なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

その向こう側にあるもの

2007-05-30 23:39:43 | ビジネスシーン
ここ最近、建築、住まいづくりに関係する仕事が多い。「地域の建築家を起用し、建築家の信頼に足る地域の施工者を選び、できる限り地域の素材を使う」という提案を、S藤さんが一貫してし続けているからだろうか。

そもそも私がなだれ込み研究所に関わるようになったのは、建築家のT橋さんに家の設計を依頼したからだ。「T橋さんと家づくりを一緒にやってきた人ならば」と、木の家の取材記事を書かせてもらうようになった。今思えば「なぜ、木の建築なのか」の答えを、「木の心地よさ」以外に知らなかったというのに。

地域の材を使うのは森林のためであり、地域の施工者を選ぶのは大工技術の伝承のためであり、地域の建築家を起用するのは、メーカーではコストの高い地域材は使わないからである。「材」の流れひとつとっても、これだけの背景がある。こうした意図を理解し、「少々高かろうがやろうじゃないか」「そうしないと何も動かない」と、粋に動く人たちを取材するのは気持ちがいい。ひとつひとつの取材を通じて、「木の心地よさ」しか感じなかった私が、その向こう側にあるものの存在を少しずつ知り始めている。

建築家のO澤さんのところに取材に行った。「その向こう側にあるもの」はO澤さんが使っていた言葉であり、O澤さんは「便利の向こう側、知識の向こう側にあるものを感じ取れるやつが減った」と言った。知識の向こう側にあるものは「泉」とも言える、とも。
O澤さんの「O澤節」といわれる言葉の数々をどうぞ。

「おまえの住みたかった家は、隣のうちみたいな家じゃないか。この土地に、当たり前に建っている清楚な家をつくろう」

「この設計は、地域の生活、地域の景観に対して正直にやっただけだ」

「情報化が進みすぎるとアイデンティティが歪められる。お手軽過ぎてパーになる」

「景観を考えることは、人と自然の関わりのなかで人の生活を考えること」

「まちの景観には品位が必要だ。まちの品位とは、そのまちの作法、そのまちのしきたり、そのまちの色、掛川のまちが昔からやってきたことに他ならない」

言葉を拾い上げる

2007-05-29 00:08:04 | スローライフ

掛川ライフスタイルデザインカレッジ「ネイチャーフォトグラフィー」の第1回が行われた。講師はプロカメラマンの小川博彦氏。

午後から実際の撮影に出かけたとき、私は小川講師の言葉を拾おうとした。どんな状況でどんな質問をされ、それに対してどんな発言をしたか。その中には、午前中の座学で話したこととは違う種類の、現場でしか発せられないきらめくような言葉があるに違いない。そう思ったからだ。

「いいな、と思った風景。そのどこに惹かれたのか掘り下げることが大切。いいなと感じて撮影し、家に帰って見たら『大したことなかった』となるのは、大抵いいなと感じた主題がきちんと映っていないから」

仕事でインタビューをまとめることが多い。言葉を拾うのは私の仕事だ。絞りもシャッタースピードもわからない私が聞くからこそ、見えてくることがある。もちろん見えてこないこともあるが。

写真で表現するとは、どういうことなのだろう。
小川講師は、こんなふうに言っている。

100mを9秒で走る選手を追いかけるとする。
例えば、スタート前の緊張した表情をとらえようとする。
例えば、疾走する選手の苦しそうな顔を切り取ろうとする。
例えば、ゴール直後の晴れやかな笑顔を焼き付けようとする。

それらを、望遠レンズで顔のみのクローズアップで表現するかもしれないし、広角レンズを使って会場の熱い雰囲気を同時に写し込むかもしれない。スローシャッターを使い、ブレをも味方につけた躍動感のある1枚に仕上げるかもしれない。流し取りのテクニックを駆使して、スピード感溢れる画に仕上げるかも知れない。絞りを思いっきり開放して、主題を浮き立たせようとするかもしれない。逆に極限まで絞り込んで、顔に刻まれた皺の一本々まで写し込もうとするかもしれない。

そうやって、その撮影者は様々な表現手法を組み合わせ、自分が思う最良の1枚を撮ろうとする。うまくいけば「一瞬」のそのシーンに、「9秒間」の物語すべてを封じ込めることができる。

