なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

嗅覚(きゅうかく)

2007-03-30 20:32:15 | スローライフ
防災関係の視察対応をしていたスローライフ専門委員のO井さん。まちなかを案内しているとき、一人の方から「スローライフ、そしてライフスタイルデザインカレッジについて話が聞きたい」との申し出を受けた。……ということで、NPO法人スローライフ掛川の連絡事務所に総勢7名がなだれ込んできた。

「防災の視察でなぜ??」という疑問もあったのだが、設立からカレッジ開校の流れをざらっと説明した。折しも、NPOスローライフ理事のS藤さんは出張中である。私が話をするしかないと思うと、腹も据わった。一人でベラベラ説明した上、
「この本を読んで頂くと、設立からの流れがよくわかるかと思いますよ」
と、笑顔で『掛川奮闘記~スローライフと生涯学習の真髄』(小松正明著)をすすめたら、笑顔がよかったのか、突然なだれ込んできたお詫びなのか、なんと5冊もご購入いただいた。
「中味が素晴らしいですから、買って損はさせませんよ」
だめ押しの一言も忘れない。

さて、視察一行が帰ったあと、私はS木君に言った。
「なんだか、一人でしゃべっちゃった。これでも子どもの頃は、シャイで人前で話すのが苦手だったんだけどね」
S木君はコメントをあえて控えているようで、ただ目を丸くしていた。
たぶん、感染力の強い「ベラベラ病」がうつったのだと、思う。

さてさて、その1時間後。
視察一行の中の一人の方が事務所に戻ってこられた。
「時間があるので、まちなかをまわろうと思うのですが、おすすめのところを教えていただこうと思って」
聞けば、あと2時間ほど大丈夫だという。
これは、掛川をご案内するしかない!
I村代表の携帯に連絡すると、10分後には来てくれるという。素晴らしいフットワークと機動力。スローライフ掛川の強みである。

代表を待っているあいだにお話を聞いたら、なんと、その方は東京の都市計画専門のコンサルにお勤めで、杉並区の「NPO法人まちづくり工房まち夢」の理事であるという。
「先ほどお話を伺って、なんとなく面白そうな感じがしたので、また来たんですよ。視察に来て、まちを歩かなかったり、地元の方とお話しないのはもったいないですからね」

そういえば、先ほど説明していたときも、この方は面白そうに話を聞いていた。きっと「面白そうなこと」に嗅覚が働くのだと思う。言葉ではうまく説明できないけれど、この「嗅覚」「フィーリング」「面白がる感じ」というのはとても大事なものなのだ。

ということで、10分後、I村代表は事務所に到着し、掛川市立中央図書館、大日本報徳社、竹の丸、そして車で、天竜浜名湖鉄道沿いの直線3㎞のみち(田園滑走路)、長屋門のお屋敷近辺の田園風景など、案内してもらった。
「時間があれば、この後一杯、というふうになるんですがね」
一杯はお預けとなったが、今後どんなつながりができるか、楽しみである。

【おまけ】
なんと今日の記事はぴったり1200字。嗅覚、ですかね。


同士の会話

2007-03-29 20:22:09 | ビジネスシーン
S鳥さんと電話で話す。
サイクリングマップの表現に関する「なるほど!」なアドバイスをいただいた。ポイントは「定義づけてはいけない」ということ。小説でいうところの「説明と描写の違い」である。
その後、フィクションについていろいろ話す。カレッジの運営も引きずられるように出て行くアウトドアも、商品のコピーも報告書も下調べもまとめも全部好きだけれど、たまに小説を書くことについて話せるのは嬉しい。なだれ込み研究所には、文学論を闘わせる、あるいは小説ボクシング(DJボクシングに対抗して。「どうだ、この本は知らないだろう!」という具合)の相手がいないので。
小説書き同士、かなりニッチな会話でした。
(前回の記事は3,000字も書いてしまったので、今回はあっさりと)

あなたは遊び場を持っているか

2007-03-26 23:17:47 | スローライフ

掛川ライフスタイルデザインカレッジ3月フォーラムは、受講生、NPO会員、一般参加者含め、予想を遙かにこえる100名ほどが掛川市役所に集まった。

さて、佐藤雄一氏の講演である。タイトルは「ライフスタイルデザインカレッジが生活を変える」。カレッジの基本概念を提示し、仕掛け、仕立てたプロデューサーが何を語るのか。

