一ヶ月ぶりに、仙人アートディレクター(勝手に命名している)のH岡さんが出社した。H岡さんはアートディレクター以外の顔も持つため常勤ではないのだが、一ヶ月ぶりというのは珍しいことだった。
「H岡さん、忙しそうですねえ」
「うん、忙しすぎて、何が何だかわからんよ」
と言いながらも、飄々と白湯をすすっている。急須にお茶っぱが入っていなければ、白湯を飲むという、なかなかの仙人ぶりである。
さて、東京へ行った話をし、浜野安宏さんの新しいプロジェクトとブログに書かれていた「無」の話をしていたら、それは般若心経だねという話になり、そこから「人は生かされているのだ」という話、「人間の欲望について」の話、政治とは、そしてまちづくりとは、について話が及んだ。
「自分でも、まだここまでしか考えがまとまっていないんだけどね」
という話はあまりにもレベルが高く、私がメモできたのは二十分の一にも満たない。様々な仕事をこなし、これだけのことを考えていれば、そりゃあ忙しくもなるわ、と思いながらも、やっぱり仙人だわあ、と思わずにはいられない。
それでも、一生懸命に聞いて、その中から一つでも二つでもわかりたいと思った。必死でメモをとったものを、自分の覚え書きのためにまとめておきます。
H岡語録――。
政治というものは、ある意味権力闘争の場であり、強欲に、あるいは強引に物事が進んでいきがちな世界なのかもしれないが、強引に進めれば進めるほど、本来市民に向けられなくてはいけない視点から離れていく。特に市政というものは、市民にとってもっとも身近な「生活のひだ」に目を向けるものであり、と同時に「明日への環境づくり」ということを常に考えていなければならないものである。
では、どうすればいいかといえば、「人として、どうあるべきか」を常に考えることである。際限のない欲望の中で、人として足るを知る心で、ないものねだりをするのではなく、あるものさがしの価値観を持ち続けること。
そのとき、自分は自らが生きているのではなく、生かされているのだという考え方のもと、自分というものをどこかに置いておくことが必要になる。そのとき、三つの視点が大事になる。
その三つの視点とは――。
まず、自分という視点。
自分を鏡で見るという視点。
そして、それをもっと遠くで見ている俯瞰した視点。
この三つの視点を持つことで、己から、もう少し普遍的なものにものの見方が変わっていく。
さらに、歴史を検証し、日本人の幸せとは何かを考えるべきである。人間の欲望を越えたところにあるはずの、おのずとあるべき姿が見えてくる。
何をしたかではなく、何をしようとするかが大事なのである。
戦後、日本は「いけいけどんどん」の価値観の中で、拡大路線のみで突っ走ってきた。今こそ、人間として生まれてきた役割を考えなければならない。
効率、拡大、数値主義だけの世界では、地に足のついた人間ではなくなってしまう。最近の様々な事件は、人としての何かを取り違えてしまった結果のように思える。人間の知恵として編み出した文化論を、もう一度考え直さなくてはならない時期に来ている。それによって、人としての精神の充足と、明日につながる何かが生まれる。
例えば、道路一つとっても、今まではただ広くきれいで便利な道を作ることだけがされていた。しかし、その土地固有のインフラ整備があるべきで、たとえば、人が歩くための「野の道」の整備を考えていく、あるいはその土地に蛍がいるのなら、蛍と共存しながら蛍を見るすべはないのか考えながら、そのための道をつくる。あるいは、田園風景がきれいならば、「どの時期に、どこから、どう見れば美しいのか」を考え、そのための整備をしていく。そうしたことを都市計画の中で考えて行かなくてはいけないし、今まで自然に対する施策があまりにもなさすぎた。人が手を入れることで美しくなる風景があるのだということとの兼ね合いの中で――。
どれだけH岡さんの言いたかったことが理解できたか自信はないし、理解できなかった部分は私のわかる言葉に置き換えてしまったり、そもそも書けなかったりする。ちゃんと話がわかるようになりたいなあ、と思うのと同時に、私はここにいられて本当に幸せだと思わずにはいられない。
こんなこと私にできるのだろうか、というたくさんのことが目の前に積み上げられようと、できる、できないをぐずぐず言う前に、とにかくやっていくしかないのだという現実。これはやっぱり、幸せなことなのだろう。