ここで私はプロとは何かを考える。
表現手段を技術として身につけばプロなのか。小川講師はもちろん表現手段としての技術がある。しかし、「カメラがなくても写真が撮れるのが小川さんだ」とS藤さんが言っているように、小川講師にあるのは技術だけではない。だって、カメラがなくても写真が撮れるのだから。
「ほら、色のない無機質な石段の上に光が差し、葉の影が揺れ、色鮮やかな花びらが落ちている」
そう言われて私が撮ったのが冒頭の写真だ。
言われるまで、撮って画像を見るまで、それがいい写真になるとも思わなかったし、そもそもその石段にも葉の影にも花びらにも、目が行かなかった。存在すら、気づかなかった。

次に思い出すのはI村代表の言葉だ。
「小川講師の采配を見て、プロとは何なのか考えさせられた。その道を究めるということは、人間として、いかに人間の持つべき幅を広めていくかということ。幅を広げることを同時に進行していかなければ、ただのカタブツになってしまう。そして、目指すものそのものが進化しないように思う」

小川講師の言葉、S藤さんの言葉、I村代表の言葉。言葉を拾い、つないでいくのが私の仕事だ。

翻訳するとは

2007-05-23 23:51:25 | ビジネスシーン
今回の小松正明氏の来掛で、私の中に強く残ったのは「表現し直す」ということだったように思う。危険物安全協会総会での講演のタイトルは『地震と津波~都市防災の盲点を考える』。行政の視点からの危機管理の話であり、小松氏の講演でなかったら、私など“とんちんかん”であったはずだ。
ではなぜ、ちゃんと聞けたのか。
それは、講演に「ストーリー」があったからだと思う。

ちょっと難しい話になるが、内閣府にある中央防災会議では、「災害をイメージする能力を高めるコンテンツを広範かつ効果的に提供するための環境づくり」が必要である、と言い始めているという。今回の講演のキモはまさにそこで、安全に対する正しい知識を、人に伝わる、わかりやすい、心の中から気づくような言葉で語ることが必要だと、小松氏は言っていた。
知識の羅列、数字の羅列だけでは人の心に入っていかない。「ストーリー」「物語」となってはじめて心は揺すぶられ、強い印象となって心に残る、ということである。
では、「ストーリー」「物語」とは何なのか。

今考えるに、自分の中に入ってくる情報を、咀嚼し、自分なりの尺度や自分が納得できる形でそれらの情報を選び取り、つなげることが「ストーリー」なのではないかと思うのだ。つなげるからには、何を選び、何を捨て、という段階で自分自身の価値基準が必要になってくる。さらに、「なるほど」と自分で納得するための組み立てや並べ方、さらに言葉そのものを選び取ることが必要だ。
つなげることそのものが、「ストーリー」なのではないか。

小松氏の『掛川奮闘記~スローライフと生涯学習の真髄』を読んだとき、「そうか、生涯学習とはこういうことだったのか」とはじめて理解できた気がした。よくなだれ込み研究所で話すのは、「小松語に翻訳されて、はじめて多くの人が理解できた」ということだ。
とすると、小松語に訳された「生涯学習の真髄」は誰のものか。
表現し直した瞬間から、小松氏が納得した形でつなげ、価値基準が反映された形でのストーリーになっているのだとしたら、それは小松氏のストーリーなのだと思う。彼のストーリーだったから伝わった。彼の選び取った言葉だったから伝わった。ストーリーとは、己の価値基準でつなげることなのかもしれない。

ちょうど、4/1(日)の日経新聞で紹介されていた『通訳/インタープリター』(スキ・キム著・集英社刊)が気になっていた。書評を書いた翻訳家の鴻巣友季子はこう述べている。

「通訳とは言葉面を訳すものではなく、生きることを訳すことだと、この本はいう」
「通訳者は人の言葉の受託者にもなれば、操作者にもなりうる」
「通訳という所業が否応なくはらむ〈ズレ〉、ある種の避けがたい〈ウソ〉。そうした本質を浮かび上がらせる」

通訳、翻訳も「表現し直す」という作業が必要だとすると、表現とは、自分の中の知識や知恵や情報を表現し直すということであり、自分が納得できる形につなげる「ストーリー」なのかもしれない。

頭の中が整とんされたような、こんがらがったような……。

その名も驥山(きざん)

