なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

ネイチャーフォト、第2回。

2007-06-30 22:45:20 | スローライフ

今日は掛川ライフスタイルデザインカレッジ「ネイチャーフォトグラフィー」の第2回目だった。撮影場所はならここの里。
受講生にまじって撮影をし、撮影した写真をみんなで見て、講評を聞いていると、同じ場所で撮影をしているのに、それぞれまったく見方が違うんだなあと実感する。興味の対象、感性のおもむく先、どこからどう撮り、どう切り取るかが全く違う。

一人一人が、みんなそれぞれなのだ、と金子みすゞの詩の一節「みんなちがって、みんないい」をふと思い出した。
(金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』より)

講師小川さんの印象に残った言葉を以下に。

「デジタルカメラのオート機能は親切だから、人が失敗しない方へ失敗しない方へ動いてくれる。作品の美しさよりも、最低限失敗しない方、間違いのない方へ動く」

「自然の風景の中に、ストロボという人工の光が入るのは不自然だと感じる」

「余白があると、その場の空気感を感じる」

「モリアオガエルの卵があると、卵だけを撮ろうとしてしまう。しかし、モリアオガエルの卵が必ず水の上に作られることを知っていれば、写真の中に水辺は必ず入れる」

それにしても、カエルの卵が木につくとは知らなかった。
ネイチャーオンチの私としては、モリアオガエルが木に登ったときのことを想像しただけで、かなりの驚きだった。(それとも、木に登らなくてもできちゃうの……??)
モリアオガエルが何年の寿命があり、この季節にいるのかいないのかさえ知らないが、遭遇しなくてほんとによかった、と心から、こっそり、思ってしまった。

ちなみに冒頭の画像。階段を上がった光の先に何があるのか知りたくて、撮ってみました。

ブログを書かないと

2007-06-28 20:54:54 | ビジネスシーン
ブログを書かなくて、気づいたこと。

ブログを書かないと仕事が進むような気がする。
ブログを書かないと楽(らく)なような気がする。

ブログを書かなくても毎日は同じように過ぎていく。
ブログを書かないと、過ぎた日々が受信トレイの中でどんどん下がっていくメールのように、埋もれ、忘れられていく。

知識の幅と深さ

2007-06-27 00:01:56 | スローライフ

6月23日(土)、掛川ライフスタイルデザインカレッジの6月フォーラムが行われた。講師は掛川市在住の陶芸家 竹廣泰介氏。タイトルは「私を変えた陶芸―金はなくても火・水・木・土―」である。

大学で建築を勉強していた竹廣氏は、卒業後、東京のゼネコンで10年間勤めた。当時は現代美術に興味があり、新しいもの、人がやっていないことに対して目ざとく、常に前のめりの生活をしていた。そんなとき、魯山人のコレクションと出会う。まだ魯山人が無名の頃で、特に色の使い方に惹きつけられたという。
その後、陶芸を志し、東京、多治見、備前、信楽などで学び、「穴釜で信楽の土で焼く」という今の竹廣氏のメインの仕事と出会った。

掛川に縁もゆかりもない竹廣氏が、なぜ掛川に移住することになったのか。
東京―広島間で工房にふさわしい場所を探していたとき問い合わせた一つが掛川市役所であり、偶然電話に出た職員がいくつかの物件を紹介し、一緒にまわってくれたのがきっかけだったという。
今、竹廣氏は、築120年の古民家に工房を構え、土と向き合う日々を過ごしている。

印象的だった言葉を以下に。

「全戸数27軒の集落で暮らしていると、ほんの一世代前、二世代前は、ほとんどが山の仕事、田の仕事をしており、自給自足に近い生活をしていたことが実感できる。ほんのつい最近まで、自然に近しい生活があったのだ」

「陶芸の工程はどれをとっても難しい。大切なのは、1に「焼き」、2に「土」、3に「細工」。工芸品の場合、3の「細工」が一番重要になるが、陶芸の場合は違う。土の持つ存在感を引き出すため、土を変え、窯を変え、様々な努力をするが、大気の変動など人の手ではどうにもならないものに左右される。思い通りにいかないからこそ面白く、予想すらしていなかったものができることもある。焼き物をしていると、つくづく人が関われる領域は少ないのだと実感できる。今私は、自然に寄り添って生活している」

