なだれ込み研究所の一日

物語作家を目指すもの書きが、ふとしたことから変な事務所で働くことに!
日々なだれ込んでくる人や仕事、モノやコト観察記。

珍しくミーハーな記事

2007-04-01 07:47:39 | Weblog

元バレー部である。中学時代はレフトのエースアタッカーであった。昔のことである。

さて、事務所に期間限定でなだれ込んでいたK島さんが、県バレボール協会関係者ということで、チケットをとってもらって「V・プレミアリーグ男子静岡大会」に行ってきた。一階最後列(最後列だけ一段高くなっている)審判の近くという非常にいい席である。
Vリーグは普段全く見ないので、NECブルーロケッツも、豊田合成トレフェルサも、堺ブレザーズも、東レアローズも初めて聞く名前であった。知っている選手も全日本に選ばれたことのある数人しかいない。
それでも、試合は素晴らしく面白かった。スピード感や躍動感や会場全体が揺れる感じ。普段使わない脳が全開で、普段使っている脳は全くの役立たず、といったところ。どっと疲れたけれど、行ってよかった。

そして何より嬉しかったのが、堺ブレイザーズの監督が、なんと、中垣内祐一さんであっことた。実はファンだった。「きゃ~!」と女子高生のように叫びそうになった。
しかし選手名簿を見て愕然。なんと年下であった。

堺ブレイザーズの部長は小田勝美さん、副部長は田中幹保さん、「そうか、昔の新日鉄なのだな」と理解した。
いやあ~、身体が昔のように動けば、バレーボールをしたいなあ。

冒頭の画像であるが、あまりのスピード感に選手達がぶれている。カレッジのネイチャーフォト担当なので、ぜひとも腕を磨きたい。ちなみに画面向側、黒っぽいジャージ(?)の上下を着て立っているのが中垣内監督。手前左側、緑と白の帽子をかぶっているのは「おいしいお茶やさん」のN山さんかと思ったが、若い男の子であった。


一年の初めに

2007-01-04 02:23:40 | Weblog
明けましておめでとうございます。
今日は仕事始めです、へへへ。
「へへへ」が付いているのは酔っぱらっているからで、新年会で楽しく飲んできました。一年の冒頭がこれだとどうかとも思ったのですが、まあそれもいいかと考えました。
仕事始めの午前中、K造さんと「表現」について「俯瞰してモノを見る厳しさ」について話をしました。お昼過ぎて神社に行ってお祓いをしていただき、厳粛な気持ちになりました。その後、仕事を進め、でもあまり進まず、そうこうしているうちに、お客様のみえる時間となり、イラストレーターのS坂さんと翻訳家のS坂さんをお迎えし、飲んで、語って、また飲んで、語ってきました。
プロとは。
なりたいものになるとは。
書きたい気持ちとは。
矜持とは。
いろいろなことを、いろいろな人と話せた時間でした。
新年の始めに、貴重な時間をありがとうございました。
今、夜中でも書いているのは、ただの意地です。新年早々ですが。それでも原稿用紙一枚分。猪突猛進の一年がちょっと思いやられます。
本年もよろしくお願い致します。

アンドリューワイエス展

2006-11-18 23:05:41 | Weblog

常葉美術館に『アンドリューワイエス水彩・素描展』を見に行ってきた。
絵というものをどう見ればいいのかわからず、美術館というものが苦手だったのだが、アートディレクターのH岡さんがこう言ってくれたのがきっかけだった。
「これは好き、これはそんなに好きじゃない、っていうだけでいいんだよ。自分が絵を見て感じたことを、そのまま感じてくればいい」

先日、横山廣子さんが『隔たりしものとの出会い~文化人類学の視点から~』でおっしゃっていたことと同じだと思った。
「自分の感覚を大切にしながら、自分がどのように理解し、感情を持つのか、よく感じて欲しい。違和感や疑問を感じたら、それを敏感にすくい取って欲しい」
アンドリューワイエス展を見に行ったことは、私にとってまさに「隔たりしもの」との出会いだった。