2007-05-22 20:32:04 | ビジネスシーン
なだれ込み研究所では、昨年秋から地酒の商品開発に携ってきた。袋井商工会議所の地酒開発委員会にS藤さんはアドバイザーとして出席し、S木君は会議に同席し、議事録を作成した。
「どうしてS木君が担当なんですか」
「それぞれに理由があるんだ」
S藤さんはそれ以上、言わなかった。
酒は男のものだからか、S木君の方が酒の味がわかるからか、会議にベラベラが二人いない方がいいからか、理由はわからない。「いいな、いいな」と思いつつ、会議の音声データを聞いたり、議事録を読んだり、二人の会話を聞いたりしながら、私なりに酒に関わろうとした。

S藤さんが会議の中で常に言っていたことは、
・この地域にしかない個性化、オリジナル化を考えること
・地域ブランドとして、生活の中に息づいているか
・背景としてのストーリーがあるか
・評判や情報が一人歩きしていくようなネーミング、商品化を考えること
・そこに存在する意味を徹底的に顕在化させているか
ということであったように思う。

その結果、つけられた名前は『驥山(きざん)』。袋井市出身の昭和を代表する書家、川村驥山氏に由来する。袋井産の低タンパク米を使い、地元の蔵元で造った酒だ。

はじめ、「袋井の花火」「遠州三山」などの案が出たという。たしかに袋井にしかないものだけど、ストーリー性がないなあと感じていた。そのうちに、川村驥山氏の名前が会議の中で出てくるようになり、八歳のときに書いた書『大丈夫』を名前にしたらどうだろうという発言が出てきた。
音声データは、そのあたりの様子を如実に伝えている。
「だいじょうぶ、ねえ……。きざん、という名前をそのまま使わせてもらうわけにはいかないんですかね。商品としての語感がいいし、漢字もいい」
商標などの問題をクリアし、名前が決まった。

その後、調べれば調べるほど、これしかない、という状況になっていった。
まず、今年が川村驥山氏の生誕125年目の年であったこと。しかも、誕生日である5月20日に発売されること。ストーリーの予感めいたものが、この頃から感じられた。

そうしてようやく私の出番となった。商品のボディコピーを書くため、川村驥山氏についてさらに調べていく。名前をつけたというより、探していた名前を正しく掘り起こせたのだと納得できるようなエピソードに巡り会えた。
川村驥山氏は、なんと酒好きであった。全国を筆一本持って歩き、文人墨客的な生活を送っていた氏は、杖に酒を入れていたというのだ。歩いている氏の姿、ときに立ち止まり、杖から酒を飲む姿が目に浮かんだ。そして、以下のコピーができた。

2007年5月20日、書家 川村驥山生誕125年の日、
袋井に新しい地酒が誕生した。その名も「驥山」。

袋井市に生まれた川村驥山(かわむらきざん)は、
全国各地を筆一本持って歩く、
文人墨客的な生活を送った書家だった。
杖に酒を入れ、あるときは酒で墨をとく。
酒好きの驥山のかたわらには、常に酒があった。

ちなみに上の2行、ヘッドコピーと言われるものはS藤さんが書いた。
こうして、なだれ込み研究所の仕事がひとつ完了した。「なだれ込み研究所」の名前はどこにもない。商品があるのみである。

[おまけ]
S藤ブログでも、「驥山」について書いている。
ぜひ、読み比べて下さい。
ちなみに、なかなかいい文章だとコメントで褒めたら、
「人のブログにコメントする時間があったら、自分のブログを書け!」
と言われてしまった。

「自然主義マーチャンダイジング」
http://blog.goo.ne.jp/concept_s

多様な機会を与えられる

2007-05-21 22:32:04 | スローライフ

スローライフ顧問の小松正明氏が来掛した。掛川市危険物安全協会の創立40周年記念式典で講演をするためだ。スローライフ掛川から講師派遣させていただいた関係で、今日一日、マネージャーのように行動を共にさせてらもらった。

午前中、なだれ込み研究所でゆっくり話す。そんなときに限って誰もなだれ込まず。
昼、春日井市からのスローライフの視察対応。スローライフの仕掛け人の一人として説明するのを間近で聞いた。スローライフに関して本人の口からきちんと聞いたのは初めてだった。今更ながら「なるほど!」と感じ入ることが多かった。
その後、事務所に戻って講演準備。
そして、講演会。“小松語り”が全開であった。

