ここ最近、建築、住まいづくりに関係する仕事が多い。「地域の建築家を起用し、建築家の信頼に足る地域の施工者を選び、できる限り地域の素材を使う」という提案を、S藤さんが一貫してし続けているからだろうか。
そもそも私がなだれ込み研究所に関わるようになったのは、建築家のT橋さんに家の設計を依頼したからだ。「T橋さんと家づくりを一緒にやってきた人ならば」と、木の家の取材記事を書かせてもらうようになった。今思えば「なぜ、木の建築なのか」の答えを、「木の心地よさ」以外に知らなかったというのに。
地域の材を使うのは森林のためであり、地域の施工者を選ぶのは大工技術の伝承のためであり、地域の建築家を起用するのは、メーカーではコストの高い地域材は使わないからである。「材」の流れひとつとっても、これだけの背景がある。こうした意図を理解し、「少々高かろうがやろうじゃないか」「そうしないと何も動かない」と、粋に動く人たちを取材するのは気持ちがいい。ひとつひとつの取材を通じて、「木の心地よさ」しか感じなかった私が、その向こう側にあるものの存在を少しずつ知り始めている。
建築家のO澤さんのところに取材に行った。「その向こう側にあるもの」はO澤さんが使っていた言葉であり、O澤さんは「便利の向こう側、知識の向こう側にあるものを感じ取れるやつが減った」と言った。知識の向こう側にあるものは「泉」とも言える、とも。
O澤さんの「O澤節」といわれる言葉の数々をどうぞ。
「おまえの住みたかった家は、隣のうちみたいな家じゃないか。この土地に、当たり前に建っている清楚な家をつくろう」
「この設計は、地域の生活、地域の景観に対して正直にやっただけだ」
「情報化が進みすぎるとアイデンティティが歪められる。お手軽過ぎてパーになる」
「景観を考えることは、人と自然の関わりのなかで人の生活を考えること」
「まちの景観には品位が必要だ。まちの品位とは、そのまちの作法、そのまちのしきたり、そのまちの色、掛川のまちが昔からやってきたことに他ならない」
そもそも私がなだれ込み研究所に関わるようになったのは、建築家のT橋さんに家の設計を依頼したからだ。「T橋さんと家づくりを一緒にやってきた人ならば」と、木の家の取材記事を書かせてもらうようになった。今思えば「なぜ、木の建築なのか」の答えを、「木の心地よさ」以外に知らなかったというのに。
地域の材を使うのは森林のためであり、地域の施工者を選ぶのは大工技術の伝承のためであり、地域の建築家を起用するのは、メーカーではコストの高い地域材は使わないからである。「材」の流れひとつとっても、これだけの背景がある。こうした意図を理解し、「少々高かろうがやろうじゃないか」「そうしないと何も動かない」と、粋に動く人たちを取材するのは気持ちがいい。ひとつひとつの取材を通じて、「木の心地よさ」しか感じなかった私が、その向こう側にあるものの存在を少しずつ知り始めている。
建築家のO澤さんのところに取材に行った。「その向こう側にあるもの」はO澤さんが使っていた言葉であり、O澤さんは「便利の向こう側、知識の向こう側にあるものを感じ取れるやつが減った」と言った。知識の向こう側にあるものは「泉」とも言える、とも。
O澤さんの「O澤節」といわれる言葉の数々をどうぞ。
「おまえの住みたかった家は、隣のうちみたいな家じゃないか。この土地に、当たり前に建っている清楚な家をつくろう」
「この設計は、地域の生活、地域の景観に対して正直にやっただけだ」
「情報化が進みすぎるとアイデンティティが歪められる。お手軽過ぎてパーになる」
「景観を考えることは、人と自然の関わりのなかで人の生活を考えること」
「まちの景観には品位が必要だ。まちの品位とは、そのまちの作法、そのまちのしきたり、そのまちの色、掛川のまちが昔からやってきたことに他ならない」