アンドリューワイエスのことも、オルソン家の人々のこともまったく知らなかった。115点の絵を見てまわって、私がまず感じたのは、
「絵というものは、それを見ただけで、その対象となる、オルソン家の人々の人生さえそのまま胸に迫ってくるものなのだ」ということだった。
手足が不自由なクリスティーナと、その姉の世話と農作業を淡々とこなす弟アルヴァロ。日々の生活の中に小さな喜びや変化はあっただろうが、何を思い、何を支えにこの二人は生きていったのだろうと考えると、哀しさなのか、静けさなのか、それでも人は生きていけるのだという強さに対する感動なのか、うまく言葉にできない感情が押し寄せてきて、胸がいっぱいになった。
絵とは、そんな感情も呼び起こすことができるのだと。

「オルソン家の朝食」には、えんとつから出るけむりと朝食を準備するアルヴァロの後ろ姿が描かれている。何年か後には、荒涼としてしまうだろうことを予感させるオルソン家の絵の中で、この絵が唯一、ほんの少しの温かさを感じた。
と同時に、この絵を見ながら『赤毛のアン』のマシュー、マリラの兄妹の人生が頭に浮かんだ。マシューとマリラは、もちろんルーシー・モード・モンゴメリーの創作した架空の人物である。
年老いた独身の兄妹の人生の中に、突然、アン・シャーリーという、おしゃべりで、空想ばかりして、突拍子もないことばかりしでかす女の子が現れなかったら、二人の人生はどうなっていたんだろうと。

クリスティーナの部屋の前に、普段、誰も使っていない部屋がある。ある日、その部屋のドアを開けたら一人の男が立っていた。鏡に映った自分だった。ワイエスは、題名を「自画像」とはせず「幽霊」とした。
ワイエスがクリスティーナに対してどのような想いを持っていたのかわからない。でも、この建物と、この絵と、この文章だけで、まるで一つの物語を読んでいるような、そんな気がした。
「クリスティーナの墓」では、絵から静寂だけが感じられた。

「描く」ことに関するワイエスの言葉が紹介されていた。
「まず、見たままを描く。しだいに目の前の対象を心でイメージし、本当に描きたいものを捉えていく。私は本質を求めていた。そのまわりにあるすべてを織り込んで、その物体が存在するその日の雰囲気さえ絵の中に織り交ぜたいと考えている」

表現するということは、対象の本質をすくい取ることなのだ。そのとき、当然、表現者のフィルターにかけられるわけで、だからこそ、どんなフィルターを持ってるのかが大事なのだと思う。それが絵に、文に、写真に、デザインに出てしまう。恐いけれど、まったく潔い世界だと感じた。

住人がいなくなったオルソン家は、今、大切に保護され、二人の墓を見守っているという。



使命、縁尋、なだれ込み

2006-10-12 01:22:07 | Weblog
日本経済新聞の夕刊に「フリートーク」というコーナーがある。今日は、ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコが、レイキャビクに世界平和を願うモニュメントを作ることになっての発言が載っていた。
「私たち一人一人が今という時に生まれてきたのは偶然ではない。使命を果たすためだ。しかし、その使命はまだ果たされていない」

この一文を読んで、最近つらつらと考えていたことを思った。

人というものは、地球という星に生まれては死に、また生まれては死んでいく。全てを司るものがいるのだとしたら、何のために人を誕生させ、好き勝手に生きさせているのだろう。たった数十年の命をまっとうし、造っては壊し、さらに造り、それが何世代も続き、では何が残るかといえば、時代ごとにつくりかえられていく風景が残るだけのような気がする。それが、長い長い地球という命の中で、どんな意味を持つのだろう。

人は、自らの意志で何かを選択しながら生きているように思っているが、実は自分が決めて行動していることなどほとんどないのかもしれないと思うときがある。この時代、この場所、この環境、そういう自分が置かれている「今」という状況の中で、周囲に要請されたことに対して「やる」か「やらない」か、自分で決められるのはそのくらいなのかもしれないと。
そして、その延長線上に「今」があるのだとしたら、要請されること自体、今ここにいること自体、「使命」なのかもしれなくて、それは一個人の話だけでなく、地球規模の話でも同じような気がするのだ。

