昨日は台風7号のせいで雨と風がいつもより強かったが、東北では常に勢いが弱くなっているので、四国で経験していた台風とはずいぶん印象が異なる。おかげで、被害も少なくて済む。過ぎ去った後も今朝は比較的雨が良く降った。一時は雷も鳴っていた。それも午前中には弱まり、最高気温も26度程度であった。職場の裏山を見ると、アザミが雨と風のせいで倒れかけていて、蕾をたくさん付けているのが見えた。近くを人がたくさん通るが、誰も気にしてはいない。アザミがあることすら気付いてはいないのだろう。山野にひっそりと咲く、このアザミが好きだ。そして、アザミを見ると、八洲秀章の作曲した「あざみの歌」を思い出す。八洲は他にも「さくら貝の歌」、「毬藻の唄」など名曲を作った。北海道にいた頃、阿寒湖の遊覧船に載ると、「毬藻の唄」が流れ、船上から見える阿寒湖と歌が重なって、その情景がいつまでも記憶に残った。八洲の作った多くの曲には文語体の歌詞が付く。戦後間もなくはいずれの歌にもこうした文語体の歌詞が付けられていた。しかし、高度経済成長とともに歌詞は次第に口語体へと変わって行った。現代の若者の歌はさらに口語体と言うよりも日常語と言っていいような歌詞に変わっている。歌は本来詩であった。詩はわずかな言葉の中に深い人の感情を表現したものだ。わずかな言葉でいかに深い感情を表すか。間接的な表現ほど感情は深くなる。現代の若者の歌はあまりに直接的で、かえって深みを失っているように思う。そして、直接的で、深みを失っているのは若者に限らず、現代人のすべてがそうなってしまったようだ。明治政府は言文一致を決めたが、それが浸透するのに100年を要した。しかし、それによって、詩や小説と言う言葉による表現手法の根幹を崩してしまった。詩や小説は人に想像力を働かせることを求めたが、今や、その想像力はわずかに求められるだけで、一律の解釈しか出来ないものになってしまっている。時代は多様性ではなく、同一性を強いる時代になってしまったようだ。
桔梗