時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(49)

2005年11月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  ジョルジュ・ラ・トゥールの晩年の生活は、動乱の時代にもかかわらず、かなり恵まれたものであったことは、これまで紹介した一連の出来事からも推察される。 ここでは、ジョルジュの子供でただ一人画家として父親の職業を継承したエティエンヌの結婚について、少し記してみたい。この結婚には、当時の父親ジョルジュの立場、社会的ステイタスや地縁の関係などがさまざまに反映されており、興味深い点がある。

エティエンヌの結婚  
  1647年2月23日、ラ・トゥールの息子エティエンヌは商人の娘アンヌ・カトリーヌ・フリオAnne-Catharine Friot と結婚している。エティンヌが26歳の時である。新婦はヴィックの富裕な商人ジャン・フリオ Jean Friot の娘であった。フリオ家は戦乱で荒廃が進んだにもかかわらず、この地方では大変豊かな家として知られていた。父親ジョルジュは結婚を機にヴィックを離れ、妻の実家のあるリュネヴィルへ移っていたが、ヴィクとの関係は途絶えていなかった(Tuillier 184-185)。ジョルジュとしては息子の配偶者を選ぶについて、戦乱で荒廃したリュネヴィルよりは、自分の出身地であるヴィックに愛着を持ち、つながりを保っていたのかもしれない。

  ジョルジュの場合は、パン屋の息子と貴族の娘との結婚であったが、エティエンヌの場合は画家と富豪の商人の娘との結婚であった。2月23日の結婚契約書に記されたところでは、新婦の側の出席者にはヴィックの市長、著名な画家のジャン・ドゴス Jean Dogoz(新婦のいとこ)、そして多数の富裕な商人たちが含まれていた。他方、新郎側の出席者としては、メス司教区の区長・司法官を始め、多数の著名な貴族が参列した。ジャン・ドゴスは、記録にはないがジョルジュが徒弟として修業した可能性、リュネヴィルへ移った(画家が少なかった)背景などとの関連でも名前が出る画家でもある。

  ジョルジュの結婚の時の参加者を裏返したような印象がないでもない。そして、祝宴は当時の状況としては、かなり盛大であったようである。

祝宴費用は父親が負担
  この結婚に際して、新婦は新郎からの慣習 dowry として2,000フラン、400フラン相当の家具などを贈られている。この他に、新婦は嫁入り道具、亡くなっていた母親から相続した土地などを所有していた。

  ラ・トゥールは新夫妻の結婚式の祝宴の費用を負担したり、当時の習わしであったらしいが、向こう2年間若夫婦を扶養すること、将来の息子の嫁に対して「100エキュ相当の宝飾品」を贈ることなどを約束している。この厳しい時代環境で、エティエンヌ夫妻はきわめて恵まれた条件で新家庭のスタートを切ったと思われる。

  エティエンヌは結婚後しばらくは、父親の住居の一隅あるいは別屋に住み工房に通い、その仕事を助けていたと思われる。しかし、どこまで彼が父親の制作過程に関与したかは分かっていない。エティエンヌの署名のある作品も未だ発見されていない。また、工房にいた徒弟の役割について推定する手がかりもない。エティエンヌ夫妻は2年後の1649年にリュネヴィルのサン・ジャック教会に近い所に6年間の契約で家屋を借りている。父親ジョルジュの工房・邸宅に近い場所である。

  エティエンヌの結婚契約書の中で、ラ・トゥールは「国王の画家にして年金受領者」と記されている。しかし、画家が若いルイ14世から年金を受けていたことを証明する資料はまったく発見されていない。

禍福はあざなえる縄の如し  
  若い息子夫婦の新世帯を扶養しうるほど、豊かになったラ・トゥールには万事順風が吹いているようにみえた。しかし、人生は一寸先は闇であった。息子の結婚という慶事を祝ったラ・トゥールであったが、その翌年1648年8月24日には、「天然痘」によって、末娘でまだ12歳であったマリーの命が奪われるという悲劇に出会っている。記録で知りうるかぎり、エティエンヌ、クロード、クリスティーヌ以外のラ・トゥール夫妻の子供は、この時までに、みな死去していたとみられる。

  これまでのラ・トゥールについて発見された記録から、天賦の才に恵まれた画家がいかに世俗の世界を巧みに生き抜き、社会的栄達をとげたこと、そして息子を貴族の階級にまで引き上げてきた過程を跡付けることができた。当時のロレーヌの社会的流動性は、歴史の教科書に描かれたような階層ピラミッド型の固定的なものではかならずしもなく、かなり流動性があったらしいことは、これまで見てきたいくつかの例からもうかがえる。度重なる戦乱、悪疫などが社会的基盤を根底から揺るがしたことも、関係があるのだろうか。


Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

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