっていた。地元の小学生たちが植えたのか、いちいち名札の付いた桜の苗木が列をなして植わっていた。もう何年かしたら、桜並木として人混みを呼び戻すかも知れない。

 小学生たちは昔の鉄道とは何の関係もあるまい。トンネルはなんとなくこのままだろう。

 


爽快な日はちょっとだけ漢文調に  『開田』

2018年11月13日 | 写真とことば

 

電車とバスを乗り継ぎ、開田高原を歩く。

 

空には雲一つなく、薄は金色に輝き

 

日は背を温め、風が涼しく頬を撫でる。

 

旅籠に入りとうじ蕎麦を頼むと、

 

小鉢が三種。湯気を被りつつ酒に親しむ。

 

店を出て坂道を上り、草原に寝ころび

 

御岳を眺めれば、いつしか目蓋も閉じる。