なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

ブログの価値とエラソーなメール

2007-04-26 23:36:41 | ビジネスシーン

年上の、しかも彼の生み出す建築のラインに惚れ込んだ、ある意味尊敬する建築家にエラソーなメールを送った。

「ブログを始めて下さい。自分の価値基準を示す場として、ブログは非常に有効です。玉石混淆のブログの中で、質の高い生活者は、質の高い情報を、自分と価値観の似通った人を、確実に求めています。デジタルは苦手、だなんて言っている時代ではありません。自らの価値観を、価値基準を、生活者に向けて発信して下さい。おせっかいなようですが」

彼は建築家吉村順三の孫弟子にあたる。「吉村順三は、多くの文章を残さなかった」とどこかで読んだことがあるが、建築家が語るべきものを表現するのは建築であるべき、と思っていたのかもしれない。

しかし、「自分らしい住まい」を志向する生活者にとって、建築家が何を考え、どんな哲学を持っているのか、きっと知りたい情報なのである。ブログ、という手段があるのに、それを「ツール」として使わないのはもったいないし、ズルだと思う。
彼には語るべき哲学がある。
建築だけでなく、言葉でも表現すべきである。

「簡素でありながら美しいもの、自分達の住んでいる日本の、長年にわたる風土と文化によって培われてきたさまざまな建築から学び、日本の気持ちから出たものをつくるべきでしょう」
吉村順三の言葉であり、紡ぎ出された言葉は静かで、潔く、品がある。

メールを送ると、「メール読んだよ、その件だけどさ」と電話をかけてくるアナログ人間T橋さんであるが、T橋さん、ここまで来たら、ブログを書くしかないでしょ。

なだれ込み、ありがとう。

2007-04-25 19:27:29 | ビジネスシーン
ここ2~3ヶ月のハードワークでダウンしていた。2日間寝込み、昨日は早引きをさせてもらい、今日は久しぶりの通常出勤。「リハビリも兼ねて、今日はのんびり仕事をしよう」と思ったのだが、なかなかそうはさせてはもらえない。何といってもここは、なだれ込み研究所である。

まずはトレッキング受講生のM田さん。受講生と言っても、M田さんは歩きのプロである。「講師のS木君のこと、お願いしますね」と逆にお願いしておいた。
そしてSザンヌ。私が休んでいるあいだに、尊敬語と謙譲語の違いの話をしたらしく、彼女はしっかりマスターしていた。
次は建築の内装関係のプランナー(デザイナー? ディレクター?)のI森さん。彼は東京から菊川市に移り住み、スローライフに感心を持ち、最近なだれ込んできた人物である。ディレクターとプロデューサーの違いを質問する。

続いて名古屋からI熊さん。「川」の価値提案に関する仕掛けをS藤さんと打ち合わせ。実は、なだれ込み研究所に来る男性で「I熊さんだけがきちんとした社会人なのではないか」と私は秘かに思っていたのだが、誠実そうな見た目で判断した私が世間知らずだった……、と最近思い知った。案の定、彼はフライフィッシャーであった。
そして、お子さん二人を連れたカヤッキング受講生A山さん。受講料を支払いに来てくれたのだが、カヤックのことで盛り上がる。ちなみに私たちは、アクティ森でリバーカヤックに苦戦した同志である。

I熊さんが帰ったところで、なだれ込み研究所に興味を持ったO合さんとO鐘さんが。O合いさんはS藤さんの同級生で、先日の新入社員研修(視察)をなぜか一緒に受けた縁がある。
ずっと一緒に話を聞いていたI森さんがトイレに立ったとき、NPOスローライフの会員に引き込んでしまった。私の席の後ろを通ったのが運の尽き(運が開けた!)である。しっかり年会費をいただいた。毎度、ありがとうございます。

そんなこんなで、ダウンしていたことなどすっかり過去の話となり、いつもの調子を取り戻したのであった。
なだれ込んで下さった皆さん、ありがとうございます。


社会を横断する孤独

2007-04-24 19:48:06 | ビジネスシーン
久しぶりの白洲次郎である。
私は小説の主人公はすぐ惚れるのに、現実に生きる人には慎重だ。その私が久しぶりに心から「カッコいい!」と思った現実の人、白洲次郎。残念なのは、すでに鬼籍に入っているということである。