使命とは、本当に何だろう。
「やる」「やらない」の選択だとして、それは「なだれ込む」「なだれ込まない」と置き換えることもでき、さらには今日のK松さんのブログにある「縁尋(えんじん)の機妙(きみょう)」ということにもつながるのだとしたら。
今、要請されていることに対し、私がもし「やらない」ばかりを選択したとしたら、今ある使命も、なだれ込みの先の出会いも、縁尋(えんじん)の機妙(きみょう)も、きっとなくなってしまうのかもしれない。
「やるしかないだよ」ということのよくわかった、でも思考過程は全くつじつまが合ってない気のする、今日の辛気くさいブログでした。

祭りを文化と感じるとき

2006-10-09 22:03:04 | Weblog

生粋の掛川っ子でありながら、実は掛川大祭について何も知らなかった。それがよくわかった今年の大祭りだった。

「大祭りと小祭りの違いは?」
と聞かれたら、三大余興(瓦町のかんからまち、西町の大名行列、仁藤の大獅子)のことをまず答える。でもそれは、そもそも論の抜けた説明だった。

掛川の祭りは七つの神社が合同で行うのだが、子どもの頃は、神事よりも「おまつり!」というイベント的な認識の方が強かった。ただ、子ども心にも「祭りにはしきたりや決まり事があり、それに反することは粋ではなく、場合によっては町のプライドをかけたケンカになることもある」ということは無意識ながらも感じていた。
普段、自分の住む町を特別愛していたわけでも、隣町と違うのだと特別意識したこともなかったけれど、祭りのときだけは、自分の町の屋台や法被や手踊りが一番だと思った。
そしてそれは、大人になっても変わらず、自分の町の手踊りを見て、長唄を聞けば、胸が高鳴り、血が熱く騒ぎ出すのを感じる。
大勢のお客さんの前で、自分が小さい頃に踊った手踊りを披露したときには、誇らしい気持ちでいっぱいになり、気持ちが高ぶり、涙が出そうになった。

そんな、祭りのときだけ自町を意識し、自町を愛する私だから、当然、自町が一番、他町のことは野暮だと勝手に思い込み、他町のことはもちろん、掛川の祭全体のことなど考えようともしなかった。

それが今回初めて、掛川の祭りとはそもそも何なのか、各町内の手踊りとは何なのか、その全体像を考えようとした。
きっかけは、龍尾神社の渡御だ。
「とにかく渡御を知らなきゃ、祭りを知ったことにはならない」
K造さんがあんまりしつこく言うものだから、とにかく一度、見てみようと思った。私の町とは神社が違うため、今まで「渡御」というものが何なのか、まったく知らなかった。

渡御とは字のごとく「神が渡る」である。龍尾神社の御祭神が、現在の場所に遷られる前におられた地に、まさに渡る。氏子19町が神社の馬場先に参集し、神事、奉納を終えた後、「瓦町かんからまち」を先頭に、神輿、神職、舞姫、稚児……と続き、その後、氏子である「西町の奴道中」、そして18台の屋台が続くのである。全長1㎞にもなる行列は氏子全町を巡り、御旅所までの約4㎞の道のり進むのである。

そうか、そうだったのか、と思った。
掛川大祭と言えば、まっ先に三大余興の話になるが、それは、掛川の祭りとは何なのか、大祭りとは何か、のそもそも論が抜けた話だったのだ。

昨年、なだれ込み研究所で『掛川市市勢要覧2005』の仕事をさせて頂いたとき、掛川大祭のコピーをK造さんに確認してもらったことがあった。
「う~ん、それなりにうまくまとまってはいるけれど、これじゃあ、大祭りのそもそもが書かれていないなあ~。でもまあ書き始めると、神社ごとに説明しなきゃいけないから、そうもいかんだろうなあ」
そのときは、言葉の意味がわからなかったのだが、今回、龍尾神社の渡御を見て、はじめてわかった。実感を伴ってわかった、ということなのだと思う。

