5月11日(木)、「足るを知る心が生活を変える」と題して哲学者 内山節(うちやま たかし)氏の講演会が行われる。「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」のベーシックプログラム、講義型フォーラムの第2回である。
哲学、と聞いただけで「そんな難しいこと……」と手を顔の前で左右に振り、一歩も二歩も引いたあなた!
「哲学」という言葉に惑わされてはいけません。
昨年、スローライフ月間の説明会前のほんの一時間ほどであったが、お話を聞く機会があった。内山さんは、私の心に響く様々な言葉を発して下さった。
大学で哲学を専攻し、大学院を経て、大学教授から哲学者と呼ばれるようになったのではない、まさに現場主義の内山さんの言葉には、「生きること」を「自然の中で考え、実践すること」から何かを探し求めているような、机上の論理だけではない、ヤワでない、ウソッパチでない……、うまく表現できないのだが、本当の内山さんの言葉、思いが感じられたのだ。
内山さんのプロフィールを簡単に紹介すると、「行為者でなければ分からないものがある」と、群馬県上野村の山村と東京の両方に住まいを構え、立教大大学院教授の傍ら、畑づくりや森づくりをしている実践的哲学者である。
北日本新聞のインタビューの中で、内山さんはこのように発言している。
「もともと人間は、全員が同じ場所で一年中暮らしていたわけではなく、いろいろな生活形態があって良かった。企業社会化が進み、定住しないと悲惨であるような風潮になったが、一つだけの仕事から一歩も出ない生活はもしかすると異常かもしれない。都会に出て本当に生活が良くなったのか? 村の暮らし、里の暮らし、山の暮らしの技を失ったとも言える。その気持ちを持ちながら、できることからやるしかない」
村の暮らしを内山さんは、「技のある暮らし」と表現しているが、それは自然と共存する暮らしの中から生まれた「作法」にかなったものだ。
『ローカルな思想を創る』(農文協刊)の中の次の文章が私はたまらなく好きだ。少し長くなるけれど引用します。
自然はすべて同じようにつくられているわけではない。自然条件によっても、歴史的経過によっても、自然は異なった姿をみせる。そればかりか、豪雪地帯も乾燥地帯もあるように、あるいは氾濫を起こしやすい河川も、比較的安定した河川もあるように、人間の側からみれば自然は不平等にもつくられている。そのようなさまざまな自然と人間が関係をもち、ときに協力し合い、ときに矛盾を発生させながら存在しているのが、自然であり、人間である。とすれば自然と人間の関係というときの単位は、そのひろさにはいろいろあっても、地域でなければならず、それぞれの地域における自然と人間の関係をうまく調整していくことが不可決の課題になる。
結論だけを述べるなら、このような視点をもつとき私たちには、その地域のなかに蓄積されてきた自然と人間の関係を支えてきた「作法」とでもいうべきものを、視野におさめる必要性が生じるのである。それはときに自然に対する伝統的な人間の接し方であり、その地域の自然と人間の矛盾の克服の仕方であり、それを実現していく技術や技能であり、その地域の自然と対立しない生業の在り方である。そのような仕事や体系のなかに、ローカルであるがゆえに深い思想が表現されているのではなかったか。そして、もしそうだとするなら、思想に対するとらえ方自体も、私たちは変えていかなければならなくなる。
理論で勝負するのではなく、人間の生き方の「作法」で勝負する。そこに思想という言葉を伴って展開されていく。
この内山節さんが見えるのである!
講演のタイトルは「足るを知る心が生き方を変える」
この「なだれ込み研究所の一日」をご覧の方だけに、当日配布するレジメの一部をこっそりとご紹介します。
○「しぜん」と「じねん」
―自然とはなにか、あるいは「おのずから」ということについて
○「おのずから」と「みずから」
―「自から」のふたつの意味とその相互性
これを読んだだけで、わくわくしてくるではないか。今週、私の頭の中は「内山語録」でいっぱいかもしれません。
「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」のベーシックプログラム、まだまだ受講者募集中です!