白洲次郎となだれ込み研究所の類似点を見つけた。キーワードは「社会を横断する孤独」。

『白洲次郎の流儀』(白洲次郎、白洲正子、青柳恵介、牧山桂子著・新潮社2004年刊)の中で、青柳恵介はこう書いている。

戦前は近衛、戦後は吉田のブレーンであったけれど政治家ではなく、東北電力の会長をやめたあと、いくつかの会社の役員を務めたが、財界人にもおさまっていない。文士や芸術家に知己が多いけれども、いわゆる文化人でもない。あえて言うなら白洲次郎は様々な社会を横断した人であった。
日本の社会は所属する組織がはっきりわかる人には心を許すが、そこを横切って行く人に対しては冷たい社会である。あなたは何者ですかという問いは、その人の性格や信条を問うてはいない。職業を聞き、所属する組織を尋ねる問いである。そういう問いには白洲次郎は「農民だ」としか答えなかった。様々な社会を横断する人は孤独たらざるを得ない。

若干性質が違うかもしれないが、白洲正子も似た人生を歩んだ人だったと思う。能に造形が深いといっても能楽評論家になったわけでもなく、古美術を愛したが、美術評論家でもなかった。紀行作家でもなければ、評伝作家でもないというふうに、何々ではないと言いはじめれば、いくらでも続けることができる。
白洲正子は職業を意識して文章を書いたことはなかったに違いない。そして自身の孤独を活力源として仕事をした人だったと思う。
次郎・正子夫妻は肩書きを持たずに生きたという点で互いに互いを認めていたのではないだろうか。


手間がかかるけど面倒くさくない

2007-04-23 19:32:06 | スローライフ

今年度のカレッジでは、ネイチャーフォトとカヤッキングのスタッフとして運営側にまわる。ダッチオーブンクッキングは純粋な受講生として参加する。受講料も支払い、大きな顔をして会場入り。(もてなしをされる側というのは、ホント、気持ちのいいものですねえ~、実感)

さて、講師の山村幸雄さんは、南アルプス聖平の山小屋の番人(?)だったこともある山男だ。その経営手腕と人柄、ものを見る目の確かさを買われて、現在、なだれ込み研究所から旧浅羽町と森町の地産地消のレストラン(の両方)に用心棒として出向している。その上、カレッジではダッチオーブンとトレッキングの講師も務めるという離れ業。
「還暦過ぎたらゆっくり柳田國男と宮本常一の全集を愉しむんだ」
と言っていた日は、当分先のようだ。

まず冒頭、
「これ以上手間のかかる調理器具はない。しかし、こんなに旨いものができる調理器具は他にない。家族に大いに自慢して欲しい」
という言葉で始まった座学は、「へそ曲がり」「変わり者」「でも筋が通っている」という山村さんの世界そのものだった。ダッチオーブンの歴史、文化、機能などのわりやすい解説もさることながら、ダッチオーブンに対する愛情が感じられる話しぶり。そして、
「すべて自己流。でもダッチオーブン歴だけは長い」
という言葉の通り、長年、愛着を持って使い込んできたものだけにわかる、コツとかクセとか、カタログに載っていない裏話とかアドバイスとかが、散りばめられていた。
近くにいたS木君に、
「山村さん、すごいねえ。ただのくどいおじさんだと思ったら、大間違いだねえ」
と言ったら、笑いながら、
「準備が完璧ですもん」
と言った。

ダッチオーブンは使えるようにするまでが大変だ。シーズニングといって、何度も焼いてはさまし、オリーブオイルを塗ってはまた焼く。その作業を繰り返す。使い込み、手入れが行き届いた山村さんのダッチオーブンは、黒光りしていて、しっくり落ち着いた風合いを持っていた。
「IT最先端の調理器具で、料理名を入れれば、それにふさわしい温度管理と火加減をしてくれる25万円の器具があるそうだ。そういう世界で行くのか、こんな手間のかかるばかな真似をするのか。人生、その選択だね」
という山村節は、「アホはアホなりに」という口癖の通り、ばかな真似をする世界をこよなく愛する、押しつけでない潔さ、さわやかさ、困った大人の微笑ましさも感じた。見ていて気持ちがいいほどだった。

次回、受講生がシーズニングをしているあいだ、スパニッシュオムレツとパンを作って下さるのだそうだ。「デミソースをかけて」という言葉など、出来上がりをイメージさせて、思わずいい匂いを想像してしまった。すっかりダッチオーブンのとりこになりそう。
土なべで炊いたごはんの美味しさと、土なべでごはんを炊くだけで生活が変わることは、すでに昨年のカレッジで実感済み。ダッチオーブンクッキングにも期待が高まる。