そうやって、掛川の祭りとは何なのか、手踊りや長唄とは何なのか、ということを考えはじめると、「おまつり!」としてしか意識していなかったものが、「確かにこれは文化なのだ」と感じられる。
でも、こうして俯瞰した視点で書くことは、ある意味、自町だけを愛し、自町のみにのめり込むことから距離を置くことでもある。それが野暮と言われれば野暮かもしれないし、粋でないと言われれば粋でないのかもしれない。

でもまあ、なだれ込み研究所に関わり、そういうものの見方を身につけてしまったのだから、しかたないとあきらめ、堂々と、観察者の視点を持ち続けようと思うのであった。


ありがとう、1周年!

2006-10-06 23:25:19 | Weblog

本日、めでたいことに「なだれ込み研究所の一日」が1周年を迎えました。
K松師匠のように、毎日書き続ける意地と根性はありませんが、それでもなんとか続けて来られたのは、やっぱり意地と根性と負けん気と、「がんばれよ~」「楽しみにしてるからさ~」と他人ごとだからとお気楽に応援して下さる皆さんがいてくれるからです。
本当にありがとうございました。

コメントが少なかろうと、アクセス数が少なかろうと、日々、なだれ込んでくる人やモノやコトを、多少のデフォルメと演出をまじえながら、今後もエンターテイメントに語っていきたいと思います。
どうぞよろしくお願いします。

京都へ

2006-09-20 23:40:38 | Weblog

今日はお休みをいただいて、京都へ行ってきた。
一週間の間に東へ西へ、私もアクティブになったものだ。

さて、京都行きは、なんと高校の修学旅行以来。
建築物を見たり、軒を見たり柱を見たり、風景を見たり、空気感を感じたり、街の喧噪を感じたり、路地を見たり、町並みを見たり……。撮影したデジカメの画像を見たら、道や、通りや、細い路地や、町並みの佇まいといったものをたくさん撮っていた。

京都は、掛川とは比べものにならないほどたくさんの(しかも質の高い)財産がある。なのに、途中で乗ったタクシーの運転手さんは、京都や京都市行政についてのぐちを言っていた。
「おっちゃん、ないものねだりをしてないで、あるものさがしをしなよ。あんたらのまちは、こんなにも素晴らしいじゃん!」
とは、とても言えなかったが、観光客へのおもてなしの第一歩は、自分のまちを誇ることなのだと思った。

さて、K造さんオススメの、町屋をそのまま使った喫茶店にも行ってきた。おいしいコーヒーを飲み、おいしいコーヒーのお土産も買った。自転車のガイドツアーを実施しているお店に行き、ちょっとだけ取材もしてきた。
忙しい時期にもかかわらず、お休みをいただき本当にありがとうございました。

冒頭の写真は東山の哲学の道を、哲学のことなどまったく考えずに歩いているところである。

再提出

2006-05-15 23:29:17 | Weblog
1年ほど前に書いた子ども向けの中編小説を、書き直す必要が出てきた。期限は2週間。原稿用紙にして約90枚分。冒頭これを書いたのは、「実はちょっと忙しくなっちゃって……」「仕事寄こすの、調整してくれると嬉しいな……」という、言い訳含みのめめしいメッセージでもある。

さて、「掛川ライフスタイルデザインカレッジ」の本格スタートとなった内山節氏の講演会が無事終了した。とはいえ、事後の処理やまとめ作業も片づかないうちに、次への準備と調整を同時進行で進めて行かなくてはならない。なかなか、頭の中はこんがらがった状態だ。
それに加え、先週末、S木くんと私には宿題が出ていた。
商品パッケージのデザインを考えてくる宿題である。
「ぼく、昔から火の用心のポスターとか書くの、ものすごく苦手だったんです」
「私もだよ。図工なんて、ずっと3だったもん」
山岳ガイドと文学少女のなれの果て。ビジュアルに関して素人ともいえる二人が書いてきた宿題を、S藤さんはどう見たか。

