なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

白洲次郎とは誰か

2007-03-04 21:56:08 | 読書日記

「掛川ライススタイルデザインカレッジに細川護煕氏を呼ぼう!」と声が上がり、細川氏の著作を読むうちに、別の人物にも興味を持つようになった。
白洲次郎である。

久しぶりに書店に行ったら「白洲次郎~日本で一番カッコイイ男」(KAWADE夢ムック)が目に止まった。奥付を見れば、2002年初版で現在12刷。ムックとしては異例のことである。

そもそも白洲次郎のことは、「目利きと言われた白洲正子の夫であり、吉田茂の側近だった」くらいしか知らなかった。しかし、このムックを読み進めるうちにこんなにカッコいい人がいたのか、とある意味ものすごく驚いた。「白洲次郎とは誰か」という対談が組まれていたように、「いったいこの人は誰なのか」と深く深く考えたくなるような、まったく枠にはまらない、別の言い方をすればカテゴリーに分けられない人に思えるのだ。

まず、白洲次郎とは。
旧白州邸武相荘HPによれば、以下のように紹介されている。
http://www.buaiso.com/

兵庫生まれ。若くしてイギリスに留学、ケンブリッジに学ぶ。
第二次世界大戦にあたっては、参戦当初より日本の敗戦を見抜き鶴川に移住、農業に従事する。戦後、吉田茂首相に請われてGHQとの折衝にあたるが、GHQ側の印象は「従順ならざる唯一の日本人」。高官にケンブリッジ仕込みの英語をほめられると、返す刀で「あなたの英語も、もう少し勉強なされば一流になれますよ」とやりこめた。その人となりを神戸一中の同級・今日出海は「野人」と評している。日本国憲法の成立に深くかかわり、政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、いくつもの会社の経営に携わる。
晩年までポルシェを乗り回し、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長を務めた。「自分の信じた『原則(プリンシプル)』には忠実」で「まことにプリンシプル、プリンシプルと毎日うるさいことであった」と正子夫人。遺言は「葬式無用、戒名不用」。まさに自分の信条(プリンシプル)を貫いた83年だった。

「白洲次郎~日本で一番カッコイイ男」のインタビュー記事より。

――あなたのモットーは?
死んだらクサルということだ。ボクは生まれつき、座右の銘とかモットーとかをどうこういうほど人間が高尚でもなければ、ヒマでもない。
――なぜ百姓仕事が好きなのか?
少しキザな言い方だが、百姓をやっていると、人間というものがいかにチッチャな、グウタラなもんかということがよくわかるから。
――なぜ、吉田首相の側近になっているのか?
結局、吉田に個人的に愛情を持っているだけの話だ。ほかに、何もありゃせん。
――あなたのものの考え方には、古風な所があると思うが?
ボクは人からアカデミックな、プリミティブ(素朴)な正義感を振り回されるのは困る、とよく言われる。しかしボクにはそれが貴いものだと思っている。他の人には幼稚なものかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。ボクの幼稚な正義感にさわるものは、みんなフッとばしてしまう。

辻井喬のエッセイ「反骨ではなかった白洲次郎」から。

彼は反権力という意味で反骨の人なのではない。ただ卑しい人間が嫌いなだけなのである。ただ長く権力の座にいると人間は次第に卑しくなっていく。(中略)自分の判断の間違いを謝らない点では、マスメディアは戦前から一貫していたが、白須次郎はそうした卑しい人達とのつきあいを無視し続けたのであった。だから世間の堕落に反比例して彼は反骨の人、無愛想な人になっていった。

白洲正子のエッセイ「いまなぜ『白洲次郎』なの」から。

最近は政治家でも何でも、すぐに「命を懸けて」なんて安っぽいことを言ったり、窮地に陥ると平気で涙を見せるじゃないですか。美意識が高く、苦労は人に見せず、常にかっこつけ続ける、ということなんか、いまやないでしょう。だからこそ、次郎さんのような人間がまた興味を持たれているのかもしれませんね。