土なべのごはん炊きが「だって、美味しいんだもん」という理由だけでちっとも面倒くさくないように、ダッチオーブンクッキングも、手間を感じさせない味わいと魅力のある、そして生き方論にまで通じてしまう料理法なのかもしれない。

美しい風景を見た日に

2007-04-20 23:46:44 | ビジネスシーン

「4月20日だ、海棠(カイドウ)を見に行こう」
S藤さんはいつも唐突だが、この日はいつにも増して唐突であった。午後1時半、大尾山まで行こう、1時間後に出発だぞ、というのだから。
海棠はバラ科の落葉低木である。毎年この時期、桜の花に似た花を咲かせる。

なだれ込み研究所の面々とSザンヌは、一路北へ。途中NPOスローライフ理事のH川さんと合流、大尾山まで往復2時間半かかる道のりである。

大尾山の海棠は花が少し散ったあとだったにも関わらず、薄紅と赤のちょうど中間くらいのあでやかな花が咲き誇っていた。地面に落ちた花びらもまた美しい。たった一週間しか咲かなくても、はかなさは感じられなかった。

帰り道は柚葉(ゆずっぱ)の集落へ。すり鉢状の地形に、家があり道があり茶畑がある。人が今も生活する集落だ。もやのかかったような景色は、日本の原風景を思わせる。ここが本当に掛川なのか、違う時代の違う場所に来てしまったのではないかと錯覚するような、不思議な感覚にとらわれた。
「美しいですね」
「人が生活しているからだよ」
その言葉にはっとする。この風景が美しいのは、人の手が加えられた農の営みがあるからだ。たとえば茶畑は人の手が入らなくなると、とたんにぼさぼさの低木になる。集落を見渡せる場所を離れたとき、「これがほったらかしにされた茶の木だ」と教えられた木は、潤いも、葉のみずみずしさも、ラインの美しさもない、ぱさぱさにささくれだった低木だった。

手を入れない自然だけが、自然の美しさではない。
農の営みが美しい里山の風景をつくる。
人の、自然に対する作法を持った接し方が、自ずとその地域のあるべき風景をつくる。

ライフスタイルデザインカレッジの講師陣がそれぞれの言葉で語っていたことはこれなのだと、身体ごと理解した。
私は植物のことも知らないし、草花を愛でる心もさほどない。でも、この風景が美しいのはわかる。胸が苦しくなるような美しい風景だった。

帰り道、杉林の中を通る。
「ここの杉林はまだいいけど、枝打ちがされなくなって、間伐が行き渡らない杉林は多い。杉材は30年前と同じ値段なのに、人件費はどんどん上がってる。所有者が自分で枝打ちできるうちはいいけれど、高い手間賃を払ってまでやらなくなったら、森はどんどん荒れていく」
S藤さんはここ何年も、地域材を使った住まいづくりを仕掛け続け、働きかけ続けている。
「地域の材を使って家を建てる人が増えることが、遠回りなようで、実は森林を、林業を守ることになるんだけどね」

下りの道は周囲の山々が見渡せる。
もともとこの土地に生えていた木は、芽吹き始めたこの時期、黄緑色、茶色味かかった緑色と様々な色合いをしている。雑木林と言われるように。
しかし、そのあいだあいだを埋めるように、濃い緑色が幅を利かせている。杉の木である。お金になると思って植えられた木は、いまや売れず、管理費ばかりがふくれ、森の環境を悪くしている。
木々が密集した風景を見ながら、S木君がぽつりと言った。
「杉が植えられる前の日本の風景というのは、さぞかし美しかったんでしょうね」

2時間半かけてでも行く価値があると、S藤さんは言った。この美しい風景を見てみろと。
確かに、行かなければわからない、行かなければ感じられない何かがある。

この想いを言葉にするのは難しい。それでも、書いておかなくては、このもやもやとした、まだはっきり形になっていない想いの種(たね)のようなものが、本当にもやのごとくどこかに行ってしまいそうで、書かずにはいられなかった。想いは書かずとも、心の、身体のどこかに蓄積され自分をつくっているのだとしても、今のこの想いは残しておかなくてはいけないと。
だから、苦しくても書いている。

