夕方6時に再び出社し、M町のツーリズム研究会の第2回ワークショップの会場に向かう。地域資源を活用した農山村体験型メニューを整備し、受け入れ態勢づくりをすすめる研究会なのだが、アドバイザーとしてSさんがメンバーになっているのだ。私の仕事は、議事録を作成するため、現場で生の声を聞き、その場の雰囲気や流れをつかむこと。
第1回のワークショップでSさんがくり返し言っていたのは、「資源」とは実体験を伴った「資源」でなくては説得力を持たないということ。例えば「M町には硫黄の出る沢があるらしい」というだけではだめで、「私は硫黄の沢の湯を汲んで、毎日おふろに入れているから身体の調子がすごくいい」になってはじめて「資源」になる。つまり、実体験に基づく生活提案がされて、はじめて「資源」になるというのだ。
なるほどー。
メモを書きながら感動している私である。
さて、グループワークでは様々な意見が出たのだが、特に私が感じたのは「まとめることは、いいことなのか」ということである。
最初から「うまくまとめよう」と思考が働いた瞬間から、最大公約数的な、平均値のような、ありふれた答えになってしまう。斬新なアイデアや、日常のごくありふれた一コマ(それこそ地域資源!)を自分の頭から抜き出すことができなくなってしまうのではないかと思うのだ。
これは、実は私の「書く」姿勢にも共通することで、自分の欠点を突きつけられたような気持ちになった。
私の頭はすぐ「まとめよう」という流れに行く。まとめるという思考は、報告書や議事録には役立つが、小説を書くときには両刃の剣になる。
「うまくまとまっているけれど、ありきたりで面白みがない」
そういう小説になってしまうということである。
小説を書くとは、結局はエピソードの積み重ねである。まとめた話ではない。日常の何げないエピソードの中に、その積み重ねの中に、人間が見えるのである。
私に足りないのは、まさにその「まとめない」ということ。
ついついまとめてしまう頭の動きを、どうやって止めればいいのでしょう。
悩みは深い。
第1回のワークショップでSさんがくり返し言っていたのは、「資源」とは実体験を伴った「資源」でなくては説得力を持たないということ。例えば「M町には硫黄の出る沢があるらしい」というだけではだめで、「私は硫黄の沢の湯を汲んで、毎日おふろに入れているから身体の調子がすごくいい」になってはじめて「資源」になる。つまり、実体験に基づく生活提案がされて、はじめて「資源」になるというのだ。
なるほどー。
メモを書きながら感動している私である。
さて、グループワークでは様々な意見が出たのだが、特に私が感じたのは「まとめることは、いいことなのか」ということである。
最初から「うまくまとめよう」と思考が働いた瞬間から、最大公約数的な、平均値のような、ありふれた答えになってしまう。斬新なアイデアや、日常のごくありふれた一コマ(それこそ地域資源!)を自分の頭から抜き出すことができなくなってしまうのではないかと思うのだ。
これは、実は私の「書く」姿勢にも共通することで、自分の欠点を突きつけられたような気持ちになった。
私の頭はすぐ「まとめよう」という流れに行く。まとめるという思考は、報告書や議事録には役立つが、小説を書くときには両刃の剣になる。
「うまくまとまっているけれど、ありきたりで面白みがない」
そういう小説になってしまうということである。
小説を書くとは、結局はエピソードの積み重ねである。まとめた話ではない。日常の何げないエピソードの中に、その積み重ねの中に、人間が見えるのである。
私に足りないのは、まさにその「まとめない」ということ。
ついついまとめてしまう頭の動きを、どうやって止めればいいのでしょう。
悩みは深い。