人形の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。
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「死の都」としてのハンブルク―佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』その2

2017-06-26 01:31:15 | 佐藤亜紀関連
以前記事を書いたときからずいぶん時間が経ちました。
ようやく記事を更新しようと思うのですが…、今回もちょっとまとまりがつきそうにないので、また続き書きます。

前回の記事

2.空から降ってくるもの
 ハンブルクの空襲場面、空襲による炎と、それによる煤を含む黒い雨が描かれる。水の描写に注目したとき、空襲後、おそらく炎による気圧の変動や空気の流れ

 防火性の堅い胡桃の中身を燃やすにはどうすればいい? 彼らはまず殻を叩き割る。(中略)そこに、真っ白く火を噴くアルミニウムと酸化鉄とケロシンの混じった燃える液体を浴びせ掛ける。家々の柔らかい中身は燃え上がる。(中略)燃える液体が路上に広がると、アスファルトまで融けて燃え始める。液体は燃え上がりながら壁を伝って流れる。熱せられた空気の中で全ての炎が溶け合って大きな炎に変る。火柱が空気を吸い上げて天まで立ち上がる。強風が火柱にむかって吹き始める。(244頁)

によるものだろうが、必ず雨が降ることにも注意したい。例えば最初にハンブルクが空襲を受けた場面では、空襲が始まってしばらく後雨が降り始め、夜が明けるころに上がる。

雨が降り始める。帰ろうとしたクーが階段の上まで行ってから戻って来て、ぼくに、外を見てみろよ、と言う。
 親父はもう庭側の防火扉を開けている。驟雨がパジャマに染みを付ける。真っ黒な雨だ。湖の対岸の空が一面に燃え上がっている。(227頁)


 けれども空から降ってくるのはそれだけではない。例えば人(236頁)。そして紙。はじめてジャズを演奏しているカフェに行った夜には、空からビラが降って来る。

光と光の間を何かがちらちらしていたが、やがてぼくらのところまで落ちて来た。印刷した紙だった。
 辺りは紙で一杯になった。宙も、路上も。暗い空を無数の紙がひらひらと落ちて来る。ぼくたちは落ちて来る紙に飛び付き、拾い集めた。(23頁)


ハンブルクの市民諸君、と太字で書いた下に、裏側まで細かい文字がぎっしり詰っていた。ドイツの軍隊はポーランドを攻め、イギリスはさすがに怒り、戦争になった。それで自分たちがどうなるかよく考えた方がいいぞという話だ。(同)

 イギリス軍の伝単である。エディたちがこれを拾い、家々の郵便受けに放り込んだことが、後にゲシュタポに責められることになる(30頁)。空からもたらされる紙は、やがて戦況が進み空襲が始まると、レーダーを狂わせるための銀紙となる。

音は近付いてくる。そら、銀紙が降って来る。見えはしないが、かすかな音を立てて、甲板に、湖面に落ちて来る。
 ああ、と顔だけ出したクーが手で受けて、薄い金属箔の感触で言う。「そういう仕掛けか。電波弾くもんな」(243頁)


 この銀紙はレーダーをはじき、エディたちが音楽を録音しているラジオに「雑音」をもたらす(242頁)。伝単も銀紙も、何かを攪乱させるために投下されることは共通する。そして空襲の炎も、伝単も、電波を狂わせるための銀紙も、海の彼方からもたらされるのだ。
 空から降ってきた銀紙は、空襲が終わり、雨が上がった後、「雨に流され泥まみれで道の端に溜まっている」(258頁)。

3.最後の審判の日
 「死の都」としてのハンブルクの描写に注目したとき、焼夷弾が墓地に落ちたことも見逃せない。

「ヤコビ墓地に焼夷弾落ちたの、知ってるか」
 マックスは軽く顔をしかめる。墓所があるからだ。婆さんもそこに葬られている。
「むきになって何発も落としたらしい。ぼんぼん燃えてたって。まあ墓石はもつだろうけど」(254頁)


 まるで生きている人がそこにいるかのように、飛行機は墓地に焼夷弾を落とす。死者が埋められている墓地に焼夷弾を落としたところで、死者が死ぬはずはない。埋められている死者が、最後の審判の日によみがえることができないように、燃やしてしまおうとしたのだろうか。ハンブルクを「死の都」と感じるマックスも、「最後の審判の日には」「もしかすると」「生き返る」かもしれないと、思っている。
 そういえば空襲のひどさは「天罰」に喩えられ、

