時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

余はいかなる王なりしか:リチャード3世の真実

2013年02月24日 | 午後のティールーム

 



復元されたリチャードIIIの顔
(c)The Richard III Society


  リチャードIII世の遺体が発見され、さらにDNA鑑定で、遺骨が本物であることが確認されたニュースは、イギリスを中心としてヨーロッパでは大きな注目を集めた。しかし、日本ではニュースメディアにもほとんど取り上げられていない。掲載されていても、短い記事にすぎない。管理人の目に触れたかぎりで、少し大きな記事といえば去る2月23日の『日本経済新聞』がWorld Watchなるタイトルで取り上げていた。しかし、主たる目的は英語学習者用の記事だ。記事のタイトルは、Richard III's face reconstructed 「リチャードIII世の顔は・・・」となっている。

 前回記事としてとりあげたのだが、管理人から見ると、この記事に関心を抱いて呼んだ読者がどのくらいただろうかという疑問を持つ。周辺の人々に聞いてみても、リチャードIII世について知る人は少ない。この王のことを世界に知らしめた、シェークスピアの作品を読んだことのある人々自体がきわめて少ないのだ

 しかし、イギリス人にとっては知らない人はない著名な王である。国民的作家、詩人、劇作家であるウイリアム・シェークスピアの代表作の一つでもある以上、そのイメージは生活の中に深くしみ込んでいる。日本人にとって、シェークスピアの作品を知らなくても、日々の生活にはなんの関係もないと思われる人も多いだろう。管理人もそのことは否定しない。しかし、イギリスにしばらく暮らし、多少なりとアカデミックな世界の一端を経験してみると、シェークスピアはさまざまな形で彼らの思考や人生観を形作るに深く関わっていることに気づく。日常の会話で使われる短いフレーズが、シェークスピアに由来していることを知らされることはしばしばある。

 現代の日常の生活には、関係がないから知らなくても支障がないと思われる人も居られよう。しかし、グローバル化し、小さくなった世界に生きる現代人、とりわけ若い人たちにとって、思わぬことが人生に深みをもたらしたり、新たな世界が見えてくるきっかけになることを記しておきたい。管理人の人生でも、こうしたことを知っているか否かが、思わぬ交友や理解を広げることが度々あった。


 リチャードIII世は、1452年に生まれ、1485年に非業の死をとげた王である。ヨーク朝最後のイングランド王だが、在位は2年余りであった。シェークスピアがこの史劇を執筆、初演したのは1592年と伝えられているから、王の死後ほとんど1世紀余りが経過している。その間に、リチャードIII世については多くのことが語られ、伝承されてきたに違いない。毀誉褒貶ただならぬ王であった。シェークスピアは王位を手にするためには、兄弟、息子を含めて多くの身内の人間を殺害した、極悪非道の人物として描いている。

 しかし、この王はそれほど悪辣、極道、権力のためには手段を選ばない王だったのだろうか。シェークスピア劇を演じる俳優にとっては、ハムレットと並んで一度は演じたい究極の役といわれてきた。リチャードは残忍、冷酷、醜悪不遜、マキャヴェリズムの権化のような人物とされており、それが俳優を志す人々にとっては自らの演技の世界を広げる魅力なのだろう。

 薔薇戦争といわれる30年近い戦争を勝ち抜き王位についたヨーク家のエドワードIV世。そしてその弟である、グロスター公リチャードは虎視眈々と王位を狙い、次々と優位な競争者たちを殺害、破滅させ、ついにリチャードIII世として王座を手中にする。

 しかし、造反した貴族たちがヘンリーV世の孫リッチモンド伯ヘンリー・チューダーの下に結集し、反旗を翻す。そして、リッチモンドとリチャードの軍隊は、ボズワースの平原で激しく戦い、リチャードは壮絶な死をとげる。

 しかし、このストーリーの真実性に疑問を抱く人たちもいた。とりわけ、グロスター家の関係者にとっては、心中収まらないことも多かったのだろう。

 1924年アマチュアの歴史家でリヴァプールで外科医を開業していたSaxon Burton と友人たちが、The Richard III Societyなる小さな協会を設立する。彼らは皆アマチュアの歴史家であった。彼らは世の中で当然とされてきたこの王の生涯に疑問を抱き、もうすこし公平な観点から、この悪名高い王を見直してみたいと調査や研究を続けていた。

  リチャードIII世について考え直す転機はいくつか訪れた。なかでも1950年代には、王の生涯にかかわるジョセフィーヌ・テイ Josephine Tey なる女流作家による『時の娘』 The Daughter of Timeと題する探偵・犯罪小説が話題を呼んだ。さらに、名優ローレンス・オリヴィエ主演の映画化、P.M.Kendallによる王への同情的な伝記も刊行された。メーキャップされたオリヴィエの容貌は、ハムレットと異なり、かなり強面(こわもて)の人物に見える。



 注目すべきは、このThe Richard III Societyの働きだ。王の最後の戦場となった ボズワース Bosworthの戦場に近いLeicestershireのレスター大学の研究ティームなどと協同して20年近くにわたり、最後の戦闘の跡などを追跡調査してきた。実際の戦いについての伝承はかなりはっきりしており、1485年8月7日、Bosworthの戦いで、王は身内の裏切りのため、フランスから上陸したヘンリー・テューダーの軍に敗れ、戦死した。かくして、前回記したように、リチャード・パンタジネットは、戦場で死んだイングランド最後の王として記憶されることになった。

 そして、これも前回記したが、ついに昨年、8月、記録された埋葬場所と一致するレスター市中心部の駐車場の地下から遺骨が発見された。

 その後の興味深い展開として、頭蓋骨の骨格から生前の王の容貌を復元する試みが行われた。その結果は予想を裏切り?、かなり温容な容貌に見える。これまで悪名高かった王への同情、温情が働いているとの指摘もある。”Good Richard”と呼ぶべきだとの提唱も見られるほどだ。歴史の真実とはいかなるものか。この一人の王に対する時代の毀誉褒貶の変化は、決して過去の500年ほど前の人物の問題に限ったことではない。一般に、本人が生きていた時代の評価は、後年かなり大きく変化することは、政治家たちの例に見るまでもない。数世紀後にも、この地球が存在するとしたら、現代人への評価はいかなるものになっているだろうか。 


 


このたびのRichard IIIに関する新たな評価についての論評は数多いが、The Richard III SocietyのHPが、きわめて詳細に経緯を記している。ちなみにこの王のために、立派な棺と安住の地も確保されたことも分かる。関心をお持ちの皆さんには、必読の記録サイトとして一見をお勧めしたい。 

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