「常に前のめりの生活が、陶芸と出会ったことで、過去へ過去へと興味の領域がさかのぼっている。今は、桃山時代の茶陶が現代社会に与えるものを考えたい」

「中国ではすでに稲作を中心とした都市国家が成立していた頃、日本は1万年にもおよぶ縄文時代があった。なぜ1万年も続いたのか思いを馳せるとき、日本は「狩猟」というその日暮らしの生活が長く続くほど、豊かな国だったのではないかと思うのだ」

「織田信長のすごさの一つは、新しいステイタスを生み出したことだ。当時、新興の武士にはどうにもならない「歌」という存在を「茶の湯」によりくつがえし、城一つにも匹敵する茶陶という価値、ステイタスを創り上げた」

後半は、有名な「器」をスライドで解説しながらの講演だったが、陶芸にまったく無知な私には「この器は好きだなあ。びわ色っていいなあ。色気のある器って先生は言ったけど、どういうところが色気があるのかなあ」という程度の感想しか持てなかった。
しかし、
「千利休は、山里で庵(いおり)をくむことがわびさびの世界だったのを、まちの中に下りてきて、まちの中で虚構の世界に入る仕組みをつくった」
という言葉を聞いたとき、自分の中にある知識のカケラと結びつき「なるほど、そうだったのか」と妙に納得できた。

それは、『利休とその妻たち』(三浦綾子著・新潮社刊)を読んだとき、解説に「千利休は『茶の湯』のプロデューサーだった」と書いてあったことだ。
本来なら、山里で庵をくむところ、利休はそれをまちの中で実現するため、徐々に虚構の世界に入っていくための仕掛け(茶室、茶碗との対面など)を創り上げ、演出したということなのだ。

竹廣氏の知識は、幅広く、深く、難しくもあったが、少しでも自分の持っている知識との共通点や重なりを感じたとき、自分の持っているちっぽけな知識が、別の角度から光を与えられたような、そんな気がした。
フォーラムの冒頭、司会のS野さんが「竹廣氏の存在自体が資源なのだ」と言った言葉が、これまた「なるほど」と自分に返ってきた。


武相荘(ぶあいそう)へ

2007-06-24 11:25:11 | ライフスタイル

白洲次郎が、武蔵の国と相模の国の間にあることから、また「無愛想」とからめて名づけた旧白州邸、武相荘(ぶあいそう)へ行ってきた。

日本の民家の美しさ。
自然の作法に則り、正直に、清楚に暮らすということ。
大切なものを大切にするという、ごく当たり前の感覚。

屋内に入ったときの独自の匂い、ひんやりした空気感、木の建具の美しさと、当たり前にそこにある家具の存在感、邪魔にならない新しい価値観の調度品。

書斎に入ったときのむせ返るような空気感。ゆっくり、そおっと入って行かなくては、そこにある何かに叱られてしまいそうな、不思議な感覚。
ここで確かに白洲正子は本を読み、執筆したのだ。

外に出て、高台に建つ旧白州邸から街を見下ろすと、田畑や民家の点在する集落の風景が目に見えるようだった。今は現代の街並みがあり、振り返れば、しっとりと雨に濡れる武相荘が佇んでいる。


提言から実験、そして事業へ

2007-06-16 21:57:59 | スローライフ
本日、掛川市市民活動団体推進モデル事業の提案審査会があった。NPOスローライフ掛川は、「金ちゃんカフェ実験~報徳図書館と市民をつなぐオープンカフェ~」を提案し、500満点中430点で採用された。

今回、このプレゼンに出席するにあたり、提案書作成段階だけでなく、発表原稿においてもたくさんの方のアドバイスをいただいた。直しに直した原稿で、伝えたいことをきちんと伝えることができたと思う。
総評の中で「目指しているものが明快かどうかが高評価につながっている」というお話があったが、アドバイスをもらうたびに書き直したことで、自分自身、目指しているものがどんどん明快になっていったように思う。