人の心に届く言葉。
人の心を動かす話しぶり。
人の心を熱くする想いや哲学。

たくさん聞かせてもらった。
そのおすそ分けを――。

報徳の教えの現代的な捉え方。今、私たちがここに存在しているのは、前の世代からの繋がりがあるから。「勤勉」「分度」「推譲」の精神のベースには「繋いでいる」ということが大前提としてある。父母から、そしてその前の世代から受け継いできたものがこの先どうなるのか、それを考えるのは、今、生きている人だけができることである。

前掛川市長榛村純一氏との会話より。物事というけれど、結果的にイベント、建物、印刷物などモノができあがるが、その過程のプロセスこそ大事。何事かが起きていること、動いていることこそが重要なのである。

出会いと繋がりを恐れるな。

講演のタイトルは「地震と津波~都市防災の盲点を考える」。この難しそうな講演が興味深く、面白く聞けたのは、キーワード「物語」があったから。数字の羅列より、一遍のストーリーが人の心を揺さぶり、人を動かす。
小松氏の朗読した小泉八雲の小説「稲むらの火」は素晴らしかった。

知識を自分の中で咀嚼し、自分なりに表現し直すことで、人に伝わる、人がわかる言葉になる。ただ、知識の羅列、情報の羅列ではわかってもらえないし、人に伝わらない。

頭にたくさんのことが詰まり、心にドヤドヤ入り込み、飲んだくれた2日間。まだまだ咀嚼できないことだらけだが、たくさんの機会をありがとうございました。

未原稿化のネタ

2007-05-14 22:53:55 | ビジネスシーン
書きたいことは山ほどあるのだが、なだれ込み研究所本来の仕事がかなりたまってしまい、「あなたの仕事の優先順位はブログを書くことが一番!」といくら言われようと、そうもいってられない状況になってしまった。
ちなみに、ここ最近のネタは以下の通りである。

①カヤックに乗り、作為のない自然と神について、そして人はどう関わるべきか(どうあるべきか)を考える話。

②日本独自の「間合い」文化についての議論で、「間合い」と「間(ま)」という表現について意見が合わない話。

③緒方拳主演の『ミラーを拭く男』みたいな話を書けばいいじゃん、と言われ、それは面白そうだと思った反面、「ガードレールを拭き続ける男の人生ってのもいいなあ」というのにはピンと来ず、同意できなかった話。

④「量や数値ではなく、質的、主観的な深さが大切。深く本質的に楽しもうとするライフスタイル提案を目指すべき」。ずっと同じことを主張し続けている、5年以上昔の企画書をこっそり見つけてしまった話。

⑤パッケージ8割オリジナル2割の話。今思えばその頃8割の中には、しょうがなく8割にいた人もいたはず。他の選択肢があるという存在すら気づかなかった。では今は? 少し前に見抜けるかどうかでひっくり返る可能性が大という話。

⑥4月9日の記事「N坂論vsS藤論」には「本物論」という続編があるという話。

⑦今日の静岡新聞、中日新聞などで記事になった「袋井の酒『驥山(きざん)』発売」について、その『驥山(きざん)』ネーミングの裏話。

おお~、これを書くだけで50分もかかってしまった!
読みたいネタがあったらリクエストをどうぞ。書くかどうかは定かではありませんが。

自信過剰と自信喪失のあいだ

2007-05-11 23:41:28 | ビジネスシーン
取材したメモを、今日、原稿にまとめた。第1稿でまだまだ推敲が必要だが、取材のときに感じていた熱い想いと、それを抑える冷静さを同時に持ちながら、さらにこの原稿を書くにあたって私が周囲に話した「この記事はこうあるべきだ!」を表現できたと思う。
めちゃめちゃエラソーで不遜だが、書き手にはこのくらいの自信過剰がなければいけない。同時に、明日になると「ああ~、なんであんなこと言っちゃったんだろう。読み返すと、めちゃめちゃヘタじゃん……」と自信喪失する。これは、経験上、必ず起きることである。
そうやって、自信過剰と自信喪失のあいだで揺れ動きながら、書いては直し、直してはまた書くという作業を繰り返す。いらないものをそぎ落とし、「捨てる」「拾い上げる」の価値基準を確認していくのだ。
どんな記事になるのか、形になったときお知らせします。