私の中で「もっと知りたい人」が増えた。惚れました。
今後も、白洲次郎に関する書籍を読んでいきます。

文章の力

2007-02-18 20:00:45 | 読書日記
文体とは言葉の選び方であり、並べ方であると私は思う。想いを表現するために、言葉を選び、並べ、文体というリズム・心地・空間ともいうべきものになって他人に伝わる。その人独自の、文章の力である。
ここ数日間で、私の心に届いた「文章の力」の数々をご紹介します。

細川護煕氏『明日はござなくそうろう 細川護煕 リーダーの条件』ダイアモンド社・1991年刊より

いったい何のために学問をするのか。それは深い教養を身につけるためだということでしょう。教養とは、ひと言で言うなら「思いやり」があるということです。

「青年」とは、闘う意志を確固として持った者のことであって、70歳でも80歳でも世の不条理に対して、あるいは自らの掲げている精神的、肉体的、社会的目標に向かって闘う意志を持った者は紛れもなくそれは青年である。

柔和を以て方便となすという言葉がありますが、態度において柔和、事において剛毅、それが清のジェントルマンというものでしょう。

細川護煕氏『権不十年』日本放送出版協会・1992年刊より

読書することは、なんといっても最高の愉しみである。それは我々を日常の世界から非日常の世界へと導き、過去から未来にわたって、思索の旅にいざなってくれるからである。中国の歴史家司馬遷は、一日のうち二時間だけでも別世界に住み、その日その日の煩悩を絶つことができれば、それは精神と肉体の牢獄に閉じこめられている人たちから羨望される特権を得たことになると言ったが、このような非日常体験は、ある意味で旅をすることと同じ効果を持つ。

塩野七生氏『ローマの街角から』新潮社・2000年刊より

「どれほど悪い事例とされていることでも、そもそもの動機は善意によるものであった」
ユリウス・カエサルのこの言葉は、人類はなぜ性懲りもなく同じ過ちをくり返すのか、と考えあぐねていた私を救い出してくれた。
そうなのだ、と私は思った。そうなのだ、動機の正否などは関係ないのだ。動機ならばみな、善き意志の発露だからだ。問題は、その善き動機が、なぜ悪い結果につながってしまうか、である。
人類が歴史から学ぶことがいっこうにできないのは、動機を重視するからである。動機の正否にこだわるあまり、その動機が結果につながる過程への注意を怠ってしまうからである。

浅田次郎『蒼穹の昴』講談社・1996年 乾隆帝(の魂)と西太后の会話より

「そちは類い稀なる胆力と頭脳を持ったおなごじゃ。五千年の歴史に幕を引く者は、そちをおいて他にはおらぬ。そちは天に選ばれたのじゃよ」
「午前年の歴史、って――?」
「堯舜の昔より連綿と続く、この国のしくみじゃ。帝が政をなし、官が民をしいたげる、長い長い歴史じゃ。そちは鬼となり修羅となって国をくつがえす」
「やだよ、そんなの……ひどいよ、みじめすぎるよ……」
「そう、ひどい。みじめじゃ。しかし最も才ある者は、最もみじめな思いをせねばならぬ。最も過酷な使命を負わねばならぬ。しれは天の摂理じゃ。わしが生前そうであったように、そちもまた、世人の決して理解できぬ苦労をなめねばならぬ。そして、そちにはそれをなしうるだけの天賦の才がある」



家守奇譚

2007-02-04 21:56:11 | 読書日記
サイクリストOさんから借りた三浦綾子の『細川ガラシャ夫人(上・下)』と『千利休とその妻たち(上・下)』を読み終えたら、歴史物が読みたくなった。
ちょうど買ったばかりの小説ファン・マガジン(雑誌に本当にそう書いてあるのです)『活字倶楽部07冬号』で宮尾登美子の『天璋院篤姫』が紹介されていた。幕末、13代将軍家定の正室となった女性の物語である。
そして、そのあいだに読んだのが梨木香歩の『家守奇譚』だった。
よくよく考えてみれば、篤姫の時代をたった10年ほど下っただけの1890年の物語なのである。

