時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(56)

2006年01月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


http://www.abcgallery.com/L/latour/latour3.html 

 
宗教改革の奔流に棹さす画家(1)
  現存する40点ほどのラ・トゥールの作品には、よく見ると宗教的テーマに基づいて描かれたものが大変多い。しかし、ラ・トゥールの「宗教的」作品を初めて見た人は、すぐにはそれが使徒・聖人を描いたものとは思わないだろう。農民や漁師など普通の人々がモデルであり、それも日々の労働の間に刻まれた顔の皺、日焼け、使い古した衣類などが克明に描きこまれている。なかには、なんとも恐ろしげな顔立ちの人物も描かれている。しかし、しばらく見ていると、どうも普通の人ではないという画家の気迫のようなものが伝わってくるから不思議である。

  ラ・トゥールはなぜ、こうした試みを行ったのだろうか。どうして、もっと他の画家のように「宗教画」らしい?描き方をしなかったのだろうか。この点を理解するためには、ラ・トゥールが過ごした時代環境と宗教世界の関係に立ち入ることが欠かせない。しばらく、その流れを追ってみたい。

精神世界の大変動
  すでに繰り返し書いたように、ラ・トゥールがその生涯の大部分を過ごした16世紀末から17世紀にかけてのロレーヌ地方は、政治やその影響下にある社会も激動の渦中に置かれていた。そればかりでなく、人々の精神的次元にかかわる宗教の世界も大きな混迷の中にあった。精神世界も激動にさらされていた。「宗教改革」Reformationがもたらした大激変である。

  改めて述べるまでもないが、発端は1517年、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが教皇制度の不合理に対して改革を企て、ローマ・カトリック教会から分離・独立してプロテスタント教会を立ち上げた宗教運動である。ルターの実際の行動がいかなるものであったかについては、歴史家の間に論争があるようだが、教皇の贖宥状(俗に免罪符)販売を攻撃し、人は功績や免罪符などの現世的行為によらず「信仰のみ」によって救われると主張し、聖書を唯一正しい基礎とする立場から教皇権を否認したこのプロテストは、その後全ヨーロッパを覆った対立的宗教運動の導火線となった。 体制側のローマ・カトリック教会としては文字通り足下を揺るがされる大衝撃であった。その後、プロテスタント宗教改革と体制側カトリックの対抗宗教改革counter reformation(カトリック宗教改革ともいう)のさまざまな動きが展開する。

ラ・トゥールに影響したロレーヌの事情
  16世紀から17世紀前半は宗教的危機の時代であったといってもよい。ラ・トゥールが生きた時代である。宗教改革と宗派対立がその背景にあった。ルター、カルヴァンなどに始まるプロテスタントの運動、フランスの宗教戦争、トレント会議 the Council of Trent、カトリック教会の側からの対抗宗教改革(カトリック宗教改革)など、すべてが1500年代に発生した。改革者たちはローマの教会を攻撃し、体制側が反宗教改革という形で擁護しようとするものを禁止した。

  カトリック教会も、プロテスタントに対抗して、1545-63年、自己革新と教理確立のための公会議を3度開催した。トレント(ドイツ語ではトリエント)会議の名で知られるものである。 ラ・トゥールは、ひとりの画家としてその奔流の中に立っていた。画家は激動する聖俗の世界を体験しつつ、自らの生き方を探し求めていた。ラ・トゥールを理解するためには、まずプロテスタントがなにを攻撃したのかを理解する必要がある。

芸術の世界に及んだプロテスタントの攻撃
  プロテスタントの攻撃はカトリック教会のあり方ばかりでなく、教会に関連する芸術の世界にも及んでいた。建築、彫刻、絵画などは布教のための最も有効な手段であった。プロテスタントが批判の対象としたものは、それまでカトリック教会の主導によって形成されてきた宗教的美術の禁止であり、そのイメージの破壊であった。改革者たちは、宗教的美術は神の崇拝というよりイメージの崇拝であると批判した。続いて、神の恩寵を受けるための儀式としてのサクラメント(秘蹟)や煉獄の考えに反対した。

  救いは行いによらず信仰のみによると説いたプロテスタントとカトリックでは、「良き行い」の重要性も異なっていた。カルヴァンやルターにとっては「良き行いという言葉はなんの意味もない。というのは人間の性格からはなんの良きことも由来していなからだ。人間は恩寵を受けることがないほど罪深い」と説き、信仰だけが救いにつながるとした。プロテスタントは、教会はキリストとの関係を取り違えているとして、カトリック教会によって創られた聖母マリアへの尊敬のレベルにも異議を唱えた。

  プロテスタントが提起した一連の問題は、カトリック世界を揺るがし、対応を迫った。トレント会議を始めとする動きが次々と展開した。宗教世界における大激動は、さまざまな経路を通して画家ラ・トゥールにも伝わってきた。宗教改革思想がどのような形や経路をたどってロレーヌ地方、そしてラ・トゥールに達したかは大変興味を惹くところだが、後世から見ると、この
画家は宗教世界に突如として生まれ渦巻く大きな奔流に棹さしていた。


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Courtesy of Olga's Gallery

コメント (2)
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