想いや感情、ニュアンスを伝える

2007-04-19 22:26:41 | ビジネスシーン
Sザンヌがなだれ込んできて早5ヶ月。私の英語力はちっとも向上しない。忙しさを言い訳に、レッスン「おしゃべりタイム」をさぼっているからだ。

さて、パソコンに向かって仕事をしているはずのS藤さんが、突然「クックック」と笑い出した。
「どうしたんですか?」
いちおー聞いてあげると、S藤さんはこう言った。
「インターネット上の翻訳ソフトを使って会話をすると、Sザンヌが首をかしげることがあるだろう。そのわけがよくわかったよ」
「はい?」
「これ、読んでみて」
翻訳ソフトで翻訳された日本語を読んでみる。まったく、意味の通じない日本語であった。

「まず、自分が伝えたいことを翻訳ソフトにかけて英語にする。そしたら、その英語をもう一度翻訳ソフトにかけて日本語にする。そうするとその日本語は、もとの文章に戻るどころか、まったく意味不明な、日本語として通じない文章になっているんだ」

S藤さんが言ったことがどういうことか、具体的に説明すると――。
私が今、Sザンヌに伝えたいことを例にあげる。

「私はあなたと話がしたい。コミュニケーションが取れるようになりたい。でも、忙しさを言い訳に、なかなかゆっくりレッスンができない。S藤さんのように、どんなに忙しくても、話そうとする努力がなかなかできない」

これを、翻訳ソフトで英語に直し、さらにその英語を日本語に翻訳すると、こういう日本語になる。

「私は、あなたと物語を持ちたいです。私は、コミュニケーションを得に来たいです。しかし、レッスンはゆっくりビジネスで弁解にとってすぐに可能ではありません。たとえ私が忙しい問題でないでも、S藤さんの様に、私が話すつもりである努力はすぐに来ません」

Sザンヌがわらないわけだ。
翻訳の仕事をしているS坂さんによれば、
「変換したい原文を短くシンプルにすること。複文は単文に。つまり、日本語に翻訳が必要という訳です。さらに、翻訳ソフトに『気遣い』は邪魔です。奴らは『わびさび』を解せません。気遣いの追加は「ごめんなさい」などがよろしいかと」

さすが「Nippon学」スタッフ。「わびさび」と来ましたか。
上記文章を翻訳ソフトにかけるなら、

・私はあなたと話したいです。
・しかし、私は忙しいです。
・そのため、レッスンする時間がありません。
・S藤さんはもっと忙しいです。
・しかし、彼は話そうと努力しています。
・私には、彼のような努力ができません。

というような文章がいいのだそうだ。

しかし。
あまりにも素っ気ない文章だ。私の想いやら感情やらニュアンスが、まったくそぎ落とされている。言葉にならない部分は、どうやって伝えればいいのだろう。
そう考えて、ふと思った。
言葉が違えば「通じない」ことが明確に解る。でも、それはもしかしたら同じ日本語を使っている相手にだって、私の想いや感情やニュアンスは、通じていない場合があるかもしれない、そういう可能性がゼロではないということなのだ。言葉が違うから表現の正否(有無?)を自覚できるが、同じ言葉を使っていても「通じない」ことはある。よくよく考えてみれば当たり前のことなのに、そういう思い込みや決めつけがある。

あらためて、伝える、ということは難しい。

煩悩の数

2007-04-18 22:07:48 | スローライフ
(財)国土計画協会から、機関誌「人と国土21」に掲載するための原稿依頼が来たのは1ヶ月以上前だったような……。締め切りは4月23日、文字数6500字。まだ1枚も書けていない。

今回の執筆は、NPOの活動を紹介するページなのだが、実はこのページ、次号執筆NPOを当月号執筆者が紹介していくシステムになっている。つまり「NPOの友達の輪」みたいな感じだ。発行元は執筆者を捜さなくていいし、知り合いの紹介だからむげに断れない。安定してシリーズが継続されていく、なかなかうまいシステムである。

その(財)国土計画協会から電話があった。原稿の催促かと思いきや、
「次号のために紹介していただいたNPOさんから、もう原稿をいただいたんです。ありがとうございました」
という連絡であった。
ひょえ~!
来週締め切りのこちらがまだで、次号の原稿が先にきたということ?
素早い!
隔月発行の機関誌だから、締め切りは6月23日頃のはずなのに。

