ここのところ不安定な天気が続いていますが、昨日も、雷が鳴っていました。稲妻の光るタイミングと雷鳴の轟の時間差が、雷雲との距離を測る目安と言われていますが、昨日は2度ほど、ほとんど時間差なく、雷が近所に落ちたのでは?と言うことがありました。落ちる場面は残念ながら見ることが出来ませんでしたが、やたらなところに落ちていれば、それなりに被害も出るでしょうから、避雷針かなんかに落ちていることを祈るばかりです。
今日は、私の部活のお話を少し。
小学校高学年の時は、
東京と文京区の千駄木小学校に通っていて卒業。
その後、地元の文林中学へ。
そこで、部活を選択しなくてはいけなかったが、
グランドが狭く、
1周100メートルなんてとても取れない狭い校庭。
だから、野球部、テニス部、なんてなく、
仕方なく、陸上部へ。
1972年のことである。
このころの出来事としては、
「アポロ16号」が月面に着陸。
中華人民共和国との国交恢復を記念して、
ジャイアントパンダ「カンカン」「ランラン」が、
上野動物園に到着。
そんな時代でした。
まあ、それはそれとして、
陸上競技を初めてはいいけれど、
どの種目を専門にするか決めていなかった私は、
先輩の練習に付き合う形で、
走り幅跳びに挑戦。
いきなり4メートルを超えることが出来て、
跳躍競技が結構面白いかも!って思い始める。
その後、走り高跳びも遊びでやってみる。
4年前のメキシコオリンピックで、
フォスベリー選手が初めて跳んだ背面跳びを、
見よう見まねで跳んでみたら、
何故かしっくり跳べて、
それまでははさみ跳びで、
1メートル25センチが自己記録だったのに、
いきなり1メートル40センチをクリア。
この時期、陸上の大会でも、
背面跳びは少数派というかほとんどいません。
ベリーロールが主流だった時期でした。
1年生の夏休み中に沼津4中に転校。
そこで野球部か、テニス部に入ればよかったのに、
陸上部に入ってしまいました。
走り高跳びの背面跳びのカッコ良さに酔っていた私でした。
もし、最初から沼津4中に通うことになっていたら、
多分陸上部には入らなかったと思います。
やり直すことは出来ないので、それが運命?
大げさに言えばそういうことになるのでしょうか。
今、縁あってソフトテニス部にいる部員たちも、
女テニを選ぶにあたっては、
無意識かもしれませんが、
何かに引き寄せられて選んでくれたのでは?
勝手に思っています
だからこそ、3年間部活をやっていて良かった!
そう思ってもらえるようにしたいと思っています。
今日は、私の部活のお話を少し。
小学校高学年の時は、
東京と文京区の千駄木小学校に通っていて卒業。
その後、地元の文林中学へ。
そこで、部活を選択しなくてはいけなかったが、
グランドが狭く、
1周100メートルなんてとても取れない狭い校庭。
だから、野球部、テニス部、なんてなく、
仕方なく、陸上部へ。
1972年のことである。
このころの出来事としては、
「アポロ16号」が月面に着陸。
中華人民共和国との国交恢復を記念して、
ジャイアントパンダ「カンカン」「ランラン」が、
上野動物園に到着。
そんな時代でした。
まあ、それはそれとして、
陸上競技を初めてはいいけれど、
どの種目を専門にするか決めていなかった私は、
先輩の練習に付き合う形で、
走り幅跳びに挑戦。
いきなり4メートルを超えることが出来て、
跳躍競技が結構面白いかも!って思い始める。
その後、走り高跳びも遊びでやってみる。
4年前のメキシコオリンピックで、
フォスベリー選手が初めて跳んだ背面跳びを、
見よう見まねで跳んでみたら、
何故かしっくり跳べて、
それまでははさみ跳びで、
1メートル25センチが自己記録だったのに、
いきなり1メートル40センチをクリア。
この時期、陸上の大会でも、
背面跳びは少数派というかほとんどいません。
ベリーロールが主流だった時期でした。
1年生の夏休み中に沼津4中に転校。
そこで野球部か、テニス部に入ればよかったのに、
陸上部に入ってしまいました。
走り高跳びの背面跳びのカッコ良さに酔っていた私でした。
もし、最初から沼津4中に通うことになっていたら、
多分陸上部には入らなかったと思います。
やり直すことは出来ないので、それが運命?
大げさに言えばそういうことになるのでしょうか。
今、縁あってソフトテニス部にいる部員たちも、
女テニを選ぶにあたっては、
無意識かもしれませんが、
何かに引き寄せられて選んでくれたのでは?
勝手に思っています
だからこそ、3年間部活をやっていて良かった!
そう思ってもらえるようにしたいと思っています。
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