「いけいけどんどん」という言葉をH岡さんが発するたびに、なぜか妙にかわいらしく思えてしまったことは、内緒である。
「H岡さん、忙しそうですねえ」
「うん、忙しすぎて、何が何だかわからんよ」
と言いながらも、飄々と白湯をすすっている。急須にお茶っぱが入っていなければ、白湯を飲むという、なかなかの仙人ぶりである。
さて、東京へ行った話をし、浜野安宏さんの新しいプロジェクトとブログに書かれていた「無」の話をしていたら、それは般若心経だねという話になり、そこから「人は生かされているのだ」という話、「人間の欲望について」の話、政治とは、そしてまちづくりとは、について話が及んだ。
「自分でも、まだここまでしか考えがまとまっていないんだけどね」
という話はあまりにもレベルが高く、私がメモできたのは二十分の一にも満たない。様々な仕事をこなし、これだけのことを考えていれば、そりゃあ忙しくもなるわ、と思いながらも、やっぱり仙人だわあ、と思わずにはいられない。
それでも、一生懸命に聞いて、その中から一つでも二つでもわかりたいと思った。必死でメモをとったものを、自分の覚え書きのためにまとめておきます。
H岡語録――。
政治というものは、ある意味権力闘争の場であり、強欲に、あるいは強引に物事が進んでいきがちな世界なのかもしれないが、強引に進めれば進めるほど、本来市民に向けられなくてはいけない視点から離れていく。特に市政というものは、市民にとってもっとも身近な「生活のひだ」に目を向けるものであり、と同時に「明日への環境づくり」ということを常に考えていなければならないものである。
では、どうすればいいかといえば、「人として、どうあるべきか」を常に考えることである。際限のない欲望の中で、人として足るを知る心で、ないものねだりをするのではなく、あるものさがしの価値観を持ち続けること。
そのとき、自分は自らが生きているのではなく、生かされているのだという考え方のもと、自分というものをどこかに置いておくことが必要になる。そのとき、三つの視点が大事になる。
その三つの視点とは――。
まず、自分という視点。
自分を鏡で見るという視点。
そして、それをもっと遠くで見ている俯瞰した視点。
この三つの視点を持つことで、己から、もう少し普遍的なものにものの見方が変わっていく。
さらに、歴史を検証し、日本人の幸せとは何かを考えるべきである。人間の欲望を越えたところにあるはずの、おのずとあるべき姿が見えてくる。
何をしたかではなく、何をしようとするかが大事なのである。
戦後、日本は「いけいけどんどん」の価値観の中で、拡大路線のみで突っ走ってきた。今こそ、人間として生まれてきた役割を考えなければならない。
効率、拡大、数値主義だけの世界では、地に足のついた人間ではなくなってしまう。最近の様々な事件は、人としての何かを取り違えてしまった結果のように思える。人間の知恵として編み出した文化論を、もう一度考え直さなくてはならない時期に来ている。それによって、人としての精神の充足と、明日につながる何かが生まれる。
例えば、道路一つとっても、今まではただ広くきれいで便利な道を作ることだけがされていた。しかし、その土地固有のインフラ整備があるべきで、たとえば、人が歩くための「野の道」の整備を考えていく、あるいはその土地に蛍がいるのなら、蛍と共存しながら蛍を見るすべはないのか考えながら、そのための道をつくる。あるいは、田園風景がきれいならば、「どの時期に、どこから、どう見れば美しいのか」を考え、そのための整備をしていく。そうしたことを都市計画の中で考えて行かなくてはいけないし、今まで自然に対する施策があまりにもなさすぎた。人が手を入れることで美しくなる風景があるのだということとの兼ね合いの中で――。
どれだけH岡さんの言いたかったことが理解できたか自信はないし、理解できなかった部分は私のわかる言葉に置き換えてしまったり、そもそも書けなかったりする。ちゃんと話がわかるようになりたいなあ、と思うのと同時に、私はここにいられて本当に幸せだと思わずにはいられない。
こんなこと私にできるのだろうか、というたくさんのことが目の前に積み上げられようと、できる、できないをぐずぐず言う前に、とにかくやっていくしかないのだという現実。これはやっぱり、幸せなことなのだろう。
「いけいけどんどん」という言葉をH岡さんが発するたびに、なぜか妙にかわいらしく思えてしまったことは、内緒である。