「掛川ライフスタイルデザインカレッジは、NPO設立1周年記念講演会に浜野安宏さんをお招きしたとき構想を得た」という言葉から講演は始まった。

「浜野安宏さんは、20年以上前から自分の仕事のジャンルの先端を行く人であり、背中を見て仕事をさせてもらっている」
という佐藤氏の言葉通り、その生き方に惚れ込んでいる懸想人(けそうびと)なのだと私は思う。
浜野さんが講演で何を言ったかというと、「天才の誘致」。一人の天才が地域を変えていくのなら、12人の天才を毎月呼んでしまおう、それがこのカレッジにつながっている。将来的には、ホールもミーティングルームも宿泊施設もあるようなビレッジを建設したい。天才が一週間ずつ滞在し、年間50人の天才が滞在する、そんなビレッジ構想を持っている。

さて、佐藤氏の事務所がNPOの連絡事務所になっているため、日々活動をしていく中で、事務所のスタッフは「本業3分の2、NPO事務局として3分の1」という過酷な状況で仕事をしている。これは、なだれ込み研究所のことであり、スタッフというのは主にK住とS木君である。
佐藤氏、いえS藤さんは言った。
「カレッジ1年目を終えるにあたり、スタッフに『どこまで振り回せばいいのか!』と思われながらも、それでも振り回させてもらいながらやっている」
この「どこまで振り回せばいいんですか!」と言ったのは、もちろんS木君ではない。しかし、次の言葉を聞いたとき、私は思わず泣きそうになった。
「どこまでも振り回したが、それでも1年間、やってきたじゃないか。できたじゃないか。この試みが実現できたことの価値は大きい」

今回の佐藤氏の講演を聞きながら、普段話していること、書いていること、佐藤氏の原点はこういうことだったのかと、改めて発見する想いだった。身体がすっぽり入る落ち葉の中に身を隠し、息を詰めて上級生が行きすぎるのを待っていた少年は、息を詰めることなく、まっすぐ発言する大人になった。
佐藤語録をどうぞ。

私は、価値観は変え続けなければならないと考えている。人間の存在自体、地球にとって脅威となっている今、自然と接することでしか、自然と接する作法は学べない。自然との接点を大きく持つことでしか、価値観は変えられない。

私達の命の源である大井川の源流がどんなところなのか、自分の目で見て、自分の足で踏みとどめておく必要がある。片道4時間、時間をかけてでも行く価値はある。風景としての力がある。魚に出会える価値がある。生命に出会える旅がある。私は巡礼のように彼らに会いに行く。

大人になって改めて春埜山の大杉を見に行ったとき、木はここまで大きくなるのかと鳥肌がたった。1300年という時空を越えて存在し続けていることに仰天した。この木を見て何を感じるか、この木に出会う試みをしてみるべきだ。行動力がすべてである。

自分の住んでいる地域に海があることをもっと意識すべきだ。海には風景としての鋭さがある。ただ当たり前の風景として見るのではなく、曲がった先に何があるのか、どんな海の顔をしているか、想像力を持って風景の価値を感じて欲しい。

桜ヶ池のお櫃納めの取材をしたとき、諏訪湖が桜ヶ池とつながっているという伝説はあながち伝説ではないと感じた。天竜川を通じて諏訪湖の石や砂が運ばれ、塩の道を通じて御前崎の塩が諏訪湖に運ばれる。伝説は事実であると実感した。伝説を今の時代に解釈し直すとき、実際にそこに立ち、泳ぎ、風に吹かれ、土に触れなければその地域の持つ要素、自然や財産といった地霊を感じることはできない。

カヤックをすると何がわかるかというと、川というのはこんなにも流れの速いものなのかということがわかる。水流、水圧、川の流れ。川は、面白く、楽しく、恐ろしい。こうした自然の力を感じられるか感じられないか、やってみなければわからない。そのために、もぐり、泳ぎ、流され、たわむれるのだ。