『家守奇譚』は単行本のときに図書館で借りて読み、ようやく文庫になって買ったお気に入りの本である。
「左は、学士綿貫征四郎の著述せしもの」という文章から始まり、琵琶湖で事故死した友人の家の家守となった主人公の、日々出会う尋常ならざるものたちとの日常が淡々と語られている。

湖が描かれた掛け軸から死んだ友人が出てきたり、白木蓮がタツノオトシゴを孕んだり、サルスベリに懸想されたり、河童や人魚、木や花の精霊がふいに現れたり……。主人公は一応に驚くのだが、と同時にごくごく当たり前のこととして受け入れる。
四季折々の植物の描き方が物語に深みを与え、明治の文士らしい文体がユーモラスに感じられる。
読んでいて、その時間、空間を味わえる本である。

一箇所抜粋します。
隣りのおかみさんの言葉。
「日照りの折り、気象学者は雨は降らないからダムを造れと言ったけれど、神主さんが雨乞いをしたら次の日に雨が降ったではありませんか。学者はその土地の気脈という物を知らない」
たった、100年ほど前の物語なのだ、フィクションであったとしても。

自分の役割もそこから来る作為もすべて放りだし、読みたいだけ読んで、書きたいことだけ書くのは、ときにとても慰められる行為だが、それだけではきっと、もの足りなくなるのだろう。『家守奇譚』には、そんな業(ごう)から開放されるような心地よさがある。

休日に想うこと

2006-12-24 22:42:59 | 読書日記
買い物の途中に、サイクルランドちゃりんこに寄った。サイクリング用の手袋を買うつもりだったのだが、ベラベラしゃべって何も買わず、逆にお土産までいただいた。
「K住さん。手袋じゃないよ、グローブだよ」
駄客に言い方のアドバイスまでしてくれるY崎さんである。

さて、私が行ったとき、ちゃりんこにはバリバリのサイクリストI田さんがいた。その後、最近サイクリングにのめり込んでいるO澤君が、2人の友人とともにやってきた。なだれ込み現象はここでも起きている。
たぶん、地域のところどころにこうした場所はあり、それは自転車やさんだったり、お化粧品やさんだったり、喫茶店だったり飲み屋さんだったりするのだけれど、共通の趣味、共通の土地柄、共通の感性などで人と人とをつなげる。
その価値を外に向かって発信しないし、そもそも価値だと意識していないかもしれないけれど、そこには確かに地域における価値がある。

なだれ込み研究所の一日をブログで発信しようと思ったとき、ここで起こる様々な出来事を、中にいる人だけが知っているのはあまりにもったいない、と思った。言葉に出して「こうだ」と明確に言えないけれど、それでもここにしかない価値を感じ、発信したいと思った。
なだれ込み研究所の社長であるS水さんは、私のことを「まとめることのできる人」と評してくれたが、たぶん、私のまとめる力がブログを書くとき役に立っているのは確かだ。さらに、なだれ込み研究所での日々の仕事やブログを書くことが、さらに私のまとめる力を向上させてくれていることも実感している。
ただ、最近思うのは、まとめる力がつけばつくほど「物語」は書けなくなってしまうかもれない、ということだ。と同時に、でも私が今ここにいるのが偶然ではないのだとしたら、私が書かなくてはいけない、とも思うのだ。

そんなことを思いながら、久々に本屋さんに行った。
「おおーっ!『彩雲国物語』の新刊が2冊も出ているではないか!」
2冊出ていたことに気づかないほど、本当にしばらくぶりの本屋さんだった。マンガのようにスルスルと読めるライトノベルだけど、主人公秀麗(しゅうれい)の、まるで私の心をそのまますくい取ってくれたかのようなセリフがあった。