たくさんの人に支えられた今回のプレゼン。
どんなふうに発表したか、「なだれ込み研究所の一日」をご覧の皆さんにこっそり披露します。ほとんどこの通りにしゃべっているので、私のドキドキを感じながらお読み下さい。
皆さん、本当にありがとうございました。

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NPO法人スローライフ掛川のK住と申します。今回、掛川市市民活動推進モデル事業として「金ちゃんカフェ実験~報徳図書館と市民をつなぐオープンカフェ~」を提案します。どうぞ、よろしくお願い致します。

まず、私ども、NPOスローライフ掛川ですが、平成16年7月の設立以降、生活提案NPOとして、「スロー」というキーワードで人と人、人と地域をつなげ、地域資源を生かしたまちづくりをすすめています。

昨年度の、掛川市市民活動推進モデル事業では、「あるものさがしの風景コミッション」として、里山や田園風景、路地やローカル線沿いの一本道も魅力ある地域資源なのだという「あるものさがし」の視点で「掛川・みち、ふうけいサイクリングマップ」を作成しました。このマップは、毎月定例的に行っている早朝サイクリングでも活用しています。
今年度は「カフェ」を媒体に、地域資源を面として繋げたいと考えています。店の名前は「金ちゃんカフェ」。場所は、集客力のある中央図書館の正面、報徳図書館の庭先です。報徳図書館は、1929年に建てられたアールデコ調の建築様式をしています。

先ほどから、私は「金ちゃんカフェ」と言っておりますが、この「金ちゃん」というのは、二宮金次郎、二宮尊徳のことです。

掛川市には、二宮尊徳の「報徳」の教えを広めるための本社があります。二宮尊徳というと、薪を背負って本を読む「勤勉」や「勤労」のイメージが強いのですが、あと二つ「分度」と「推譲」という考え方があります。
「分度」とは、適量、ほどほどのよさ、という意味で、分をわきまえる、足るを知る、ということです。
「推譲」は、譲る心であり、余ったものは他者へ、地域へ、そして次の世代に譲るということです。
尊徳は「経済と道徳の調和」と説いていますが、報徳社の正門は「経済門」と「道徳門」が同じ高さで建っています。

こうして、改めて知れば知るほど、報徳という文化は、少しも古めかしくなく、今の時代にぴったりだし、とても必要なことだと私など思います。しかし、この「報徳」という文化を市民がきちんと知っているかといえば、知られていないのが現状です。掛川駅からも近く、中央図書館の正面という好立地にあるのに、若い世代の市民にはほとんど知られていません。文化というものは、ただそこにあるだけではだめで、「なるほど、報徳とはこういうものだったのか」というように共感し、自分のライフスタイルの中に息づき、自分の住むまちの文化として誇りを持ってこそ、輝きを増すものだと思います。

さらに、この中央図書館、報徳図書館の周辺は、掛川城があり、掛川城御殿があり、明治の豪商の住まいであった竹の丸があり、蓮池がありというように、ロケーション的にも素晴らしいのに、周辺に、誰もが気軽に利用できるカフェなどの施設がありません。中央図書館で本を借りた後も、地下にある自動販売機で紙コップのコーヒーを飲むか、周辺を散策することもなく早く家に帰るとか、というのが現状です。
「報徳」の文化をもっと知ってもらいたい、周辺にある多くの地域資源を繋げ、面としての魅力を向上させたい、そうすることで豊かな時間やライフスタイルを提案したい。そのとき、繋げる媒体として、また商いとしても「カフェ」は非常に有効ではないかと考えたわけです。これは、掛川のお茶の文化、茶室とは違ったジャンルとして必要とされていることでもあります。また、こうした商いは、私たちスローライフ掛川が自立したNPOを目指すためにも必要なことです。

