なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

通過点

2007-09-30 21:02:36 | ビジネスシーン
28ページものの記念誌の制作、編集の仕事に携わっている。先週から撮影をスタートさせたのだが、ブログの更新が滞っているせいか、カメラマンのO川さんからこんなことを言われた。
「あなたはこのなだれ込み研究所で何がしたいの?」

今、私が理解できるなだれ込み研究所の仕事は、以下のものだ。
①商いをどうしていけばいいのか、そのための商品開発計画に関わる仕事。
②その計画推進のために、どう動き、何をどう表現していくかの企画提案。
③それが形になって表れたものとしての、イベントの企画運営、印刷物やホームページなどの表現物の制作編集。
④地域プロデュースとしての、地域資源の顕在化、地域発信型メニューの開発、地域活性化のコンサルティング。

私が使えるものは「言葉」であり「文章」だ。議事録や報告書の作成、下準備としての情報のまとめから商品コピー、そうしたもののほかに、人と人をつなぐ場としての「つなぐ言葉」「やりとりの文章」も必要だ。
私はここで、自分の持つ道具を使い、使うことで道具を磨き、一人ではできない、関わることさえできないコトに関わっている。私の能力や理解の幅を超えた仕事を与えられ、接することさえないと思われる人たちと関わることで、自分の幅を広げている。

今回のような記念誌の編集の仕事は、文章を書くこともあれば、撮影に同行したり、デザイナーに依頼したり、様々な得意分野を持つプロ達の橋渡しの役目をし、一つの方向に持って行くことが求められる。クライアントの意向を聞き、企画構成を考えるディレクターとの調整、全体を統括するプロデューサーとの調整も必要だ。ものを創り上げる仕事は、私の好きな仕事でもある。信頼するこれらの人たちとの仕事は、その都度、たくさんの発見もある。

こうした、自分だけでは関わることのできない仕事や人と関わり。自分の能力を活かしながら、高めながら幅を広げることができる。私はここで、そんなことをしたいのだと話した。すると、O川さんは言った。
「もしかしたら、なだれ込み研究所は、通過点なのかもしれない。あなたにとってもオレにとっても、もしかしたらS藤にとっても」

みんな、どこへ向かい、どこへ行きたいのだろう。





長唄という文化

2007-09-07 22:55:40 | まちづくり
第二回掛川邦楽ライブ「掛川神明氏子のにぎわい」に行ってきた。
掛川大祭で塩町が神明宮に奉納する「浦島」を、杵屋勝彦先生が長唄、三味線で生演奏(という言い方が正しいのかどうか?)し、塩町の子どもたちが手踊りを披露する生ライブである。

まずは杵屋先生の言葉から。
「地元の人はそうは思っていないかもしれないが、掛川の祭りは実はとても素晴らしい。各町内には、それぞれ神社に奉納する手踊りがあり、当たり前のように大人も子どもも長唄の手踊りを踊っているが、実はこれは全国的に見てもほとんど例がない。東海道筋で島田と藤枝に長唄を踊る祭りが残っているくらいだが、どちらも東京から家元クラスの人材を呼んでいる。それはそれでクオリティの高い長唄を披露し、祭りの価値を上げているが、地元の人が当たり前のように踊っているのは掛川だけ。日常生活の中に長唄が生きている。生活の中に長唄が生き、伝えられているのはここだけ。保存会の唄ではなく、生きている唄」

子どもの頃に踊った「浦島」が、長唄、という音楽のジャンルだということも実は知らなかった。長唄の声も、三味線の音色も、小さい頃から慣れ親しんでいる。でもそれは「うちの町の踊りの唄」くらいの認識しかない。それが、実は日本の伝統文化だよ、実はそうして慣れ親しんでいることが素晴らしい価値なんだよと、外からの人に教えてもらったような感じだった。

長唄とは、江戸歌舞伎の伴奏曲として発達した三味線音楽だそうだ。文政(1818~1830)頃には鑑賞本位のお座敷長唄も生まれている。そうした曲は、俗曲、端唄とも呼ばれているそうだが、そういう短い唄、テンポのいい唄も演奏して下さった。
本当に、お座敷にいるような気分だった。
三味線の音色は潔く、一人で立っているイメージだ。そして、甘くないのに艶っぽい。
端唄を演奏しているとき、着物をきちんと着て、踊り出したい気分になった。踊りや三味線を習い、芸事を習い、そうした芸事の世界に身を置く、という人生の選択肢もあったのだと、自分のこととして実感した。
不思議な感覚だった。

「初めて掛川に来たとき、宴会で、祭り青年の若者が、酔っぱらって普通に長唄を唄っているのを見たとき、本当に驚いた」
「掛川は、地元の旦那衆が支えた、芸事の盛んな町だったのだと思う」
そうしたDNAが、私たちの中にきっとある。

長唄が、庶民の祭りの中にきちんと受け継がれているのが価値なのだとしたら、価値を価値として顕在化させなくてはいけない。私自身、知らずに、気づかずに育ち、今こうして教えてもらったように。
地元の人たちが、自分たちの祭りを、手踊りを、「すごいもの」だと気づくことからすべてははじまる。そうして、盛り上がっていく中で、杵屋先生のような「本物」がさらに力を与えてくれる。先生は、年に一度でも二度でも来る、とおっしゃって下さっている。
私ができることは、今日、感じたことを情報発信すること。
心からそう思った。


杵屋勝彦プロフィール 
小学生の頃より「三味線」に興味を持ち、中学一年の時より民謡・端唄の三味線を通信教育の教材にて独学。
高校二年にて「長唄三味線」を、杵屋勝雄師に師事。
東京藝術大学音楽学部邦楽科長唄三味線専攻に、昭和57年入学。
在学中より「長唄」を、東音福田克也師に師事。
芸大卒業後、正式に唄方に転向。「杵勝会」「東音会」に所属。
長唄演奏会、歌舞伎公演、舞踊会、放送等へ随時出演。
平成元年以降主宰の「彦音会」を国立小劇場等で開催。
東京・横浜・熱海・京都にて稽古場を持つ。