「強がらなきゃやっていけないことだってあるんだから。カッコつけたい人にはうっかり強がっちゃうし、認められたい人には弱音なんか吐かない。頑張れって言ってくれる人の期待には調子こいて応えたいって思うし、無理するしかないに決まっているんじゃない。1回でも『もーいっか』なんて思ったら、それきりズルズル行っちゃうんだから。口だけでもエラそうなことを言わなくてどうすんのよ!」
あまりに痛快で「秀麗ちゃ~ん!」と思わず叫び、娘に軽蔑の目を向けられた。

ちなみに昨日は、宮部みゆきの『名もなき毒』(幻冬舎)を読んだ。刊行されたと同時に図書館に行って予約したのだが、5ヶ月たってようやく順番が回ってきた。
私にとって、今も『火車』が宮部みゆきのベストなのは変わらないが、これはこれで面白いしうまいし、宮部みゆきでなければ書けないテイストやフィーリングがてんこ盛りだ。うますぎて、さらりと書いたように感じさせるから「もの足りない」と感じる人もいるかもしれないが、それは作者が宮部みゆきだからだろう。
私には、主人公杉村の義父(妻の父)である今多コンツェルンの総帥今多嘉親(80歳)が素晴らしくカッコよかった。
「権力というものをどうお考えですか」
の問いに、今多嘉親は「空しいな」と答える。
「社員達がわけのわからん薬を盛られて、それが誰の仕業かわかっておっても、手出しができんのだ。それが何の権力者だ。そう思わんか」
そして、こう続けるのだ。
「究極の権力は、人を殺すことだ。他人の命を奪う。それは人として極北の権力の行使だ。しかも、その気になれば誰にでもできる。だから私は腹が立つ。そういう形で行使される権力には誰も勝てん。禁忌を犯してふるわれる権力には、対抗する策がないんだ。無力なことでは、そのへんの小学生と同じだろう」

この言葉を読んだとき、作者は『模倣犯』で答えの出せなかった問いの答えに(それは社会もいまだ答えを出せずにいることなのだが)、自分のこととして苦しんでいるのだと私は感じた。作家とは、なんと苦しいものなのだろうとも。
「なぜ、そうした権力を求めてしまうのか」の問いに、作者は一つの考えを提示している。今多嘉親の言葉を借りて。
「飢えているんだ。それほど深く、ひどく飢えているのだよ。その飢えが本人の魂を食い破ってしまわないように、餌を与えなければないない。だから他人を餌にするのだ」
この『名もなき毒』は『誰か』の続編であるのだが、新たなキャラクターも登場して、このシリーズの先がさらに楽しみになってきた。

あれこれ考え、あれやこれや読み、でもサイクリストOさんに借りている本はいまだ進まず、年賀状も待ったなしの状況、クリスマスイブだというのにこうして自分の心を大仰にまとめ、それで心が安堵しているような気分になっている、そんな休日の一コマでした。
(2177文字、原稿用紙5枚強も書いてしまった……)


頭は冴えて、身体はふらふら

2006-12-12 20:39:39 | 読書日記

病気3日目の夜のことである。
気持ちが悪いのもおさまり、昼に寝過ぎて眠られず、かといって起きて何かする気にもなれず……、こういうときにすることと言えば、やっぱり読書である。
このヘロヘロの身体じゃ、どっちみに明日(月曜日)は会社に行けないしね、などと妙に幸せな気分で買ったばかりの本に手を伸ばした。
上橋菜穂子著『獣の奏者Ⅰ闘蛇編』『獣の奏者Ⅱ王獣編』(講談社.2006年刊)である。

上橋菜穂子のファンタジーとくれば、ファンはたまらないものがあるのだが、想像をはるかに超えて素晴らしかった。決して人に馴れることのない孤高の生き物「王獣」と心を通わせた少女が、政治の陰謀に巻き込まれていく物語である。

