6月23日(土)、掛川ライフスタイルデザインカレッジの6月フォーラムが行われた。講師は掛川市在住の陶芸家 竹廣泰介氏。タイトルは「私を変えた陶芸―金はなくても火・水・木・土―」である。
大学で建築を勉強していた竹廣氏は、卒業後、東京のゼネコンで10年間勤めた。当時は現代美術に興味があり、新しいもの、人がやっていないことに対して目ざとく、常に前のめりの生活をしていた。そんなとき、魯山人のコレクションと出会う。まだ魯山人が無名の頃で、特に色の使い方に惹きつけられたという。
その後、陶芸を志し、東京、多治見、備前、信楽などで学び、「穴釜で信楽の土で焼く」という今の竹廣氏のメインの仕事と出会った。
掛川に縁もゆかりもない竹廣氏が、なぜ掛川に移住することになったのか。
東京―広島間で工房にふさわしい場所を探していたとき問い合わせた一つが掛川市役所であり、偶然電話に出た職員がいくつかの物件を紹介し、一緒にまわってくれたのがきっかけだったという。
今、竹廣氏は、築120年の古民家に工房を構え、土と向き合う日々を過ごしている。
印象的だった言葉を以下に。
「全戸数27軒の集落で暮らしていると、ほんの一世代前、二世代前は、ほとんどが山の仕事、田の仕事をしており、自給自足に近い生活をしていたことが実感できる。ほんのつい最近まで、自然に近しい生活があったのだ」
「陶芸の工程はどれをとっても難しい。大切なのは、1に「焼き」、2に「土」、3に「細工」。工芸品の場合、3の「細工」が一番重要になるが、陶芸の場合は違う。土の持つ存在感を引き出すため、土を変え、窯を変え、様々な努力をするが、大気の変動など人の手ではどうにもならないものに左右される。思い通りにいかないからこそ面白く、予想すらしていなかったものができることもある。焼き物をしていると、つくづく人が関われる領域は少ないのだと実感できる。今私は、自然に寄り添って生活している」
「常に前のめりの生活が、陶芸と出会ったことで、過去へ過去へと興味の領域がさかのぼっている。今は、桃山時代の茶陶が現代社会に与えるものを考えたい」
「中国ではすでに稲作を中心とした都市国家が成立していた頃、日本は1万年にもおよぶ縄文時代があった。なぜ1万年も続いたのか思いを馳せるとき、日本は「狩猟」というその日暮らしの生活が長く続くほど、豊かな国だったのではないかと思うのだ」
「織田信長のすごさの一つは、新しいステイタスを生み出したことだ。当時、新興の武士にはどうにもならない「歌」という存在を「茶の湯」によりくつがえし、城一つにも匹敵する茶陶という価値、ステイタスを創り上げた」
後半は、有名な「器」をスライドで解説しながらの講演だったが、陶芸にまったく無知な私には「この器は好きだなあ。びわ色っていいなあ。色気のある器って先生は言ったけど、どういうところが色気があるのかなあ」という程度の感想しか持てなかった。
しかし、
「千利休は、山里で庵(いおり)をくむことがわびさびの世界だったのを、まちの中に下りてきて、まちの中で虚構の世界に入る仕組みをつくった」
という言葉を聞いたとき、自分の中にある知識のカケラと結びつき「なるほど、そうだったのか」と妙に納得できた。
それは、『利休とその妻たち』(三浦綾子著・新潮社刊)を読んだとき、解説に「千利休は『茶の湯』のプロデューサーだった」と書いてあったことだ。
本来なら、山里で庵をくむところ、利休はそれをまちの中で実現するため、徐々に虚構の世界に入っていくための仕掛け(茶室、茶碗との対面など)を創り上げ、演出したということなのだ。
竹廣氏の知識は、幅広く、深く、難しくもあったが、少しでも自分の持っている知識との共通点や重なりを感じたとき、自分の持っているちっぽけな知識が、別の角度から光を与えられたような、そんな気がした。
フォーラムの冒頭、司会のS野さんが「竹廣氏の存在自体が資源なのだ」と言った言葉が、これまた「なるほど」と自分に返ってきた。
竹廣先生は掛川の財産です。
いや、やっぱ資源かな?
掛川の地域資源。
どっちなんだろう?
「これからの地域活性には、工場などの誘致ではなく天才の誘致だ」
とおっしゃっていましたものね。
magnoriaさん、こちらこそご無沙汰しています。竹廣先生のお話は素晴らしかったですよ。同じまちにこのような人がいるのだということが、まず嬉しいですね。
尚、ここでは「K住」もしくは「管理人」もしくは「onimasa」と呼ばれているので、そのように修正させていただきました。あしからず。