私が住んでいた集落は廃村になった。小学校1年のときに6軒あった家は、小学校6年のとき、私の家1軒だけになった。人は、山からまちに出て行くとき、手入れされたきれいな茶畑に杉を植えていく。杉はまだお金になると思われていた時代だった。茶畑に植えた杉は生長が早く、手入れをされた茶畑はあっという間にぼさ林になり、集落は真っ暗になった。強烈な体験だった。
美しい田園風景、里山の風景は、農業、林業があってこそなのだと実感した。よく「自然がきれい」というけれど、作法を持った自然との接し方、農の営みがあってこその風景なのだ。

山から小学校に、毎日5㎞の道のりを通った。落ち葉が敷き詰められたふかふかの道を歩く。幸せな感覚だ。この山犬段にも、たった半日で行ける。行ってみようと思うかどうか、その行動力の差だ。自然の織りなす何かが、自分に与えてくれるもの。行ってみなければわからない。

太田川の上流にダムができる。水温の変化、石は流れなくなり、水生昆虫にも影響する。子どもの頃から泳ぎ、遊んだ川であり、自分にとって身近な存在であるアマゴ。彼らと遊ぶことが日常だった。ようやく、15㎝ほどのアマゴに出会えたとき、釣ることができて嬉しいというより悲しくなった。「これが最後だからね」とでも言っているように感じられた。まだダムは出来ていないが、川を取り巻く環境は確実に変わる。川に入り、魚を見ると、川の変化を如実に感じる。それでもダムは出来てしまう。太田川は、上流、中流、下流のはっきりある、そして上流部にはアマゴのいる美しい川だ。

自然と触れることで、自然が「遊び場」だという感覚をいかに持てるか。カレッジのアクティビティプログラムには自然に対する作法があり、価値観を、生活を、確実に変える。遊び場は心を解放し、価値観を凝縮する場である。あなたは自然を遊び場として持っているか。遊び場だから自然を大事にするのだ。遊び場を大事にする大人の力が必要なのだ。

山を歩くとよくわかる。
自転車に乗るとよくわかる。
川に行くとよくわかる。
フライフィッシング人口が今の3~4倍になると、日本が変わる、世界が変わる。私はそう思っている。

今日、こうしてきれいな風景を見せるのは、この地域にある自然がいかにきれいかを知ってもらうためだ。そして、自分達がいかに知らないかを思い知って欲しいからだ。美しいとしか言いようのない風景を見て欲しい。

自然から学んだことから、私は「人間の欲しているものは何か」「人間が暮らしていくのに大切な商品は何か」を考え続ける。ネイチャー、ビジョン、コンセプトを大事にしながら、今後も仕事をしていきたい。

こんなに時間があるのに、なぜ自然に接しないのか。
こんなに大事なことがあるのに、なぜやらないのか。

トレッキングとは何か

2007-03-25 21:34:00 | スローライフ

3月24日(土)、朝8時半。トレッキング体験会の集合場所である富士見台霊園へ向かった。

海抜264mの小笠山。トレッキングもサイクリングも同じアウトドア、くらいにしか思っていなかった(そもそも、その違いを考えようともしなかった)私にとって、驚くことばかりのトレッキングだった。
サイクリングが風の中を走り抜け、エネルギーを外に外に開放していくような軽やかなイメージなのに対し、トレッキングは一足ごとに熱やエネルギーを身体の中に溜め込んでいく感じだった。
自分の鼓動が聞こる。自分の息づかいが聞こえる。何かを確かめるように一歩一歩、大地を踏みしめていく。小さくて堅実で謙虚な行為。
歩きながら私は、先人たちは皆、このように山を歩いてきたのだ、と感じた。

ふと、小説の中であの主人公が山を歩きながら感じたことは、こういうことだったのかもしれない、あのときのあの主人公の気持ちはこうだったのだと、身体からわかるような気がした。
そのことを近くの人に言ったとき、「バーチャルな世界だね」と言われたが、バーチャルな内的世界があり、リアルで実体験することで、自分の中で新しい感じ方が生まれたようだった。

トレッキングは大地を踏みしめる行為である。サクサクと落ち葉を踏むとき、これが腐葉土になり、命の源になるのだと感じる。
ふいに陽が差したとき、景色は一変し、神々しい気持ちになる。確かに神がいるのだと実感する。夕日に染まるときはどんなだろうと想像したら、胸がいっぱいになった。
今は先導してくれる人がいるけれど、一人だったらこわい。分かれ道に来たら、私はどうするだろう。分かれ道は「辻」なのだ。
夜、一人きりで山の中にいたらどんなだろう。月がどんなふうに見えるんだろう。ちょっとした音に敏感になり、五感は研ぎ澄まされ、第六感を精一杯働かせようとするかもしれない。
歩きながら、そんなことを思った。