人間とは全く別の獣という存在が、少女にとってどれほど大事で、どれほど救いであるかをきちんと描き、心を通わせながららも、それでも隔たりがあることを作者は容赦なく少女に突きつける。
なぜ、王獣を馴らしてはいけないのか、その答えは王国建国の歴史にまでさかのぼる。少女は、その政治的背景が国の仕組みにまで深く関わっていることを知っていく。

あまりにせつなく、あまりに厳しい物語だ。
言葉の創り出す圧倒的な力、というものを感じずにはいられない。

ファンタジーと呼ばれる、こうした現実とは遠く隔たる物語を読むと、いつも思うことがある。例えば、人間として強く生きること、人間としての気高さ、自分を律するという徳、誇り高く生きるということ、そんな、日常生活では絶対考えないような、あまりにこっぱずかしい、そしてあまりにスケールが大きすぎて深すぎることを、考えずにはいられなくなる、ということである。
そして、自分にはそんなことはできないけれど、でも、そうしたものに共感できる心がある、感動できる心がちゃんとあるということを、物語を通じて確認することができるのだ。
私にも、誇り高く生きることはわかる、と。

こうしたことを真っ正面から語ることのできる児童文学は、たぶん、児童文学から一番遠いところにいそうな、なだれ込み研究所を訪れる人たちにこそ、読まれるべきもののような気がする。読む気になれば、「わかる、わかる」ときっと言ってくれそうな、そんな気がするのだ。
ほんと、ぜひ、読んでみて下さい。サイクリストもフライフィッシャーも山男もペテン師も。

ということで、夜中の2時まで読んで、次の日(月曜日)休んで、今日出社したのだが、ふらふらになるほどの忙しさだった。
夜中まで本を読む元気があったということを、秘かに知っていたのではないかと疑うほど、こき使われたような気がする……。
頭は冴えていたけれど、ほんとに身体はヘトヘトだったのですよ。

(ちなみにこの画像を撮るため二冊の本を並べてはじめて気がついた。王獣のかげが形になっている!)


ガール

2006-11-18 00:15:47 | 読書日記

奥田英朗の『ガール』(講談社・2006年刊)は、30代の女たちの物語である。
女の子、ではなく女。それも自立した女たちだ。自立とは、自分で立つこと。茨木のり子の詩ではないけれど、「よりかかるとすれば、それは椅子の背もたれだけ」でいい女たちの、等身大の物語なのである。

オビのコピーも素晴らしい。
奥田英朗は、プランナー、コピーライター、構成作家を経て作家になった人だから、きっと自分で書いたのだろう。言葉の端々に、奥田英朗的な上質なユーモアとセンスが感じられる。

さ、いっちょ真面目に働きますか。
キュートで強い、はらの据わった
キャリアガールたちの働きっぷりをご覧あれ。

結婚している女も、していない女も、
子どものいる女も、いない女も、
それぞれに、それぞれの事情や悩みを抱え、
それでも「自分らしくいる」ことって何だろうと考える。

幸せの形は人それぞれ、事情もそれぞれ。
それでもやっぱり心は揺れるし、弱くなるし、ぼやきたくもなる。
奥田英朗は、働く女の気持ちがなぜそんなによくわかるの?

今日はむしょうに周囲を片付けしたくなり、机の上と棚の中をきれいにした。ゴミ袋2つ分。
働く女だけれど、ガールでも30代でもない私は、
「おおーっ、B型女、やればできるじゃん」
と自分を褒めつつ、
「S木くん、月曜日にゴミ出し、お願いね」
とメモを残すのであった。
(おおーっ、嫌味でイジワルな女みたいだ――)

