大倉草紙

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【滋賀】 近江大津宮錦織遺跡 

2008年09月09日 20時41分50秒 | 旅 - 滋賀県
6月22日(日)
当日の行程:(JR長浜駅) → 【長浜城(長浜市長浜城歴史博物館)】 → (JR長浜駅~彦根駅) …(車) → 【彦根城】【安土城跡と見寺】【園城寺(三井寺)】【近江大津宮錦織遺跡】【露国皇太子遭難之地】



   
              大津京シンボル緑地

大津京シンボル緑地は、大津市錦織(にしこおり)2丁目、JR湖西線大津京駅または京阪電鉄近江神宮前駅の西方にある。

667年、天智天皇によって、飛鳥から近江への遷都が行われる。
671年、天智天皇が死去すると、皇位継承をめぐり、大友皇子と大海人皇子の間に壬申の乱が起こり、この乱に勝利した大海人皇子は再び飛鳥に遷都したことから、この地に都が置かれたのは、わずか5年間だった。
大津宮の所在は、昭和49年(1974)、錦織地区での発掘調査で大津宮の一部の遺構が発見され、明らかになった。
その後、内裏正殿、内裏南門、回廊、壁などの遺構が確認されている。

大津京シンボル緑地は、大津宮の遺跡の北端に位置する。
平成15年(2003)、大津市が古都保存法に基づく「古都」の指定を受けたことを記念して整備されたのだそうだ。

大津京シンボル緑地内には、3つの歌碑が建っている。

          
「秋の田のかりほのいほの苫を荒みわが衣手は露に濡れつゝ 天智天皇」

          
「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 柿本人麻呂」

          
「さゞ波や志賀のみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな 平忠度」


近江大津宮錦織遺跡は大津市錦織1丁目~2丁目にかけて点在している。
遺跡の脇を通るのは、上下一車線ずつの決して広くはない道路だが、かつては、大津宮の南北中軸線に相当する重要な交通路だったようだ。

          
             志賀皇宮遺跡の石碑


   
            近江大津宮錦織遺跡第1地点

近江大津宮錦織遺跡第1地点は、大津宮の中心である内裏の東南隅にあたる。
ここからは、回廊の柱の一部と、塀の一部が見つかっている。


   
            近江大津宮錦織遺跡第2地点

近江大津宮錦織遺跡第2地点は、天智天皇が政を執った内裏正殿のあった場所だとされる。
発掘調査で、建物の東南部分だと思われる10の柱跡が見つかっている。
第1地点と第2地点は、80~90メートル離れているが、その間に大津宮の遺構は発見されていない。
その空間は、儀式を行うための場所であったのだと考えられている。


「大津宮」か、それとも「大津京」か、その呼びかたをめぐり、論争が起こっているらしい。
今年の3月、JR湖西線「西大津駅」が「大津京駅」に改称されるにあたり沸き起こったこの論争を、各紙が取り上げている。

「宮」は、天皇が生活し、政を執る施設のこと。
それに対して「京」は、「宮」のまわりに貴族・役人・庶民たちの住居・市場・寺院などが配置された都市のこと。
つまり、「宮」である天智天皇の宮殿の跡は見つかっていても、それを取り囲む都市(=「京」)が発見されていないのに「大津京」と呼ぶのはおかしいというのだ。

遺跡の名称は「大津宮」だけれども、上にあげた「大津京シンボル緑地」(大津市)は「大津京」、そして、大津市歴史博物館も「大津京」を用いている。
どうやら、大津市は「大津京」にしたいらしい。
大津市のホームページでも、一貫して「大津京」という名称を用いている。
大津市民の気持ちもわからないでもないが、紛らわしい。

この付近のもうひとつの駅、京阪電鉄「近江神宮前駅」は、これに比べて、明快で、自然に受け止められて、よい。
近江神宮は、天智天皇を御祭神とする勅祭社。
大津宮跡に鎮座している。
京阪電鉄といえば、今秋に京都市内の3駅の駅名を変更すると、車内広告で知った。
「丸太町」が「神宮丸太町」に、「四条」が「祇園四条」に、「五条」が「清水五条」に、それぞれ変わるそうだ。
京阪贔屓なわけでもないが、こちらの駅名変更は、なるほど、これなら観光客にもわかりやすい、と思う。

「大津京」とは別の意味で紛らわしい駅名といえば、浦和駅。
「浦和駅」「東浦和駅」「西浦和駅」「南浦和駅」「北浦和駅」「武蔵浦和駅」「中浦和駅」、あ、それと「浦和美園駅」もある。