哲学、と聞いただけで「そんな難しいこと……」と手を顔の前で左右に振り、一歩も二歩も引いたあなた!
「哲学」という言葉に惑わされてはいけません。
昨年、スローライフ月間の説明会前のほんの一時間ほどであったが、お話を聞く機会があった。内山さんは、私の心に響く様々な言葉を発して下さった。
大学で哲学を専攻し、大学院を経て、大学教授から哲学者と呼ばれるようになったのではない、まさに現場主義の内山さんの言葉には、「生きること」を「自然の中で考え、実践すること」から何かを探し求めているような、机上の論理だけではない、ヤワでない、ウソッパチでない……、うまく表現できないのだが、本当の内山さんの言葉、思いが感じられたのだ。
内山さんのプロフィールを簡単に紹介すると、「行為者でなければ分からないものがある」と、群馬県上野村の山村と東京の両方に住まいを構え、立教大大学院教授の傍ら、畑づくりや森づくりをしている実践的哲学者である。
北日本新聞のインタビューの中で、内山さんはこのように発言している。
「もともと人間は、全員が同じ場所で一年中暮らしていたわけではなく、いろいろな生活形態があって良かった。企業社会化が進み、定住しないと悲惨であるような風潮になったが、一つだけの仕事から一歩も出ない生活はもしかすると異常かもしれない。都会に出て本当に生活が良くなったのか? 村の暮らし、里の暮らし、山の暮らしの技を失ったとも言える。その気持ちを持ちながら、できることからやるしかない」
村の暮らしを内山さんは、「技のある暮らし」と表現しているが、それは自然と共存する暮らしの中から生まれた「作法」にかなったものだ。
『ローカルな思想を創る』(農文協刊)の中の次の文章が私はたまらなく好きだ。少し長くなるけれど引用します。
自然はすべて同じようにつくられているわけではない。自然条件によっても、歴史的経過によっても、自然は異なった姿をみせる。そればかりか、豪雪地帯も乾燥地帯もあるように、あるいは氾濫を起こしやすい河川も、比較的安定した河川もあるように、人間の側からみれば自然は不平等にもつくられている。そのようなさまざまな自然と人間が関係をもち、ときに協力し合い、ときに矛盾を発生させながら存在しているのが、自然であり、人間である。とすれば自然と人間の関係というときの単位は、そのひろさにはいろいろあっても、地域でなければならず、それぞれの地域における自然と人間の関係をうまく調整していくことが不可決の課題になる。
結論だけを述べるなら、このような視点をもつとき私たちには、その地域のなかに蓄積されてきた自然と人間の関係を支えてきた「作法」とでもいうべきものを、視野におさめる必要性が生じるのである。それはときに自然に対する伝統的な人間の接し方であり、その地域の自然と人間の矛盾の克服の仕方であり、それを実現していく技術や技能であり、その地域の自然と対立しない生業の在り方である。そのような仕事や体系のなかに、ローカルであるがゆえに深い思想が表現されているのではなかったか。そして、もしそうだとするなら、思想に対するとらえ方自体も、私たちは変えていかなければならなくなる。
理論で勝負するのではなく、人間の生き方の「作法」で勝負する。そこに思想という言葉を伴って展開されていく。
この内山節さんが見えるのである!
講演のタイトルは「足るを知る心が生き方を変える」
この「なだれ込み研究所の一日」をご覧の方だけに、当日配布するレジメの一部をこっそりとご紹介します。
○「しぜん」と「じねん」
―自然とはなにか、あるいは「おのずから」ということについて
○「おのずから」と「みずから」
―「自から」のふたつの意味とその相互性
これを読んだだけで、わくわくしてくるではないか。今週、私の頭の中は「内山語録」でいっぱいかもしれません。
「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」のベーシックプログラム、まだまだ受講者募集中です!