この画像は、昨年4月に開校しました「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」の一コマ、「浜野安宏と歩く―掛川ストリートワークショップ」を実施したときのものです。浜野さんは、日本を代表するライフスタイルプロデューサーとして、また、青山のストリートをはじめとする多くのまちの仕掛け人としても著名な方です。一緒に街歩きをしたとき、中央図書館から出て、報徳図書館を正面に見たときに、報徳のこと、商いのことなど話しましたら、「それなら、『金ちゃんカフェ』をやったらええ」という発言が飛び出したわけです。

今回のカフェ実験は、7月6日からの3日間ということで、ちょうど「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」のフォーラムで浜野安宏さんをお招きする時期と合わせましたが、準備期間が短いこともありますし、秋口の気候の安定したときに、とも考えています。
公開フォーラムでは、浜野安宏さんに「なぜ、金ちゃんカフェなのか」も含めて、オープンスペースやストリート、界隈の魅力を語っていただきます。日本を代表するプロデューサーの「掛川」に特化したまちづくりのアドバイスや、先駆性のある提言が聞けるものと思われます。

カフェ実験の機能として、
①まちなかの、文化、歴史、教養ゾーンに、市民、観光客など、誰もが気軽に立ち寄れるフリースペースをつくる。
②カフェを媒体とすることで、豊かな時間、ライフスタイルを提案する。
③報徳社の魅力だけでなく、周辺資源の情報の発信の仕方を工夫する。
④周辺の地域資源が相互に連動する仕掛けをつくり、面としてつなげる。
といったことを、考えています。

オープンカフェの場所は、報徳図書館の蓮池側に面した庭先ですが、周辺の状況としまして、報徳社の大講堂は、来年、修復を完了しますし、明治の豪商の住まい「竹の丸」も、耐震工事がはじまります。こうして、掛川の資源がハード的に整備され、資源としての価値を増していく中で、それらを繋ぐソフト面での仕組みづくりやストーリーづくりがより大切になってくると思います。
そのためにも、まちづくりをすすめる行政と、「まちの使い方」や「あるものさがし」という視点を持つ市民とが協働で、まちの資源を繋げ、情報発信し、資源としての価値を高めいくことが大切だと考えます。ただ文化として、ただ建物としてあるのではなく、共感し、誇りに思い、ライフスタイルの中に息づいてこそ、まちの資源は輝きを増すものですし、「地域の豊かな生活」に繋がっていくものだと考えます。

私たちが「スロー」や「ライフスタイル」といキーワードで様々な活動をしていますと、今まで「まちづくり」や「市民活動」というものに全く関わってこなかった層の人達とつながりができ、今、スローライフ掛川の活動を支えてくれるようになっています。今回、楽しそう、面白そう、「金ちゃんカフェって何?」という感覚で「カフェ」に入った若い世代の人たちを巻き込む、新しいまちづくりの可能性になりはしないか、ということも同時に検証したいと思います。そして、多くの意見や結果を検証しながら、次のステップ、実際の商いとしての事業につなげていきたいと考えます。

これで、「金ちゃんカフェ実験~報徳図書館と市民をつなぐオープンカフェ~」の提案を終わらせて頂きます。ありがとうございました。

さあ、「金ちゃんカフェ」実験が実現します!

間合い文化を考える

2007-06-15 19:56:01 | ビジネスシーン

日本の「間合い」文化を考えた建築の取材。「間」とは、ただ外と中をつなぐのでなく、空間、時間、人と人をもつなぐのだと実感した。

株式会社鈴木建設ホームページ「√S+C」
「建築家との住まいづくり」
「御前崎N邸~方形(ほうぎょう)の家」
http://suzuki-architect.seesaa.net/article/44032991.html

幸せな住まいづくりとは、幸せな出会いとはこういうものだと感じた取材であり、インタビューできた幸せをも感じた取材であった。

ハブ毛系の人々

2007-06-06 20:40:57 | ビジネスシーン

ハブ毛系のN村さんが、自転車にハブ毛とリム毛をつけてやってきた。画像の黄色いのがハブ毛で、青いのがリム毛である。一体、どうやって手に入れたのだろう。なだれ込み研究所の自転車には、今、ピカピカのハブ毛とリム毛がついている。もちろん、小学生の頃から30年来乗っているというN村さんの自転車も、ピカピカであった。