そのNPOを紹介してくれたK松さんに、さっそくメールを入れる。すると、すぐ電話がかかってきた。
「執筆のお願いをしたまま、返事も聞いてなかったから、今、先方に確認の電話をしようと思っていたところだったんだよ」
「そうしたら、私からメールが」
「そうそう。タイミングというのは、こういうもんだよねえ」

ついでにカレッジの話もする。
「K松さん、カレッジの受講生が100名を越えました!」
「ほんと! すごいなあ」
「今、102名です」
「次の目標は108だね」
「108?」
「煩悩の数だよ」

思わず、原稿が書けないのは煩悩が108もあるせいだと悟った私……。
それにしても、カレッジ受講生100名突破、ほんとによかった。一時、受講生の数が伸び悩んでいたときは、どうしようかと思った。受講いただいた皆さん、本当にありがとうございました。
(まだ定員に至っていないプログラムもあるので、引き続き、受講生募集しております)
ということで、煩悩振り切って、原稿書きます……。

必需本

2007-04-17 21:52:03 | スローライフ

サイクルスポーツの元編集長であり、掛川ライフスタイルデザインカレッジの講師を務める宮内忍さんの編集したムック『自転車ライフを楽しむ! 大人のサイクリングビギナーズ』が出版された。

「自転車生活を始める人、始めたばかりの人に贈る入門書。サイクリング全般の基礎を初心者向けにわかりやすく解説」しているという。
自転車を買った翌日、右手でブレーキをかけ前転して、「ふえ~ん、転んじゃったよお~。前のかごが曲がっちゃった~」とYちゃりのY崎さんに泣きの電話を入れた私には、まったくもって必要な本である。

「サドルを高くしてタイヤに空気をいっぱい入れる、ケンケンせずにまたいでから発進……ちょっとしたコツを知るだけで、自転車ライフは快適になります」
いまだにケンケンして乗っている私には、耳の痛い箇所もある。

さて、このムック、たくさんのストーリーがある。著者の一人である中村博司さん(自転車博物館サイクルセンター事務局長)の、自転車生活のストーリー。自転車の歴史そのもののストーリー。そして、ここまで初心者にわかりやすく、惹きつけるネタを散りばめた編集側のストーリー。
自転車の「今」もわかる。自転車のイメージを勝手に「こうだ」と決めつけ、自転車とはそういうものだと枠にはめている、一般の、ごくごくフツーの人に、「へー、自転車ってそうなんだ~」と新たな視点をもたらしてくれる。
マニアックになりすぎない服装やバックの選び方なんかが載っているのもいい。

読み物としても、ぱらりとめくる雑誌感覚でも楽しめる『大人のサイクリングビギナーズ』。噂では、今年度のカレッジ「サイクリング」受講生には、テキストとして無料で配られるらしい。
ケンケンして乗っている人、右手でブレーキをかけちゃう人、必需本です。

ヤエスメディアムック161
『大人のサイクリングビギナーズ』
2007/3/20発売 八重洲出版発行
中村博司+藤下雅裕+澤田裕 著
1,300円(税別)

出会えない人との出会いこそ

2007-04-16 22:04:51 | ビジネスシーン
毎年この時期、S藤さんは広告代理店の新人研修で講義を行う。たとえば昨年の資料を見ると、「自分自身をマーケティングする」という項目があったりと、なかなかに興味深い。昨年4月、なだれ込み研究所に入ったばかりだったS木君は、アシスタントとして一緒に講義を聞いた。「いいないいな」と駄々をこねてみたが、私はいつも留守番で、なだれ込み研究所に入って以来、新入社員研修は受けていない。

さて、その講師を務める関係で、今年は新人の社外研修(視察)先の相談を受けた。S藤さんは、以下のようなスケジュールを組んだ。

1.公共政策研修(掛川市役所)
2.市民活動研修(NPOスローライフ掛川)
3.農場視察(観光+農業+体験学習の融合として)
4.製造業現場視察(先進かつ注目の酒造メーカー)

「なぜ、広告代理店なのに市民活動の話を聞いたり、農場に行ったり、製造業の現場に行ったりするんですか?」
S藤さんの答えは明快だった。
「だって、関係ない分野の人と出会うことなんてめったにないじゃん」