今、こうして自分の気持ちを思い出しながら、夜に行われたS藤さんの講演の言葉を思い出す。
「こんなに大事なことがあるのに、あなたはなぜやらないのか」

大忙しで楽しみな一日

2007-03-23 22:50:40 | スローライフ
明日は朝から夜まで忙しい。

まず、午前中は掛川ライフスタイルデザインカレッジトレッキングの体験会。小笠山に登るのは、小学校の「歩け歩け遠足(ネーミングを忘れた)」以来である。
「近場にこんな素晴らしい山があったんですね。小笠山は素晴らしい!」
トレッキング講師であるS木君が言った。普段寡黙なS木君も、山のことになるとベラベラしゃべる。
事務所では威張っている私ではあるが、山岳ガイドの彼はトレッキングの講師である。今回はおとなしく言うことを聞きます、はい。

その後、トレッキング参加者のSザンヌをフライフィッシング体験会場である「ならここの里」へ送迎。彼女のご主人が体験会に参加するので、その間、私とSザンヌとS木さんはフライフィッシング参加者を冷やかしつつ(?)、ならここの湯で温泉三昧。トレッキングでの疲れを癒して、夜のフォーラム、そして懇親会に備えるのだ。

その後、午後6時からのフォーラムの準備のため事務所に寄り、会場である掛川市役所へ。講師はなだれ込み研究所の元祖ベラベラ病(本家か?)のS藤さん。どんなS藤語録が飛び出すか、今から楽しみである。
今回のフォーラムは「掛川ライフスタイルデザインカレッジ2006」のファイナルでもあるので、受講生全員に記念品が、そして基礎講座であるベーシックプログラム出席優秀者には、特別なプレゼントが!
私もプレゼントの中味を知らない。何だろう、こちらも楽しみ。

そして、午後8時半からは恒例の講師を囲んでの懇親会。今回は内輪の講師ということで気をつかう必要もない(?)ので、大いに飲むつもり。皆さん、覚悟しておいて下さいね。
「私のお酒が飲めないっていうんですか!!」



聞かせてもらいましょう

2007-03-21 21:34:16 | スローライフ
3月24日(土)、当なだれ込み研究所のS藤が講演する。タイトルは「ライフスタイルデザインカレッジが生活を変える」、掛川ライフスタイルデザインカレッジ3月の公開フォーラムにおいてである。
本人の書いたコピーをどうぞ。

ライフスタイルデザインカレッジは、あなたの生活をどう変えるのか。あなたは、どうすれば豊かな生活を創造できるのか。
カレッジの基本概念を提示し、仕掛け、仕立てたプロデューサーが、「自然回帰」「地域流儀」「足るを知る心」「美しい毎日」「知識を知恵に」をキーワードに、生活を変えるために何をすべきか、を提示します。

そもそも、なぜ、「ライフスタイルデザインカレッジ」なのか。どんな背景で生まれ、どんな商品コンセプトを持ち、どんな新しい価値観が内包されていているのか。

年がら年じゅう事務局としてこき使われ、アウトドアは好きじゃないと言っているのに引っ張り出され、それでもついていってしまうのはなぜなのか、私は自分自身が知りたい。
ただのアウトドア講座でもカルチャースクールでもないことはわかる。1年間体験したことがどういうことだったのか、私は言葉で知りたい。「大いなる自然体験をもったビジョンにしかコンセプトは生まれない」のライフスタイルデザインカレッジ流儀を知りたいのである。

波風を立て、物議をかもすようなことも言うという。本人は忘れたかもしれないが、3週間くらい前に言っていた。社会に対し、己の原則と良心に従い、大いにベラベラ病を発揮してもらいたいものだ。それでこそ、S藤さんらしい講演になる。
無料の公開講座なので、受講生以外の方もどうぞ。

掛川ライフスタイルデザインカレッジ
3月フォーラム [´06ファイナル/´07ガイダンス]
「ライフスタイルデザインカレッジが生活を変える」

■日時/2006.3/24(土)
  受付17:30~18:00
  フォーラム18:00~19:30
  ファイナル19:30~20:00
  懇親会20:30~

