時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(54)

2006年01月07日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

「聖ピリポ」(「アルビの使徒シリーズ」の一枚)Chrysler Museum of Art, Norfolk, Va.所蔵*
Credit
http://www.abcgallery.com/L/latour/latour4.html

「アルビの使徒シリーズ」をめぐって(3)

  ラ・トゥールは、自ら描いた新たな聖人のイメージが時代にいかに受け取られるか、画家として大きな試練の場に立っていた。使徒を普通の人に近づけるといっても、ただの世俗の人でもなく、従来のように神格化された聖人でもないというきわめて困難な課題に立ち向かっていた。ロレーヌではすでに知られた画家となってはいたが、このシリーズに取り組んだ頃は、画家としては若い時期であったとみられる。画家は、全体の構想、そして構図や技法にもさまざまな工夫をこらしている。  

画家の構想したもの
  今日判明しているかぎりでは、まず、最初に作品の体系が統一されてイメージされたと思われる。後年継ぎ足しなどの加工が施された作品もあるが、ほぼ67x53cm程度の大きさである。構図の上では、使徒は前向きか斜め横向きかの違いはあってもすべて上半身像として描かれている。さらに、描かれた人物と作品を見る人とが直視の関係にならないよう、目を伏せるなどの配慮が加えられている。使徒はそれぞれが自らの世界に沈潜しているように描かれている。

  これらのラ・トゥールの初期の作品は、使徒も一人ずつ描かれている。そして、いずれの作品にも具象的な背景はなにもない。写実的であるかにみえて、実はそうではない。画家が目指したのは、聖俗相半ばする次元である。画面の半分には光が、半分は陰影の中に描かれている。すべて昼の次元ではあるが、光源は画面の中にはない。昼の光の中に描かれた使徒や聖人の画像は、ラ・トゥールの他の作品にはない。この使徒シリーズに限られている。

世俗の姿をした使徒たち
  ラ・トゥールの使徒たちは、すべてふつうの人々の装いで描かれている。福音書が示し、トリエント会議が設定した方向である。当時の人々は皆、こうした服装をしていたのだろう。わずかに俗界の人々とを隔てるようにさりげなく取り込まれているのは、使徒であることを気づかせるアトリビュートにすぎない。使徒の出自など背景について知らない人が見れば、だれもこれが使徒の姿とは気づかない。しかし、世俗の人にはない不思議な力が感じられるのではないか。

  ラ・トゥールの目指した写実とは、ルネッサンスのそれと大きく異なっている。ルネッサンスのスタイルは、作品を見る人が宗教画とはこういうものだという期待の路線の上に描かれている。言い換えると、作品を見る人が考える理想をさらに追求したものといえる。他方、ラ・トゥールはこうした理想化したイメージを追っていない。 この画家は世俗の世界に生きる普通の人々にモデルを見いだし、使徒が貧しい出自であることを示唆している。

  同時代のカラバッジョは既成の観念を破壊したが、ラ・トゥールも彼なりの発想で新たな次元を切り開いている。あたかも同時代のシェクスピアやセルヴァンテスが文学を変えたように、絵画の世界で行われた革新であった。 カラバッジョが反宗教改革にもたらしたものは、日常の状況を高貴な形で表すことであった。しかし、教会は彼の時代においてはこうした考えに基づく絵画化は拒否した。たとえば、カラバッジョの聖人の描き方は衝撃的であったから、バロックの大家は、ローマのSan Luigi dei Francesi のThe calling of saint Matthew (「聖マタイの招命」)を書き直さねばならなかった。

  ラ・トゥールの作品は時代に反逆的ではない。それにもかかわらず、それまでの使徒像とは大きく異なる。たとえば、ある使徒は農夫のように描かれている。顔は日焼けし、長年の労苦がもたらしたしわが目立つ。髪も長らく働き続けていることを示している。見る人はそこに親しみを感じよう。

うつむいた聖ピリポ
  たとえば、ここに紹介する聖ピリポ Saint Philippe は、紫緑の外衣の下に、この画家がお得意の微妙な赤い色のシャツを着て、立派なひげをたくわえ、うつむいた姿で描かれている。キリストから信頼されてはいたが、きわめて内向的でシャイな性格であったという言い伝えを反映するかのごとくである。シャツのボタンの色合いなどを見れば明らかだが、非常に細部まで丁寧に描かれている。画家がこのシリーズに注いだ努力のほどがしのばれる。

  見る者からは距離を置き、なにかに沈潜している使徒のイメージである。何か分からないが、内なる力を感じさせる威厳と内省の面持ちが伝わってくる。人物は自らの情緒をコントロールしている。具体物がなにもない、空虚な背景は見る人の視線を集中させ、情景にひきしまった感じを与える。題材は日常どこにでもいそうな人物を描きながらも、なにか異なった不思議なものを伝達している。

  ラ・トゥールは、日常の光景と宗教的光景を巧みに融合しているといえようか。昼の光の下では聖人のアトリビュートが明瞭に判別できる。しかし、これがなければ、当時のロレーヌなどでよく見かけたかもしれない普通の人の絵にすぎない。 この天才画家がことさら、あいまいとさせたものは、反宗教改革の要請に応えたものでもあった。身近にいる人だから、救いを求めやすいのだという思いがこもっている。ここにも、画家の深い思索の一端がうかがえる。



*この作品は1941年にジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作と判定された。現在はアメリカ、ヴァージニア州ノフォークのクライスラー美術館に所蔵されている。ノフォークはかつて90年代に旅の途中で訪れたことがあったが、この美術館が所蔵しているとの情報を知らず、残念にも見落としてしまった。


Reference
C2RMF-Centre de Recherche et de Testauration des Musées de France. (2005). Les Apôtres de George de La Tour: RÉALITÉS ET VIRTUALITÉS. Codex International S.A.R.I. (日本語版 神戸、クインランド、2005).

国立西洋美術館『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』読売新聞社、2005年

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