ちょうど、静岡のS野さんに電話をする用事があったのだが、
「あんたたち、まだハブ毛の話で盛り上がっているの? 引っ張りすぎ」
と失笑された。
その、失笑された一人、K造さんは、
「オレのことをこれから、ハブ毛バロン、もしくは、ハブ毛男爵と呼んでくれ。じゃあな、あばよ」
と帰っていった。

そのK造さん、
「ひかりとあかりの違いは?」
の質問に、
「ひかりは神がつくり、あかりは人間のつくるもの」
と答えてくれた。
幅とはこういうものだ、と納得の、なだれ込み研究所の一日であった。

こしらえる人々

2007-06-04 22:59:53 | ビジネスシーン
建築家O澤さんの語録をまとめた「その向こう側にあるもの」を書いた翌日、事務所にT橋さんがやってきた。
「いやあ、昨日の記事は面白かった。O澤さんが言っていること、それから浜野安宏さんが言っていることにも通じるから、この本を読んでごらん。勉強になるよ」
と、1冊の本と記事のコピー数枚を手渡された。
コピーには「その向こう側にあるもの1」「その向こう側にあるもの2」というメモと、簡単な解説が書かれていた。

なだれ込み研究所に出入りする人は、私にいろいろなことを教えてくれる。その中でもT橋さんは、事務所で話題にのぼったこと、私の仕事に必要と思われること、それらに関する情報を惜しみなく与えてくれる。「教えたがり」という側面もなくはないが、T橋さんの建築に関する考え方、目指すものが、資料の言葉を通じて「なるほど、T橋さんはこういうことが言いたかったのだ」「こういうものの見方をしていたのだ」と理解することができる。
そしてそれらを読むことは、私の知識の幅を広げるだけでなく、感覚的にとても刺激されるのだ。

手渡された本は『楽しく建てる―建築家 遠藤楽作品集―』(遠藤楽作品集編集委員会編・丸善刊)。その中の「“有機的建築”のための教育」の一文に惹かれた。一部、抜粋させていただきます。

人々の心を打つ名曲が何ゆえに美しいかと言われても誰もそれを文字や数字で説明することはできない。ましてこれらのものを生み出す方程式などあろうはずもないのだ。これらは、これを生み出す人それぞれが自分自身で持っている感性とかイマジネーションによって創り出されるものであり、他人が手をとって教育できるものでは絶対にないのである。

これは、一昨日の講演で鉄矢悦朗氏が言った「歴史、技術は教えるもので、思考力と勇気は育むもの」という言葉にも通じる。鉄矢氏も、建築家であった。

この一文の最後に、こんな言葉がある。

ものを想像したり、画いたり、そしてそれらをこしらえたりすることがどんなに楽しいことであるか――

こしらえるとは、建築や絵画、文学に限らず、見えるもの、見えないもの、場、機会など様々であるが、こしらえる人たちの言葉を聞くのは、とても面白い。

こしらえる人々の一人、T橋さんがブログを始めました。
ぜひ、のぞいてみて下さい。

「設計はライフスタイルに従う」
http://blog.goo.ne.jp/takahasi-sekkei/

動き続けること

2007-06-03 22:53:49 | スローライフ

昨日、掛川ライフスタイルデザインカレッジ・ベーシックプログラム「6月フォーラム」が行われた。講師は建築家で東京学芸大学准教授の鉄矢悦朗氏。タイトルは、「私の動きを変えた『デザイン教育』プロジェクト~『止まって考える』より『動きながら考える』が次の扉を開く~」である。

鉄矢氏は、冒頭「今日いちばん悩んだのは実は洋服。ライススタイルデザインカレッジなので、ラフでありながら真面目な感じを出したかった。最初に着たのは去年と同じのだった」と話された。「大真面目」と「なんちゃって」の両方がわかる鉄矢氏らしいエピソードだ。