■会場/掛川市役所4階1会議室
  掛川市長谷1-1-1
 (当日は閉庁日ですので、南側B1Fよりお入りください)

■内容/ライフスタイルデザインカレッジが生活を変える 
ライフスタイルデザインとは/カレッジ1年目を振り返って/カレッジ2年目の紹介/講師陣との対談

■講師/佐藤雄一(さとう ゆういち)氏
[プロフィール]コンセプト株式会社プロデューサー、NPO法人スローライフ掛川理事。企業のCI・ブランド開発、マーケティング、商品化計画、自治体の情報発信事業、地域振興・観光振興計画等に携る。あらゆる分野の商品・サービス・デザインが、生活者にどんなライフスタイルを提供できるかを考え、生活・人を出発点に明確なコンセプトをつくり、そのデザイン化と総合的な計画推進・品質管理(プロデュ-ス)を業務領域としている。

プロデューサーという仕事

2007-03-18 22:15:31 | ビジネスシーン
地域ブランド開発会議の音声データを聞いた。耳からだけで聞くことで、会議の様子がイメージとして立ち上がり、どんなふうに会議が流れているのか、一つの舞台を見ているような感覚にとらわれながら聞くことができた。
この会議を聞いて、私が思ったのは、どんな会議にしろ委員会にしろ、全体の流れを創り出し、どんな方向であれ導いていく存在が必要であるということである。

一つの素晴らしいアイデアが出たとする。でもそれは素材なだけだ。それを生かすも殺すも、今後の持っていき方一つである。それぞれの専門家がどれだけいようと、その人達は細部の専門家なのであって、専門的な話題の中から、面白い素材(時流に乗った)をすくい取り、素材をつなぎ合わせ、商品としてのストーリーを創り出すことが必要だ。そして、情報発信も普及活動も報道機関へのリリースも、すべてストーリーがいる。その全体を引っ張っていく存在が、プロデューサーというよくわからない職業(?)人種(?)の一つの役割なのかもしれないと。

そのためにプロデューサーは、様々な引き出しと幅を持っていなくてはならない。到達点、あるいは目指すべき方向というべきものが見えていて、そこへ行くための道をいくつも知っていなくてはいけない。明確なビジョンが見えていて、それを強力に推し進めていく機動力とエネルギー、しゃべり方から声の質、迫力といったものも必要かもしれない。会議の中で「やろう」「面白そうだ」という熱い流れ、雰囲気をつくっていかなくてはならないのだから。

そんなふうに思ったとき、浜野安宏さんは「プロデューサー」について、どんなふうに書いているのだろうと思って『浜野安宏コンセプトインデックス』をひらいてみた。書いてあった。「プロデューサーの存在理由の確立及び、社会的意義の拡大」という文章である。一部抜粋します。

近代の職業的ワク組みではもう仕事も組織もできないほどに複雑で多重な仕事をこなす一人のパーソナリティが求められるようになってきた。
プロデューサーは多彩な人生体験から得た独自のコンセプトと、創造性に富んだアイデアを提起し、それに共感し、協賛するパートナー、資金、企業、業正当とティームを組んで、事業を成功させるためのあらゆるコンサルティング、創作行動、ネットワーキング、管理、経営を行う。
時代特性を明確に認識し、新しい時代を切り開く、オリジナルなコンセプトをもって、その具体化のために必要とされる調整、企画、デザイン、事業計画、経営計画、資金調達、育成、プロモーション、広告、宣伝など、あらゆる総合活動を行うのである。

優れたプロデューサーになるためには自己否定と、自己拡大をくり返しながら、変化し続けるパーソナル・ライフ・スタイルと、その超自我から発するコンセプトの社会的実現へ向かおうとする強くて息の長いエネルギーが必要である。
自分で明確に解ってきたことはプロデューサーになるための安易なノウハウなどはなく、いつも難行道を行くようなものであり、易行道はないと信じなければならない。