それにしても、こういう不遜なことはフツーおおやけにしないものかもしれない。もしかして、ものすごくカッコ悪いかも……。

言い忘れたけれど、表現する場を与えてくれて、質のいい素材を提供してくれて、粋と意気を感じさせてくれて、キャスティングの妙(ロッドを振ることではありません)を感じさせてくれたすべての人に、ありがとうございます。

自転車とは何か

2007-05-10 23:50:42 | スローライフ

昨日、掛川ライフスタイルデザインカレッジ5月フォーラムが行われた。白鳥和也氏の講演は『自転車人間試論』。そもそも人間にとって「自転車とは何なのか」という、ある意味、哲学的な問いを投げかけられた気がした。その問いを発することも、その答えを実感することも、自転車に乗ることでしか感じられない。自転車を文学と同列に扱い、哲学をも感じさせながら、「まずは自転車に乗ってみようよ」と背中を押してくれるような講演だった。

今のような自転車ブームがなぜ起こったのか。
白鳥氏は、二つの答えを用意した。

まず一つ目は、1999年に出版された一冊の本『自転車通勤で行こう』(疋田智著)であるという。この本により、自転車の新しい価値が発見された。
例えば、東京から新宿まで何㎞くらいあるか。直線距離にして約6㎞。掛川駅から天竜浜名湖鉄道の原野谷駅くらいまでしかない。驚くほど近い。この本の読者の多くは、電車から自転車通勤に変えたことで、都内は驚くほど狭い世界だったと気づいた。東京という都市の巨大さが幻想だと分かった。と同時に、東京にも実は細い路地や人間くさい空間があることに気がついた。つまり、自転車に乗ることで、都市空間がリアリティを持って実感できた。

二つ目の理由。
現代は、何でも便利になり、身体を使わなくなっている。身体を使わないということは、生きている実感、生きること自体のリアリティが希薄になっているということ。今、自転車に乗る人が増えているのは、自分の身体を使って何かを体験したい人が増えているからだ。
自転車は、私たちに身体のあり方を教えてくれる。自転車に乗ると五感の感性が豊かになり、生きている感覚が増幅される。音の感覚が敏感になる。

さて、自転車とは何か。
自転車に乗らない人には、絶対思いつきもしない問いである。しかし、自転車に乗れば「自転車とは何か」を考え、「自転車とは何か」を自ずと実感できる。
表現者たる白鳥氏の言葉の数々をどうぞ。

「自転車は、その人の人生の中で行くべきところに連れて行ってくれる。10年、20年、30年経ってわかる。あのときのあの町、あの人との出会いはこういうことだったのかと」

「自転車に乗ることで、自分の町がどんな空気をしていて、どんな人が住んでいて、どういう町なのか、そしてどんなざわめきがあるのか、リアリティを持って感じさせてくれる」

「自転車に乗ると、季節の変化がわかる。夏は、だんだん夏に変わるのではなく、ある日突然夏になる。『今日、夏になった』と実感できる」

「自転車に乗り、ペダルをこいで進むことで人間は変われる。物事を肯定的に捉えられるようになる。例えば、車に乗っていると他の車は仲間に感じられないが、自転車に乗っていると、他の自転車は仲間であると感じる」

「環境のために自転車に乗るという考え方もあるが、環境のためだけだったら、二酸化炭素の出ない燃料電池が開発されればそれでいいわけだ。しかし、そうしたものがいくら開発されても、20㎞、40㎞、100㎞自転車で走る人は必ず出てくる」

「自転車は精神にとっての薬であり、心のツールなのである」

「自転車に再び乗るようになった大人は言う。『そういえば、子どもの頃はこんなふうに感じていた』と。自転車はタイムマシンでもあるのだ」

「自転車は、ものの見方を変えてくれる一つのメディアである」

「私は自転車と文学という全く関係なさそうなものを同列に並べているが、自転車も本も、自分で乗ってこがないと、自分で読まないと、その世界へ行くことができない。自転車と本の世界は、人が介入することで動き出す」

「自転車に乗ると、広くて新しい道が欲しいとは思わず、今ある道がいいのだ、今ある道が素晴らしいのだと感じる」

「相手と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる。自転車は、そのツールになる」


自転車と文学

2007-05-09 00:10:24 | スローライフ
明日(あ、もう今日か)、掛川ライフスタイルデザインカレッジ5月フォーラムが行われる。自転車文学研究室 を主宰する白鳥和也氏の講演会である。タイトルは『自転車人間試論』。

