大倉草紙

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【滋賀】 露国皇太子遭難之地

2008年09月18日 18時06分16秒 | 旅 - 滋賀県
6月22日(日)
当日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】【安土城跡と見寺】【園城寺(三井寺)】【近江大津宮錦織遺跡】【露国皇太子遭難之地】


   
            露国皇太子遭難之地の石碑

大津市京町2丁目の小さな辻、徳永洋品店の角に、この跡碑は建っている。
「此附近露国皇太子遭難之地」とある。
なかなか見つけられず、県庁あたりから京町にかけて、行ったり来たりを繰り返した。
通りすがりの地元の方に、一度だけ尋ねてみたが、大津市の博物館で負傷したロシアの皇太子の血がついたハンカチを展示していたのは知っているが、石碑の場所は知らないという。
やっとのことで、見つけた。


   
      露国皇太子遭難地の碑について説明したプレート

石碑の左側のプレートには、次のように書かれている。
「明治24年(1891)帝政ロシアのニコライ皇太子に津田三蔵(さんぞう)巡査がサーベルで切りつけた「大津事件」の発端となった場所。当時ロシアは強大国で、日本は近代国家として発足したばかりで弱小国のため、国民を不安のどん底におとしいれた。大国ロシアを恐れた松方内閣は皇室に対する大逆罪(たいぎゃくざい)を適用し、死刑を画策。しかし、大津地裁で開かれた大審院(だいしんいん)法廷では、謀殺未遂罪(ぼうさつみすいざい)を適用、無期徒刑(むきとけい)の判決を下し、「司法権の独立」を貫き通しました。 大津まちなか元気回復委員会」

このときの大審院長であった児島惟謙が亡くなってから、今年は100年目にあたる。
創立の際に児島惟謙が賛助した関西大学(当時は関西法律学校)では、4月から「特別展『児島惟謙歿後百年展』」が開かれているらしい。


          
            大津事件が起こった通り

孫引きとなってしまうが、「大津事件」(尾佐竹猛著・三谷太一郎校注、岩波文庫)の52頁に、事件が起こったときのこの通りについて(明治二十四年五月十五日『読売新聞』第五千号付録に拠る)記してあるので、それを参考にする。

露国皇太子一行が、滋賀県庁を出て京都へ帰る途中、京町区下小唐崎町通を進んでいるときに事件は起こったという。
県庁は、写真の通りの奥のほうにあるので、皇太子一行は、この通りを奥のほうから手前のほうへと進んできたということになる。
写真の左手に立番していた津田三蔵は、通り過ぎる皇太子の頭部をサーベルで切りつけた。
皇太子は、切りつけられた場所から5~6歩戻り、写真の右手にあった呉服商・永井長助宅で応急手当を受けたそうである。

この永井宅であるが、現在、この場所にはない。
事件のあと、永井宅を訪れ、記念になる物品を欲しがる者や、残っている血痕を見学したがる者が増えて、店の商品は品切れとなるほどであったという。
それだけではなく、あちこちから土地家屋の買収の話がもちあがる。
結局は、滋賀県庁のものとなったようだが、通りを歩いた限りでは、個人宅や商店はあっても、県が所有しているような土地建物は見当たらなかった。

永井長助さんご一家は、どこへ移り住んだのだろうか。


          

後日、大津市歴史博物館を訪れた際に、企画展『大津事件』の解説図録の改訂版を手に入れることができた。
この企画展は、平成15年(2003)2月27日~3月30日に開かれていたようだ。
貴重な史料が満載だ。


          
                  義仲寺

お寺はもう閉まっている時間だったが、せっかく近くまで来たのだからと、義仲寺に行ってみる。
ここは、木曽義仲と松尾芭蕉のお墓があるお寺。
木曽義仲のお墓(首塚)は、法観寺(八坂の塔)にもある。