八つの案のうち、半分は「はっきり言って、デザインじゃない」と言われた。
「かろうじて、二つはデザインらしき、苦労のあとが忍ばれるけど、それだって、今までのパンフレットの範疇を越えていない」
途方に暮れる、というのはまさにこういう状態である。
「質のいいパンフレットを見たり、雑誌を見たり、K住さんはもっとビジュアルを鍛えなきゃだめだよ。活字ばかり読んでいてもだめ」
まったくもってその通りである。テレビも見ず、映画もほとんど見ず、雑誌も読まない私は、日々、新聞と本と資料のみで生きているといってもいい。読みたい本が次から次へとあるというのに、大して読みたくもない雑誌を読む時間も、その必要もないと今までは思ってきた。
でも、今は違う。……わかっちゃいるれど、ビジュアル系に弱いという意識がどうしても先に立ってしまう。
「絵から入るのがだめなら、言葉から入ればいいじゃん」
「言葉から……?」
「この商品に対して、あなたは何人もの人に会って、その場所にも行って、あなたなりにこの商品に対する思いや、関わっている人たちから学んだことがあるでしょう。そういうものを一度自分なりに咀嚼して、文章なり言葉なりコピーにして、それをビジュアルとして表現することを考えればいいんだよ。今のままじゃあ、今あるものをただ組み合わせただけでしょう」
「一度、自分の中で咀嚼する……」

これは小説を書くときも、まったく同じことがいえる。今ある原稿をそのまま書き直してもいいものは生まれない。一度、すべてを白紙に戻し、その上で自分の中に何が残っているか、何を書きたいのか、何を表現したいと思っているのか、ゼロから書き出してこそ、はじめて純度の高い、いいものが生まれる。
絵を文章に置き換えると、少し、わかるような気がした。

さて、宿題は再提出となった。
一度すべてのものを白紙に戻すのは、苦しく、恐い作業だ。咀嚼して何が出てくるか、まったく見えないから。120のものが生まれる可能性もあるけれど、ゼロかもしれない。
「何もかも初めてで、覚えること、勉強することばかりで楽しいです」
S木くんの言う「楽しい」は、「苦しい」と同意語でもある。
まさに「難行道」を行く。


遠州弁いろいろ

2005-12-24 20:39:41 | Weblog
中1の娘の国語のプリント「THE遠州弁~君はどれだけ知っているかな」があまりに面白すぎるので、ここでご紹介します。
皆さんへのクリスマスプレゼントは、「遠州弁いろいろ」で決まり!

○たんすと壁のあいさに何かあるに~。

○まったくっ、いっしょくたあにするなよ!

○いらんこん、言うじゃないよ!

○コップにいみりが入ったやあー。

○もったいないで、うっちゃるなよ。

○おーい、口におかあばりが付いてるに。

○そこん、かいいやあー。

○ほれ、かじくっちゃあ、いかんよ。

○頼むで見せてくりょお。

○そりゃあ、そうだけえがさあ……。

○げえが出た。

○このこうこう、どしょんばいやあ。

○うそばっかりこくな!

○あんた、しゃんべえだねえ。

○おーい、まだグランドじゅるいら?

○新しいじょんじょお、買ってやあ!

○しょろしょろしてんなよ。

○そんなこん、知らすけー。

○こりゃあ、もう、せずようがないやあ。

○そらみい、こぼしたで。

○ちみくっちゃあ、いかんにー。

○早くしんと、つんもっちゃう!

○ほれ、やかんがちんちんだに!

○暇こいてるなら、てんだってやあ。

○そんなこん、とんじゃかないやあ。

○あんたは、ほんとにぶしょったいねえ。

○ほれ、やくたいもなんこん、するじゃないに。


答えのプリントは、なだれ込み研究所に置いておきますので、いつでもお立ち寄り下さい。
では、遠州弁で、よいクリスマスを!
「メリー、クリスマス、だに~」