自転車と文学は、一見、異質である。
でもこれが、案外、異質じゃない。
自転車で走るときの五感が研ぎ澄まされる感じ。走って感じるだけでなく、白鳥氏はそれを言葉で表現しようと試みる。
白鳥氏が編集に携わったサイクリングマップは、その言葉の選び方、視点の置き所が、「モノをつくる」というより「何かを探している」という感じに私には映る。
私が素晴らしいと感じた白鳥氏の言葉を一つ紹介します。
「面白い地図というのは、そのなかにどこか物語的な構造を含んでいるものです」

その白鳥氏がどんな言葉を選び、語ってくれるのか。サイクリストには、自然が、地域が、どんなふうに映るのか、それをどう表現してくれるのか。
この講演会、受講生以外の方でも参加可能です。

掛川ライフスタイルデザインカレッジ
[5月フォーラム]
白鳥和也氏講演会『自転車人間試論』

■日時/平成19年5月9日(水)19:00~21:00
■会場/美感ホール 掛川市亀の甲1-13-7
■講師/白鳥和也 (しらとりかずや)氏
■参加費/
  受講生 無料
  NPO会員 2,000円
  一般  3,000円

[講師プロフィール]
1960年静岡県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。
現在著述業、自転車文学研究室主宰。
著書に『自転車依存症』『スローサイクリング』
『素晴らしき自転車の旅』(以上平凡社)
『静岡県サイクルツーリングガイド』(静岡新聞社)がある。
こよなく愛する自転車の旅と文学をクロスオーバーさせ、走って、撮って、書く活動を続けている。この人生におけるテーマは、時間、空間、人間。「旅だ」と意識した最初の自転車での遠乗りは、1977年の夏に掛川を経由して天竜二俣まで走ったこと。

[メッセージ]
なぜ、自転車に乗ることは、こんなにも愉しいのか。
なぜ、大人が自転車に夢中になるのか。自転車はあなたをどこに連れて行くのか。
エッセイ集『自転車依存症』によって、自身も含む自転車乗りのお馬鹿度を世間に意識化させた白鳥和也が、まだまだ書き尽くせぬ自転車の魅力と不思議と真実を皆様にご紹介します。ためにならない話、考え込んでしまう話、笑える話のあれこれをさあどうぞ。

五月病から始まる

2007-05-08 22:52:11 | ビジネスシーン
朝。
健全とは何か、K造さんと話をする。
何をやっているかよくわからん怪しげな会社が健全になることは本当に健全か。怪しげな会社は怪しげなまま、「コイツら、何をたくらんでいるんだろう」という怪しげな部分を残した方が健全なのではないかと。

昼。
何のために働くのか、H野さんと話をする。何のためだったら頑張れるのか、その優先順位を付けてみよと。
1.名声のため
2.経済のため
3.信念のため
4.他人のため
5.環境のため

私の場合、「信念のため」の割合が大きすぎて、逆にとても身勝手だと自覚している。白洲次郎のように、自分の信念に忠実に、ズルはしない、嘘はつかない、といった自分の思うところの「正しさ」に反する仕事の仕方はしたくないと思っている。でもそれは、ギリギリの厳しい仕事をしていない、矢面(やおもて)に立っていない、ということの裏返しにも思える。信念を貫こうと思えば貫ける環境で仕事をさせてもらっている、ということなのだから。

精神的に自立したい、誰にも寄りかかりたくない、と思いながらも、結局私は「経済のため」に仕事をしなくていい環境にいるわけで、逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せるわけだ。その甘えの構図が自分自身で許せず、でも事情を優先して、その事情が都合のいい逃げの理由になっていることもまた事実。

「それは、逃げることはよくない、という前提に立っているからそう考えるわけで、逃げ出せる場所にいるのだから思い切って仕事ができる、という構図もあるのだから、ラッキーだと考えた方がいい」
S藤さんからこう言われたことがあると言ったら、H野さんはその通りだと言った。

朝、K造さんはこうも言った。
「この時期考え込むのは、五月病だよ」
五月でなくても私は辛気くさく考え込み、言葉で理論づけようとする。
松岡正剛が『17歳のための世界と日本の見方』の中で言っていた。
「人間は、押さえきれない感情や思いを、理性によって和歌や詩や物語へ昇華させている」
そろそろ物語を書きなさい、ということか。