土佐のくじらです。
前回記事の続きで、本日2本目の記事です。
繰り返しますが、古墳があったことは、死生観の共有があった・・・ということです。
古墳は日本人には馴染みの厚い”墓”であり、上流階級者の遺体を埋葬するものです。
古墳は朝鮮半島の各地から発見されます。
ということは、古代日本(ヤマト)と、朝鮮半島との、死生観を共有するくらい密接な関係があった明らかな証拠です。
ヤマトの国の前文明である縄文は、高度な海洋国家です。
かなり広範囲の朝鮮半島と交流し、文化圏や居留地があったはずです。
縄文文明には武具の発展した形跡が全くなく、完全な平和の文明ですが、その後の中国の国家成立を受け、それに伴って発展した武具を手にした朝鮮半島国家群に押される形で、朝鮮半島南部の任那(みなま)まで撤退したのが、九州ヤマトの国の脱縄文のきっかけかも知れません。
弥生初期の遺跡、九州の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、物々しい櫓(やくら)があり、警戒色の強い遺跡ですが、このような明らかな軍事的緊張を表現した遺跡は、現在のところ九州でのみ発見されます。
これは、九州の人々は高い軍事的緊張を感じていたが、他の地域はそれほどでもなかった・・・という証拠とも言えます。
それらの点を考慮しての、この時代の動きに着目して参ります。
さて、この九州を表舞台で、国際的にはとても目立つ形で行われた卑弥呼外交の裏で、初代天皇と言われている、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の東征・・・と言われる、近畿地方への遷都が、採り行われたのではないでしょうか?
私の説では、米と酒外交で、縄文系の東国の日ノ本の国々への段取りは、もう全て済んでおります。
ですから東征・・・という軍事的行動を現す表記が物々しすぎるのであって、実際は交渉だったと推測します。
恐らく、米と酒という新たなエネルギー源と産業テクノロジーを引っさげたヤマト国の人々は、五穀豊穣の神、子孫繁栄の神として、縄文系の九州以東の日ノ本の民たちに、篤い信任(信仰)を得ていたはずです。
ヤマト国の長の遷都に、協力しないはずはありません。
陸路を通ったのか、海路を通ったのかは、はっきりとは私にはわかりません。
恐らく海路ではないかと、私は思います。
この頃の古墳遺跡が、西日本各地で見つかりますが、近畿以外は、なぜだか各地に点在して存在しているからです。
ですから、陸路からキチキチと弥生化していたのではなく、海路で移動し、拠点拠点を弥生化していたのではないでしょうか?
九州ヤマトの国との、言わば連立関係を結ぶことで、他の地域は米の生産が可能となり、豊かさを手にできた・・・。
つまり、日本各地に今の天皇家の先祖の方々が米を普及し、同時に勢力を拡大させた・・・ということが、
その後の、天皇を中心とした国つくり伝説として、日本神道の神事や、日本の神々の伝説として、後の世に語られていったのではないでしょうか?
これだと、九州に正規軍を残しての東征という、平和裏の遷都と勢力の東国への拡大、そしてその後の、近畿での大和朝廷発足という、歴史のウルトラCが可能なのです。
私には、それ以外の方法は無理だと思いますね。
平和裏の東征というモデルは、その後の日本の歴史にも登場いたします。
明治維新のヒーロー、西郷隆盛の実例です。
西郷隆盛は、京都での鳥羽伏見の戦いの後、江戸無血開城に至るまで一戦も交えてはいません。
道中は、東海道も中山道も、徳川方の大名の領地ばかりです。
普通なら、戦を繰り返し、敵をなぎ倒し続けて、本拠地江戸に向かうのが常です。
なぜ新政府軍と幕府軍には戦がなかったか。
西郷が江戸に向かう前に、段取りは全て済んでいたからです。
西郷が主に戦ったのは、江戸城無血開城後の徳川勢力の残党との戦いです。
この時には、敵をなぎ倒し続けて、西郷ら新政府軍は北進しました。
幕末と同じことが、実際の神武東征でも行われたのではないでしょうか?
大和朝廷の戦いの史実やそれらを記した伝説は、日本武尊伝説など、近畿で大和朝廷ができて以降のものしか存在しないからです。
まとめると、
国際的、対外的には、卑弥呼の邪馬台国(ヤマトの国の中国読み)が引き受け、いざ朝鮮諸国との戦になれば、九州の”卑弥呼の邪馬台国”が立ち向かう。
当時の国際的には九州の、卑弥呼の邪馬台国がどうしても目立つので、その裏でひっそりと行われている、近畿への政治拠点移しは、国の外からは見えないのです。
つまり、外交上の窓口と囮(おとり)としての役割も、卑弥呼の邪馬台国が兼ねる訳です。
そして、新しい日ノ本の国づくりや国家形成は、近畿のヤマトの国が、静かにじっくり行う・・・。
こういう体制作りが、この卑弥呼の時代前後に、執り行われたのではないでしょうか?
つまり卑弥呼外交は、ヤマトの東国への拠点移動を、国際的に見えなくする、政治外交パフォーマンスであり、それは同時に、ヤマトの国が新たに、近畿に拠点を移す、最後の仕上げであったと私は考えているのです。
卑弥呼登場は、今から1800年ほど前になります。
神武東征が行われたのは、日本書紀や古事記等の歴史書で言えば、今から2500年ほど前になります。
時系列的にもおかしくはありません。
むしろ、通常の歴史で言われている、卑弥呼→神武東征→近畿の大和朝廷説の方が、時系列的には無理があります。
短時間で行われていますから、当然激しい戦闘が必要です。
そのような伝説は、日本のどこにも存在いたしません。
激しい戦いがあれば、必ず伝説は生まれ英雄が生まれるからです。
この幕末や倒幕後の戦いには、ドラマが付きまといます。
現在も、大河ドラマで放映されております。
しかし、鳥羽伏見の戦いから江戸無血開城までの限られた期間には、伝説も英雄伝も存在しませんよね。
なぜなら、戦いそのものがなかったからです。
弥生時代の、近畿での大和朝廷成立までの静かな歴史の秘密も、戦いそのものがなかったから・・・というのが、最もつじつまの合う答えだと思います。
東征・・・という名の交渉だった・・・のだと思います。
また邪馬台国近畿説は、当時の武具の違いを説明できません。
この当時はまだ、当時の近代的武具を持っていたのは、九州地方だけだからです。
当時の日本では、九州だけが飛びぬけた、そして唯一の軍事大国なのです。
その後の弥生的な文化の流れや、当時の武具の性能から、九州→近畿という流れがあったという方が自然です。
これだと、大和朝廷発足時に既にあった、朝廷の九州への影響力も、すんなり説明が付きます。
ともあれ東アジアでの、巨大国家の発生という歴史的脅威に対して、日本は上記の記事ような工夫で、この時期を乗り切った・・・。
それが、日本の神話となり、これまでの日本の精神的支柱となった・・・。
そのようなロマンを、私はこの時代に感じるのです。
(続く)
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当時の縄文文化は、主食が栗とかで、そんなに生産性
今でいえば産業構造がよくなかった。
そのところへ、稲作技術の伝承と、米からは、
酒がとれますからね。
近現代的にいえば、ヨーロッパにおける産業構造の大転換にあたるくらい、生産性が向上し、生産性が高くなり、生産性が高くなるということは、子孫の繁栄にもなるし、
米からは、酒が作れるので、それで、
五穀豊穣には酒が欠かせない。
というわけですか。
納得でげす。(笑)
ガッテンしていただけましたか? (笑)
おぉ、私も少しは、つじつまあわせが上手になりましたかね?(笑)