建築家から大学の教員になって6年目。教育とは何だろうといつも考えるという。
「自分が持っているものだけ出していたらすぐからっぽになってしまう。デザインという性格上、自分が持っている情報だけでは古い。動き続けることが大切。そういう中で教える面白さと大変さを同時に感じる」

「デザイン教育とは、何を教えるのか。研究員からの言葉で、教育を『教える』と『育む』に分けて考えれば自分にもできると感じたという。歴史、技術は教えるもので、思考力と勇気は育むもの。勇気とは、行動につなげる勇気のこと。自分の教え方は『育む』の要素が強い。ツリーハウスプロジェクトも、掛川ひかりのオブジェ展プロジェクトも、『育む』機会として企画した。好奇心が行動につながっていくことが大事」

「学生たちは、その場その場の手探りの状況の中、場当たり的に実践しながら様々なものを学んでいった。こうしたデザイン教育は、教室では学べない。教科書にも載っていない。系統だてても教えていない。実感のないデザイン教育は不毛だと思う。実感のあるデザイン教育は、ボディブローのようにあとで効いてくる。私が経験したように」

どんな経験をしたのか、ぜひ次回、聞いてみたいものだ。
さて、そんな鉄矢氏が、最近の学生を見て感じることを「現代社会から消えているもの」という切り口で話されたのだが、それは、私たち大人への警告でもあるように感じた。

消えているもの。まずは、とんかち。
「ツリーハウスプロジェクトを通じて、とんかちを使ったことのない生徒がいることに驚いた。しかし、考えてみれば、都内のマンションに住む住人など、壁に穴を開けることもできず、庭もなく、部屋の中でトンカンやったら苦情がくる。とんかちが使えない社会であるということ。『とんかち』が消えるということは、たたく実感がなくなるということ。たたく実感がなくなるのは、異常ではないかと思う」

たき火。
「火を扱ったことのない学生を見ていると、『燃えるゴミ』『燃えないゴミ』の分別は暗記でしかないのだと感じる。ゴムを火に入れたときの臭い匂い、プラスチックを燃やしてしまってドロドロになった経験がないから、燃える、燃えないの実感が伴わない」

空き地。
「空き地はほとんどが駐車場になり、誰の所有かわからない土地が消えている。子どもたちは作られた公園で『自由に遊んでいい』と言われるが、私には、用意された空間で遊ぶことは気持ちの悪いことのように思える。大人の目のないところで楽しむ工夫してこそ、遊びなのに」

ここで私は、先日書いた「ハブ毛とリム毛の話」を思い出す。
「些細なものまでも常にきれいに保とうとする昭和の文化。心をかけたハブやリムの美しさは、気持ちがよいほどです。使い捨て文化の現代にはない昔の人たちの繊細な感性を感じます。今の時代こそ、ハブ毛&リム毛文化を堂々と主張すべきだと思います」
N村さんの言葉の中に、ハブ毛が生まれた背景に、自転車を快適にきれいに保とうと工夫する昭和のデザイン力を感じる。存在自体が汚いという自己矛盾はご愛嬌で、そこには自転車に対する愛がある。
これは、鉄矢氏の言っていた「デザインするとは」に通じるものだ。

デザインするとは――
工夫する
工夫をみつける
工夫を感心する
工夫を人に伝える
工夫を愛でる

美しくする
美しさをみつける
美しさを感心する
美しさを人に伝える
美しさを愛でる

鉄矢氏が私たちに問いかけた「消えるもの」を考えるということは、つまりは人間社会がどう変わってしまったのか、何に対してどう工夫するのかという価値基準がどう変わってしまったのか、その背景、その裏側、その先にまで想いを巡らすということなのかもしれない。

最後に、「先生は感性を磨くためにどんなことをされていますか」の質問に、鉄矢氏はこう答えられた。
「感動すること。『知ってる知ってる』で済まさないこと。状況や話す人が違えば、違った感動がある。違うものの見方ができる。次に反応すること。アクションの中から次につながり、次が生まれる」