強さとは何か

2006-11-14 23:03:01 | 読書日記

『風が強く吹いている』三浦しをん著(新潮社・2006年刊)を読んだ。読み終わって、めちゃめちゃハイテンション、素晴らしかった! 今年のナンバーワン……って、ついこないだナンバーワンを打ち立てたばかりだったのに、続々と面白い本に出会えている。なんともまあ、幸せなことである。

この物語は、いきなり箱根駅伝を目指すことになった大学生10人の「超ストレートな青春小説(←オビのコピー)」である。
才能に恵まれ、でも、走ることから見放されていた走(かける)とハイジ(灰二)の出会い。あとの8人は、漫画オタクと重度のニコチン中毒者と、足の速くない黒人留学生など、駅伝とは縁のない者たちばかり。
その彼らがどんなふうに強くなっていくのか、非常に読み応えがある。しかし、この小説の最大の魅力は、努力しても一番にはなれない現実を前にしたとき、彼らが「真の強さとは何か」をつかんでいくその過程にある。

強さとは何か、この小説では真っ正面から、そして登場人物の心理に辛抱強く寄り添いながら追い続ける。それぞれの「頂点」を目指すために。

彼らの「強さ」に対する自問自答は、淡々としているがゆえに、より心に響く。どうしてなのかわからないのに胸がいっぱいになる。わかりやすい感動ではない。彼らの心に密着して、知らず知らず自分の人生を重ねるのだろうか。

走(かける)の「強さ」に対する自問自答。
「強さってなんだろう。走はふと、また思いを馳せた。たとえば、ハイジさんのこの静けさ。揺らがず、冷静に、自分だけの世界を走っている。俺はハイジさんとりいいタイムで走れるけれど、ハイジさんより強い自信はない。
走は、知りたいと思った。強さを、自分に欠けているものを、知りたいと」

ユキ(雪彦)が下り坂を駆け下りながら感じること。
「そうか、これはたぶん。走が体感している世界だ。ユキは胸が詰まる思いがした。
走、おまえはずいぶん、さみしい場所にいるんだね。風の音がうるさいほどに耳元で鳴り、あらゆる景色が一瞬で過ぎ去っていく。もう二度と走りやめたくないと思うほど心地いいけれど、たった一人で味わうしかない世界に。」

大学生活5年のニコチン中毒のニコチャンは、走りながらこんなことを思う。
「長い学生生活のあいだに、一人で生きる術を得たし、陸上以外の経験も積んだ。そしてわかったのは、無意味なのも悪くない、ということだ。綺麗事を言うつもりはない。走るからには、やはり勝たなければならないのだ。だが、勝利の形はさまざまだ。なにも、参加者の中で一番いいタイムを出すことばかりが勝ちではない。生きるうえでの勝利の形など、どこにも明確に用意されていないのと同じように」

来年のお正月は、絶対に「箱根駅伝」を見る!
もうすっかりその気の私だが、走がスタートで感じることは、まさに、人生そのものであり、心を自由にする。

「それにしても、この場に集まったものたちの、箱根を目指す真剣な思いには、なにもちがいはなかった。どんな立場であれ、境遇であれ、走るのまえでは、全員が同じスタートラインに立つしかない。成功も、失敗も、いまこのときも、自分の身体ひとつで生み出すものだ。
だから楽しく、苦しい。そして、このうえもなく自由だ」

野望と日常のはざまで

2006-11-05 19:48:04 | 読書日記

書店に行ったら、高楼方子(たかどの ほうこ)の『十一月の扉』が文庫化されていた。ああ、ついに高楼方子もか、と何ともいえない感慨に浸った。

『十一月の扉』(新潮文庫)は14才の少女の物語である。1999年にリブリオ出版から児童文学として出版され、夢中で読んだ。親元を離れ「十一月荘」に下宿する少女の二ヶ月間の日常と心の動きが、自分の心の奥の、いちばん純粋な部分にまで届くような、そんな物語だった。

