スタニスラス広場 Photo Y.Kuwahara
アルザス・ロレーヌという地域は、立ち入ってみると不思議な魅力を持っている。今日ではフランスの領土になっているが、過去の歴史においては文字通り激動の渦中に置かれ、神聖ローマ帝国、フランス、ドイツなど大国の狭間で、しばしば領土争奪の対象となり、激戦の最前線となって、美しい町や村々が略奪、破壊の場と化すといった悲劇も繰り返し経験してきた。
ラトゥールの研究者テュイリエが記しているように、ロレーヌの風土とそこに住む人々の心情を理解しないかぎり、この画家の作品を理解できないというのはその通りだと思う。ラトゥールの17世紀、このロレーヌ公国(1555-1766)に住んだ人たちは、フランス語を話しながらも、フランスではない「国」への意識を大変強く持っていた。ロレーヌ人として生きるという意識は、ロレーヌ公への忠誠心よりはるかに強かったといわれる。
ロレーヌ人の複雑な精神状況は、この地の風土に固有な特徴と陰影を加えた。ロレーヌの中心的な都市であるメッスとナンシーを比較しても、距離にしてはさほど離れていないのに、大きな違いが見て取れる。
ロレーヌに生まれ、生涯のほとんどをこの地で過ごしたラトゥールの作品は、フランス絵画とは異なった風土の中から生まれた。とりわけ、この画家の晩年は30年戦争(1618-48年)の時期と重なる。戦争はハプスブルグ・ブルボン両家の国際的敵対とドイツ新旧両教徒諸侯間の反目を背景にして、皇帝の旧教化政策を起因としてボヘミアに勃発した。新教国デンマーク、スウエーデン、後には旧教国フランスも参戦し、ウエストファリア条約の締結で終了するまで続いた。当時の戦争は、今日とは違い軍需品・物量支援などの国力の問題もあって、開戦後絶え間なく戦火が交叉するという状況では必ずしもなかったが、戦場となった地域の荒廃と不安は住民にとって計り知れない大きなものであった。
この当時、すでに画家として名声を確立していたラトゥールは、さまざまな情報にも通じ、1637-38年など記録がない時期には、ナンシーなどへ家族と避難していたのではないかと思われる。特に、フランス軍がリュネヴィルを攻撃し、火を放って略奪のかぎりを尽くした1938年などには、この地を離れ難を逃れていたことは間違いない。リュネヴィルとナンシーの間は、当時の道路事情などを考慮しても、騎馬などの助けを借りれば1日で避難できたのではないかと思われる。逃れる場所のない農民と違って、ラトゥールのような上流階層の人間にとっては、ナンシーにもさまざまな避難をする上での伝手があっただろう。
ナンシーは、ロレーヌ公国の首都として、16世紀後半から新たな宮殿も造られ、新市内も整備された。宗教的にも重要な役割を担い、教会、修道院なども多数建設された。30年戦争は、その発展を著しく妨げ、荒廃も進めたが、平和が戻った後にはレオポルド公の下で復興、充実が進んだ。現在世界遺産として残るスタニスラス広場の華麗な建造物などは、18世紀に入り、スタニスラス王の統治下によるものが多い。
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