町が焼け落ちる。天罰でも下ったみたいに。炎の竜巻が空まで煙を吹き上げる。火口が開いて噴火しているようにも見える。やがて真っ黒な豪雨が降り始める。(245頁)

パリが陥落したことを聞いたマックスは、「忘れられない」顔をする。

喜びとかではない。最後の審判の日には、とマックスは言ったが、甦る死者は皮を剥がれるような苦痛を味わうに違いなかった。(295頁)

 マックスがハンブルクを「死の都」だと言った場面で、そのことをレンク教授に話した後どう言われたのかと問われた時、マックスはこう答える。

「生き返る日はあるのかね、と訊かれた」
「あるの?」
「最後の審判には、もしかすると。でもぼくはあんまり信じてない。それでオルガンを弾きに行くよう勧められた。そう、希望があると信じることは大事だと思うようにはなった。少しはその助けになっている気がすることもある。日曜日とかは全然駄目だったけど。何の役にも立てないのはすごく辛い」
「今週も行くの」
「行くよ。教会が残っていてオルガンが動くなら」
「今度こそ誰もいないと思うけど」
「もともと誰もいない。死者だけだ。だから空っぽでも一緒だよ」(254頁)


「今度こそ誰もいない」、というのは、最初のひどい空襲の後、オルガンを弾きに行ったことについての会話を踏まえている。

彼自身はいつものように規則正しく家を出て、自転車でエッペンドルフの教会に向った。外が真っ暗だろうと教会から見える辺りまで炎が迫っていようとお構いなしだ。誰も来ないだろ、とぼくが言うと、そう思ってたけど、と答える。
「坐りきれなくて外まで立ってた」暗い顔をする。「焼け出された人たちが」
 礼拝はふつうに行われた。電気は止っていたが、手動に切り替えてふいごを寺男に動かさせるとなんとかオルガンは動いた。牧師は事前にマックスを呼んで、礼拝の内容を変更すると告げた。(中略)あんな礼拝は一度もなかった、とマックスは言った。泣いている人が何人もいた。他にどうしようもなくて教会に来たんだ。ぼくも泣きそうになった。どう弾いたらいいのかわからなくなって、何度も指が止りかけた。(234頁)


 それにしてもマックスはなぜ、そんなひどい状況の中でもオルガンを弾こうとするのだろう。それはオルガンが、両親を死の世界へと導いた、自動車につながるものだからではないだろうか。

マックスは日曜ごとに「ひいひいおじいちゃんの教会」でオルガンも弾き始めた。レンク教授が勧めたのだ。(中略)実際、横から見ていると楽器というより自動車の運転のようだった。アクセル、クラッチ、ブレーキ、シフトレバー。踏んだり、引っ張ったり、押し込んだり。でかい金属筒がぶおんぶおん鳴る。小さな管が風切り音を立てる。マックスが小さな演奏席に収まって馬力も音量も巨大な楽器を操り音のサーキットを飛ばすのを、ぼくは時々見に行った。彼が幾らかでも本気になるのは、ぼくらと一緒の時かレンク教授の地下室でなければ教会だけだった。(中略)地獄の門や天国への階段が、そこからは続いていると思ったのだろう。実際に続いているのは、ロッチュのゲットーと、婆さんがぶら下がっていた客間と食堂の間の仕切りだ。(130~131頁)

 「ひいひいおじいちゃんの教会」というのは、彼の祖母の母が牧師の娘であったからだが、「自動車の運転のよう」とあることに注目したい。マックスの両親は自動車事故で亡くなっており、そのために彼は祖母から自動車を運転することを許されていないからである。「実際に続いているのは、ロッチュのゲットーと、婆さんがぶら下がっていた客間と食堂の間の仕切り」とエディは感じているが、より重要なのは、オルガンの演奏が「自動車の運転のよう」であることではないか。マックスはオルガンを「運転」して、両親のいる死の世界へと足を踏み入れる。

(→その3

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実家で一時預かり中の保護犬ちゃんと保護犬仲間ちゃん、譲渡会に行って来たようです。

保護主さんのブログ=「おうちで暮らそう」「18日譲渡会のご報告とご支援のお礼






 



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