本を手にとってまず解説を読んだ。解説を書いているのは齋藤惇夫。元福音館書店編集者で、『冒険者たち』『ガンバとカワウソの冒険』(テレビアニメになった「ガンバの冒険の原作)の作者である。

齋藤惇夫の高楼方子論がなかなか素晴らしい。心に感じて、でもうまく言えないことを「そのまま」且つ「より的確な表現で」取り出してくれた。

「起承転結、見事に整った物語の中に軽やかに展開する、大人も思わず笑みをもらしたくなる、嬉しくて楽しい世界。しかも、決して子どもたちに媚びることのない、抑揚のきいた表現は、今まで私たちの国の子どもの本には、ほとんど見ることのできなかったものです」

「『ココの詩』『時計坂の家』には、幼い子どもたちのための物語にある軽みと笑いは消え、そのかわりに一途に、ひたむきに物語の核心に向かって、ひたひたと迫っていこうとする精神の激しさがありました。何よりも、僕は、日本にも、言葉の力を信じて、まず文章の確かさそのもので、ファンタジーを描こうとしている人がいることをに驚かされました」

私にとって高楼方子は、児童文学の書き手の中で、「一番好きな作家たち」の一人である。そんな好きな作家たちの児童書が、最近次々と文庫化されている。

私が思うに、大人になっても、どんなにすれっからしになっても、普段ものすごく図太くたって、人間としての純粋な部分は、誰も心の奥にしぶとく持ち続けている。児童文学は、そんな心の奥の、普段あることさえ忘れている「最も柔らかな感受性の部分」にまで届く、そんな文学なのだと思う。だから子どものみならず、大人にも読まれ、文庫化されるのだと。

齋藤惇夫は、高楼方子に初めて出会ったとき、
「随所にほとばしり出てくる言葉のきらめきに、私はこの人は物語を書かずには生きていけない類の人なのだ、という歓びに捉えられました」
と感じたという。そして、この出会いを作ったのは、清水真砂子さんなのだというのは知る人ぞ知る話である。

高楼方子と自分を比べるのはあまりに意味のないことだが、「多読と孤独」であった子ども時代ということだけは共通しているように思う。
孤独は、幸せであろうと恵まれた環境に育とうと、明るい子どもであろうと周囲に誰かいつも居てくれようと、そうしたことに関係なく、「背中合わせ」であったり「隣り合わせ」であったりするものだ。

物語が書きたくて書きたくて、でもどう書けばいいのか、何を書けばいいのか、誰を書けばいいのか全くつかめず、でも、いつかは書けるかもしれないと心の中に野望を抱きつつ、今はなだれ込み研究所の豊かな日々を綴っている。

サウスバウンド

2006-11-03 22:48:54 | 読書日記
奥田英朗の『サウスバウンド』(角川書店刊・2005年)を読んだ。家事は子どもにバイトと称してやらせ、一日パジャマで、一日ふとんの中で読みふけった。今年読んだ本の中でベスト、久しぶりに心が躍るような小説だった。

かつて学生運動の伝説の闘志だった父の姿が、小学校6年生の息子の目から語られる。この父親があまりにカッコいい。夫にはしたくないが惚れてしまうカッコよさ。

「おれは楽園を求めている。ただそれだけだ」
「はは、楽園ね。いい大人が、そんなものあると思っているのか」
「求めないやつに、何を言ってもむだだ」
公安に対しての言葉。
「個人単位で考えられる人間だけが、本当の幸福と自由を手にできるんだ」
マスコミに対しての言葉。

そして、息子に対して言う言葉が心にしみる。
「卑怯な大人だけにはなるな。立場で生きるような大人にはなるな。これは違うと思ったらとことん戦え。人と違ってもいい。孤独を恐れるな。理解者は必ずいる」

