時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(73)

2006年05月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Jacques Bellange. Hurdy-Gurdy Player Attacking a Pilgrim. Etching and engraving with drypoint. 310 x 210(sheet trimmed inside platemark). Etched inscription: Bellange feci(trimmed). Watermark 1

ラ・トゥールに影響を与えた画家たち
ジャック・ベランジェ(3)

  ベランジェの人生は推定で40年という短いものであったが、当時の画家として彼の生活は、大変恵まれていたといってよいだろう。徒弟としての修業時代の後、まもなく宮廷画家としての生活が約束され、ロレーヌではかなり著名な画家であった。ベランジェは宮廷画家としての契約を1602年10月に行っていることが明らかになっている。

恵まれた生活
  ロレーヌ公シャルル3世が世を去る2ヶ月前であったが、1608年にはフランスへ画業の修業のためとして135フランが給付されている。当時としても決して大きな額ではないが、短い期間パリなどで流行を見聞するには十分だったのだろう。そして、アンリII世の治世になっても、宮廷画家としての地位は維持された。

  ベランジェは1612年ナンシーの富裕な薬剤師ピエールの娘Claude Bergeronと結婚した。この時の持参金は少なくも6000フランはあり、さらに両親没後はその財産を相続できることになっていた。当時としては、膨大な資産であった。ベランジェは画家として裕福な後ろ盾をもって後顧の憂いなく画業に励むことができたと思われる。あのラ・トゥールが貴族の娘ル・ネールと結婚したのと似たところが感じられる。

  ベランジェは結婚後ほどない1616年に原因は不明だが、この世を去っている。しかし、生前について残されている文書記録から推察されているところでは、ナンシーにおいてかなり著名な人物であったようだ。ラ・トゥールと同じように、洗礼の代父や結婚の証人などにもなっていた。3人の息子が生まれたが、長男の洗礼については公爵アンリII世自ら代父となり、名前もアンリと命名されている。画業を継いだ息子もいたが、父親を抜く存在にはなれなかったようだ。

宮廷画家の活動と制約
   こうした宮廷画家たちが実際にいかなる仕事をしていたかも、かなりの程度判明しており、大変面白い。彼らは今日われわれが知る画家の生活とは違い、自分の創作意欲で自由に仕事ができる訳ではなく、主として宮廷側の要望に従い、宮殿内の装飾、壁画などを描いていた。さらに、公爵や宮廷人の肖像画を描くことも大きな仕事であり、時には外国への贈答品とされた。ロレーヌ宮廷の栄光や威信を誇示するためであった。さらに、公爵領地の地図などの作成も行っていた。

  この時代、ロレーヌ宮廷は多数の仮面劇やカーニヴァルをおこなっているが、宮廷画家たちはそのためのデザイン、衣装や仮面、舞台装置などの設計をしたり、下図を描き、それに基づいて緞帳、衣装、旗、幟、垂れ幕などが職人たちによって制作された。 この時代は、新奇さ、スペクタクルな表現の追求などを求める装飾的なテーマは衰退しており、劇場、祝祭・パレード、仮面劇などが主題として前面へ出ていたようだ。 以前に、紹介したドリュエの花火の光景にもその一端がうかがわる。

  ベランジェの銅版画は、マニエリスムの最後の時代を代表するといわれるが、一度見ると忘れられない独特な様式、誇張された衣装や人物などの線が大変印象的である。現代人の目からすると、異様な感じを受ける作品もあるが、この時代が求めたものであり、大変人気があったと思われる。

  当時、銅版画は絵画と違って、広い範囲に作品を頒布しうる手段として大変人気があった。ナンシーは銅版画の黄金時代を迎えていた。画家として出発したベランジェも、広範に作品の頒布ができる銅版画の流れに乗ることを考えたのだろう。

  この時代は、エッチング(銅板腐食画)の技法が普及していたので、比較的短い期間で修得できたと思われる。ベランジェは油彩画家として出発しているので、それが可能だったのだろう。エッチングの前の版画は、エングレーヴィングと呼ばれ、ビュランと呼ばれる道具で一方向にのみ彫ってゆく技法であり、大変な熟練を要した。これに対してエッチングの場合は、銅板などの素材の上を覆う膜をニードルで彫ってゆくため、自由、奔放、繊細な線も描くことができる。

特異な作風
  ベランジェのエッチングだが、署名のあるものは多くない。今日ではほぼ48枚がこの画家の手になるものとして確認されている。ベランジェのスタイルはエッチングの歴史では、デザインも特異であるため議論の余地はあまりない。 マニエリスムの後期を代表するものとされ、16世紀初期のスタイルを継承している。当時の宮廷人や貴族階層などの好みに合わせて、細長く引き伸ばされたり、膨らんだ衣装や特徴ある髪型の人物などが、狭い空間にかなり複雑な構成で描かれている。現代人の感覚からすると、やや異様に感じられる描写の作品もある。

  宮廷画家たちは、当時の風説で伝わってくる他の画家たちの作品などを見に旅する機会もあり、必ずしも移動の自由を束縛された存在ではなかった。それでも、作品の主題や嗜好については、さまざまな制約を受けたことは想像に難くない。宮廷画家として名声と生活の安定を求めるか、芸術家としての自由な精神世界と活動の場を選ぶかは、当時の画家たちにとっても大きな選択の岐路だったのだろう。

ラ・トゥールへの影響
  カトリックの拠点であったナンシーで活動したベランジェには当然ながら宮廷人や聖人などを描いた宗教的な主題の作品が多い。他方、巡礼、放浪者、旅音楽師、乞食、花売りなど、世俗の世界の人々を描いたものもある。なかには放浪、貧困の果てであろうか、乞食のようないかにも卑俗な印象を与える作品も含まれている。しかし、これらも当時のナンシーなどでも普通に見られた日常や風俗を描いたものと思われる。

  ラ・トゥールの「ヴィエルひき」、「辻音楽士の喧嘩」などの発想源ともいわれ、カタログなどでしばしば例示されている。ここに紹介するベランジェの銅版画は、「音楽士と巡礼の喧嘩」ともいわれてきたが、形相もすさまじく争う二人がそれぞれヴィエルとリコーダーを持っていることから、このごろは「辻音楽士の喧嘩」といわれているようだ。しかし、作品の名称を詮索することはあまり重要なことではない。

  注目すべき点は、こうした身なりや服装の人たちは、いたるところに見られ、町や村を放浪して歩く音楽師たちや争いも見慣れた光景であったことにある。ベランジェや他の画家たちの作品では、きわめてリアリスティックに描かれている。しかし、ラ・トゥールの非凡な点は、こうした現実を十分踏まえた上で、ひとつの新しい作品ジャンルを創造していることにある。同じ主題を扱っても、天才ラ・トゥールの手にかかると、まったく違った雰囲気を持った情景に変容する。そのために、画家はいかなる作品や情景を念頭に置いた上で、自らの作品テーマを構想し、制作に当たったのだろうか。興味は尽きない。
 

References
本ブログ内関連記事(「辻音楽士の喧嘩」)
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/bed89ee77ffe451bc50c946c3274cdb4

Antony Griffiths and Craig Hartley. Printmaker of Lorraine. London: British Museum Press, 1997.

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