「おお~、なるほど~」と思わずうなった。自分ではうまく言葉に表現できないことが、自分の考えていたこと以上に明確になるというのは気持ちのいいものだ。

「書くこと、文章に姿をあらわさせること、それは特権的な知識を並べることではない。それは人皆が知っていながら、誰ひとり言えずにいることを発見しようとする試みだ」

これは、昨日読んだ『物語の役割』(小川洋子著・筑摩書房2007年刊)の中で紹介していた文章で、フランス人作家フィリップ・ソレルスが「小説と極限の実験」という講演の中で言った言葉だと書いてある。

ちなみに今読んでいるのは『重耳(下)』(宮城谷昌光著・講談社文庫)とともに、『日本人の宗教「神と仏」を読む』(黒塚信一郎著・かんき出版2005年刊)と『すぐわかる 日本の神々』(鎌田東二監修・東京美術2005年刊)である。
全然つながっていなさそうに見えて、不思議なところでつながってくるのが面白い。



波風を立てる

2007-03-17 21:22:31 | ビジネスシーン
来週月曜日(3/19)に迫った「おもしろい街なかづくりフォーラム・掛川」であるが、後半のディスカッションに出演予定だった方が出演できなくなり、急遽、S藤さんが出演者となった。NPOスローライフ掛川理事として、また「まち使い人」としてである。ディスカッションのタイトルは「おもしろい街なかをつくろう」。

街なかで商いをしている者として、どうせ出るなら、大いに波風を立ててもらいたいと思う。対するのは、饒舌建築家O澤G一氏であり、「S藤さんとケンカをさせたらこの人!」のS野氏である。バトルが予感できる嬉しい面々だけに期待が高まる。こういう面子になったのも、必然なのかもしれないし。

ということで、面白くなりそうな「おもしろい街なかづくりフォーラム・掛川」。参加ご希望の方はこちらからどうぞ。
http://lgportal.city.kakegawa.shizuoka.jp/machi/matudukuri/machikabu/forum.jsp

さて、ケンカといえば、先週S藤さんと大ゲンカをした。原因は前に言ったことと違うことを言うからである。その場その場で仕事の優先順位が変わり、昨日言ったことと違うことを言われるのは慣れた。納得もできる。しかし、納得できないことには食ってかかる。
途中、白洲次郎のセリフを真似て、
「ジイサン、そりゃあ、あんたの理屈だろ!」
と言ってやろうと思ったが、そのセリフを使うにはあまりに状況がセコかったのでやめた。それに、「ジイサン」と言うには歳が近すぎて、逆に「バアサン」とでも言われたら元も子もない。その間、事務所にいたS木君は、電気スタンドのかげに隠れるように小さくなっていたらしい……。

さて、その翌日。
やわなブログについて、S藤、K住、S木で議論した。
「やわなブログには『やわ』なりにいいところもあり、だからたくさんの人に読まれているんじゃないですか」
「K住さんはたくさんの人に読まれたいの?」
「当たり前じゃないですか。そのたくさんの中から、この事務所の面白さに共感してくれる人が現れるかもしれない」
「そりゃあ、違うね」
「どこが違うんですか」
「大衆に読まれるブログを目指してどうする。塩野七生が言うように、たった一人に向かって書けばいいんだ。あなたがものの見方の切り口を提示する。その切り口を読みに来る人だけに向かって書けばいい。やわなブログなんか目指す必要はない!」
ぐうの音も出ないほど言われた。

同じとき、「幅の広さと一貫性のなさはどうちがうのか」の議論になった。こちらの模様はまた今度。
波風は、立つほどに面白い。疲れますが、ね。

やわなブログと想像力

2007-03-16 09:06:24 | ビジネスシーン
(財)国土計画協会から連絡があり、「人と国土21」という機関誌でスローライフ掛川の活動を紹介して欲しいと執筆依頼が来た。6500字、S藤さんが執筆する。4月末の締め切りに向け、尻をたたくのは私の役目だ。

民間都市開発推進機構、都市研究センターの方がふいに事務所に訪れた。S木君一人が留守番をしているときだった。創立20周年の記念誌を出版するにあたり、全国のまちづくりの事例紹介と可能性を紹介したい、その一つとしてスローライフ掛川を取り上げたいということだったようだ。K松さんの『掛川奮闘記~スローライフと生涯学習の真髄』を買っていかれた。直接の取材なしに、インターネット上の情報と書籍だけで記事を書かれるという。NPOスローライフがどんなふうに見えるのか、内輪の人間が「あーだこーだ」と全く言わずに記事になると、一体どんなふうな文章になるのだろう。楽しみである。