型破りだけれど、それは世間の常識からずれているというだけで、人間としてはあまりに真っ当でまっすぐだ。
第一部の東京での生活では、そのまっすぐさがハタ迷惑としか息子の目には映らないが、第二部、沖縄に行ってからはそれが徐々に変わってくる。この父親に対する見方の変化が、オビのコピーにも書かれているように「ビルドゥングスロマン(成長小説)」なのだ。
この息子の成長した(大人になった)ときの小説が読みたい。この作者ならばきっと書いてくれるだろうと期待を込める。

環境問題に熱心な叔母に対し、小学校6年生の女の子が言う言葉が痛快だ。
「小学生にはうまく言えないけど、働かないことや、お金がないことや、出世しないことの言い訳にしている感じ。正義を振りかざせばみんな黙ると思ってる」

サウスバウンドは、南へ向かう、南まわりの、という意味である。
この小説を「面白い!」と感じた方は、ぜひなだれ込み研究所で語り合いましょう。

意地とお盆とアリ地獄

2006-08-15 23:43:09 | 読書日記

お盆休み中、これだけはやってしまおうと自分に科した仕事を、ほぼ片づけ終えようとしている。
なぜ、そこまでムキになってストイックにやり遂げようとするのか。
たぶん私の美意識の中で、「決めたらやる」ということが、かなり優先順位の高い位置に存在しているからだと思う。……と書きつつ、やっぱりただの意地っぱり、負けず嫌いから来るものなのかなあ、とも思う。

この性格のおかげで、私の人生から、かなりの楽しい部分を削っているだろうことはうすうす自覚している。同時に、だからこそ、自分の価値基準における楽しさを謳歌しているともいえる。ただの変わり者、という気もしてくるが。

実家の母に、
「いつも店番ばかりしてないで、少しは遊びに出かけたら?」
と言ったら、
「遊びに行くことがそんなに楽しいとは思わないからいいの。店で仕事をしている方が好きなの」
と言われた。
やれやれ、同じじゃないかと思った。

まあ、そんなこんなで、この休みは、仕事をして、家事をして、プールに行って、映画を見て、外食をして、買い物に行って、図書館と書店に行って、その合間に本を読んで、昼寝をして……。おお~、自分としてはなかなか充実したお休みだったではないか。
もっとも、そのおかげで、私の机の上は冒頭の写真のようにひっ散らかってしまったが。

さて、市役所のK子さんに薦められていた『犯人に告ぐ』(雫井脩介著・双葉社刊)だが、あまりの面白さに、367ページ2段組を1日半で一気に読み終えてしまった。
オビのコピーは、
「犯人よ、今夜は震えて眠れ」
おお~、カッコいい。
刑事の巻島が、テレビというメディアを通じて犯人に告げる言葉である。
この、巻島という主人公の人物造形が素晴らしい。こういう人がダンナだと困るが、確実に惚れてしまうタイプである。様々な事情を抱えながらも、事件を解決する、というたった一つの目的のため、揺るぎのない行動ができてしまうところがすごい。

さて、次に読むのは市役所M浦さんお薦めの『照柿』(高村薫著・講談社刊)である。K子さんもM浦さんも、読書の嗜好が宮部みゆきの『火車』好きで一致している。
読書の楽しみの一つは、こうした同じ嗜好を持つ人たちから、次から次へと面白い本を薦められることにある。
こうして新しい作者を開拓すれば、その作者の本を読み進め、さらにその作者のことを調べていくと、その読書歴がネットで調べられたりして、今度はそれらの本に手を出していく。
「なるほど、あの作品はこの作品からモチーフを得ているな」
とか、
「この作者の原点は、これだったのか」
といった発見があり、さらに楽しい。
以前、なだれ込み研究所のことをアリ地獄のようだと書いたことがあるが、読書もそんな一面がある。
現在、図書館で予約待ち状態のため、『なかよし小鳩組』(萩原浩著・集英社刊)を読書中。弱小広告代理店がヤクザのCIに関わる痛快ユーモア小説で、現在50ページ目。これもなかなかに面白い。

ということで、明日からまた二重のアリ地獄生活が始まる。