銀行をやめて2年ほど、企業研修の企画営業の仕事をしていた。新入社員研修といえば、マナー研修や仕事の基本スキル、電話応対や接客のロールプレイングが中心だった。
でも、よくよく考えてみれば、人間としての幅、視野を広げることこそ、すべてに通じるのだと今ならわかる。たとえば、広告代理店に入ればそういう業界の人と接する機会がしぜんと多くなり、銀行に入れば銀行の価値観で動く人が周囲に多くなる。その世界がすべてだと錯覚してしまう。錯覚していることすら気づかなくなってしまう。

土日が完全に休みで、週休2日が当たり前の世界が当たり前なのではない。
その業界の価値観がすべてではない。
そのことに、多くの人は気づかない。
いろいろな視点を持つためには、自分がいろいろな場所に行かなくてはいけない。

と同時に、これからの企業はNPO化していくと伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎氏が言っていたように、さらに農業や生活観光が時代の潮流になる中で、「自分たちが生きる今」を別の視点で見つめる機会を持つことは、とても重要なことなのだ。

そう考えると、私は日々、研修を受けているようなものなのだなあ。

たまの出社と質問攻め

2007-04-13 19:48:23 | ビジネスシーン
なだれ込み研究所のアートディレクターH岡さんは議員でもあるため、非常勤である。たまにH岡さんが出社すると、私はあれやこれやと質問攻めにする。仕事のこと、まちづくりのこと、H岡さんはどんなに忙しくても、私の質問に対して自分の持っている全てを話そうとしてくれる。
なので話が長い。
しかも難しい。
メモを取ってまとめられるのは、私がなんとか理解できたほんの一部である。

さて、今日の話題はライフスタイルデザインカレッジとなだれ込み研究所の行く末についてである。
なだれ込み研究所は何をやっているかわからない会社と思われているが、そもそも「○○屋さん」という領域に収まらない仕事をしているのだから、わかりにくくて当然だと。印刷でもなく、媒体でもなく、あえて言うならば哲学を、ソフトをつくっているのだとH岡さんは言った。今までにない領域だけれど、確実に社会から望まれている領域なのだとも。
そして、多種多才な人材が集まり、ここで仕事をする。
そんななだれ込み研究所だからできるNPOの連絡事務所。ある意味、自由業のような気ままさがあるからこそ機能もする。

さて、まちづくりについてであるが、これからのまちづくりは「都市型」ではなく「ローカル」で確立していくことが求められている。地域の志向を持って、地域の事情に合わせた寸法で、地域で暮らしていく術(すべ)、ここでしかできないことをどう確立していくのか、ということを考え、実現していかなくてはならない。

掛川ライフスタイルデザインカレッジに「ビレッジ構想」というものがあるが、まさしく、地域に拠点を持ち、そこに人材が集まるような仕組みを作ることが大事である。思想でも宗教でも政治闘争でもなく、新しい価値観で人が集まる仕組みづくりである。
ヨーロッパ絵画の歴史が、上流階級から一般庶民の手に渡るに至った経緯は、貧しいけれど才能のある人材が集まる場所があり、学び、描き、ときに飲んだくれながら語り合う場所があったからだ。

掛川ライフスタイルデザインカレッジの良さは、人材の蓄積だけでなく、様々な活動、実験を、確実に次につなげることができるということである。裏を返せば、情報の蓄積と次に繋げる仕組みづくりを可能にする拠点と人材がいる、ということである。
結局は、積み上げ方式でなければまちづくりなど出来ないのだから。

行政が企業を誘致し、人が入り、人口が増え、企業が儲かり、ショッピングセンターができ、たとえ市の財源が潤ったとしても、それは真の意味での活性化ではない。まちづくりのビジョンとそれに沿った仕組みづくり、それに人が絡んでこそ、まちは真の意味で活性化するのである。結局は、人材の誘致でしか、真の意味のまちづくりなどできないのである。
カレッジビレッジができ、なだれ込み研究所がその中に吸収されてしまったとしても、社会という時流の中で、指向性からいっても、正しい道なのかもしれない。

……こうしてメモを頼りにまとめると、私自身がよく理解できなかった部分が浮き彫りになる。「なるほど」と聞きながらも、よくわかっていなかった部分が「わかりにくい箇所」「つながらない箇所」として文章に表れてしまうからだ。
また、H岡さんが出社したとき、もう一度、ちゃんと聞いてみよう。

こうして、H岡さんが出社すると、次から次へと質問攻めになるのである。