なだれ込み研究所が関わっている地域ブランド開発の会議で、S藤さんが「地域ブランドの販売方法の可能性について」をしゃべるということで、興味があったのでS木君にボイスレコーダーの録音を頼んだ。しかし、まだ聞けていない。

表面上はアウトドアのイベント、でもその裏側や中味や背景には押し着せでない「自然志向」「エコロジカル」「ライフスタイル」といった筋の通ったコンセプトがある、という企画が進行しているようだ。メールで添付されてきた企画書を通じて知った。私が関わるときは、仕事が形になり、それを表現する段階になったとき。私が知らぬところでどれだけのもやもや状態があるのか想像もできないが、なんとも途方もないことだ。

それにしてもなだれ込み研究所の仕事というのは、目に見えるところはイベント、ホームページ、印刷物などバラバラだけど、核心にブレがない、ということを先日の浜野安宏さんの講演を聞いて、そして改めて考えて感じた。

……ということで、今日のオチである。
この「なだれ込み研究所の一日」を書くとき、私はものの見方や切り口を提示しなければいけないと、あるいは何か主張しなければいけないと、やっきになっていた。まあ、たまには「こんなことがあった」だけのやわなブログもいいかなと思って書き進めていたのだが、書いているうちに、もしかしたらこういう書き方の方が読み手の想像力をかき立てるのかもしれないと思った。
先日の『ラジオ局を開設するには』の講義のとき、K-MIXの日吉さんが言っていた「ラジオは想像するメディアである」と同じように、ブログという文章表現も想像するメディアなのだとしたら、「ああだ、こうだ」と決めつけて書くより、読み手の想像の余地を残す書き方も、いいのかもしれないと。

挫折する本

2007-03-14 21:00:43 | ビジネスシーン
読みたいのにどうしても読めずに挫折する本がある。一つはJ・R・R・トールキンの『指輪物語』であり、一つはJ・K・ローリングの『ハリーポッターシリーズ』である。

NPO専門委員のI山さんと、面白い本と映画についての話をしているとき、
「『ロードオブザリング』は5回見なくちゃ意味がわからなかった!」
とI山さんが言ったことが始まりだった。

そもそも『指輪物語』は中つ国という架空の世界で繰り広げられる物語なのだが、言語学を専門とするトールキンはその神話世界から歴史、言語など全ての世界観を作り上げた。物語には人間だけでなく、ホビットやエルフ、ドワーフ、オーク、ゴブリンなど、多彩な種族が登場するのだが、映画はそうした説明が全くないままストーリーが展開するので、予備知識がないまま映画を見ると「なんのこっちゃ!」「全くわからん!」という状態になるのである。

さて小説である。
世界観がわからないだけでなく、ストーリーは延々と進まず……、これは英文学によくあるパターンなのだが、物語の筋と全く関係のない細部が延々と語られ(もちろん、そこに魅力を感じる人も大勢いるのだが)、へたをすると50ページくらい平気で関係のない話が挿入され、それはストーリー展開にとって必要のない(何の伏線でもない)、という状態が続き、しかも「ゆったりゆったり歩くペースで」語られるので、せっかちな私はいつも2巻の途中で挫折する。何度もチャレンジしているのだが。

『ハリーポッターシリーズ』は、小学校で司書の仕事をしているとき、
「先生、全部読んじゃったよ! すごく面白かった!」
と読書嫌いな子が目を輝かせて教えてくれたことを今もよく覚えている。なのに、私は読めなかった。物語世界に入っていけないのである。ストーリー自体は(話に聞くと)面白そうなのに、全く読めなかった。こちらは1巻の途中で挫折して、再チャレンジする気になっていない。

さて、もう一冊……。
若手論客N塚君がすすめてくれた宮城谷昌光の『重耳』であるが(ちなみに中国春秋時代の物語なのだが)、出てくる漢字が人名なのか国名なのか名詞なのか読んでいてちーっとも頭に入ってこず、その上、事象が淡々と語られ、誰に思い入れしていいのかさっぱりカンが働かず苦戦している。でも「若手にゃあ負けてられん!」という意地もあり、今夜もチャレンジしてみるつもり……。
そんな具合に挫折する本も、けっこうあるのである。