奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

徳山小話(東谷の巻)No185 0303

2021-03-03 00:40:21 | 雑談

徳山小話(揖斐川東谷の巻) ※ ”美濃徳山の地名”から [ ]1/2.5万地図名

2021年 3月  3日(水)

 徳山の山の話を聞いてください。先週、足首を捻挫した私は山にも行けず、好きな酒も飲めない(ウソ)、話をしたくて今、うずうずしています

1 徳山富士=点名は「白谷」925.2m[能郷]※では、シャガタテヤマ、サネタテ山とも言う。本郷区から 眺めると富士山のように見える。根尾村と藤橋村との村境にある ※p19,p23

 

 徳山会館手前からのシャガタテヤマ (右の高い山) 2011.117撮影

 → 本郷区民は「徳山富士」とは呼ばなかった(徳山会館館長談、自然観察会「とく丸」のガイド嬢説明で)

 

 馬坂トンネル横から旧馬坂峠に登ると碑に出会う、うい(憂い)は馬坂、つらいは冠、のりの長いは田代谷とある。峠越えのえらさ、が書かれている。碑はトンネル(昭和8年開通)以前からあったものと感激したが、ここに置かれたのは最近(10数年前?)と聞いてがっかり。2013.11撮影

 

2―1 石炭山(磯谷左岸):徳山地方で唯一この谷に石炭が産出する。採掘事業があったが不採算のため放棄された ※p55

 → S48年測量地形図[美濃徳山]を見ると磯谷右岸に実線(幅1.5~2.5mの道路)が長く載っている。私がS49年に歩いたときは人が通れる幅、とても車が走ったとは思えなかったが、あとで石炭を搬出するために作られたと聞いた

 漆谷と磯谷の間(三角点「鳥木谷」の手前)の尾根、左下(磯谷側)が石炭が出たと思われるところ)2020.5撮影

2-2 ※には載っていないが、揖斐川右岸:西赤谷には鉱業権(マンガン鉱?)があり、昭和の時代試掘されていたと聞いた。私の知っている櫨原区のSさんは若いころ(昭和40年前後?)、鉱物が入った袋(30kg前後?)を人力で谷入り口~試掘場一往復いくらで運んだそう。びっくりするほど安い値段だったことを覚えている

 

3 出作り小屋:徳山の人は、集落から遠く離れた奥地に耕作地を探し求め、小屋に泊まりこんで耕作した。本郷区の場合、磯谷の磯倉(イソグラ)の麓“倉元(クラモト)”に8軒の小屋があり、田が1町2反あったという。※p45、p59

 → 私の知っている本郷区のNさん、新婚時代、新妻と二人で小屋に働きに行くのが唯一の楽しみだった、と笑顔で私に話した(S50年ころ、Nさん当時70歳くらい)

 倉元の出作り小屋 ※p59 朝起きたら窓の外に熊がいてびっくりしたとも現地でNさんは話した。この出作小屋、徳山全域、柱立建物小屋115軒、丸太作り小屋175軒、当時全村個数の74%あったという(p143)

 

4 大白木山(オジロキ山:1082.2m・点名・滝谷[美濃徳山])※p119

→下大須西にある同名の山(1234.4m)はオジロギ山とキは濁る。徳山ダムができる前は山手区の鬼生谷から登ったのであろうが、ダム完成後は揖斐川を渡らないと登れない。私の師(Xさん)は水量の少ない冬場に揖斐川を渡り、雪の上を西勝谷→滝谷→荒谷(千回沢山)→不動山、往復をしたそう。すごい、揖斐川を渡るとき”死にかけた”と話していた

 

5 坊主尾根= 山屋が言う塚白椿隧道西のヒン谷とシタ谷の間の尾根。私の知っている塚のSさんは、この尾根を使って福井の御坊様が駕籠に乗って盆明けにやってきた。駕籠かきは門入の人がしたと話した(平成12年ころ)。この尾根を登った人はお分かりだろうが、とても駕籠で上り下りするような道はないが部分的には駕籠を使ったんでしょう。※p175によるとベンケイイワ(上人様が休んだ平たい岩)とある。お坊様が通ったことは間違いないが、”坊主”と呼び捨てしたら、お坊様に失礼だ!!

 その昔、上人様はこの岩の下で休まれたのか? 2016.3撮影 これがベンケイイワかは自信なし

 

☆ 地名:本郷区の米所「上原」はアンギャラ(※p51)、櫨原区の「上原」はカミハラ(p141)、徳山三角点踏査入門、塚区の「梨ヶ平」はナシンダイラ(p161)、同塚区「布滝」はノノガタキ(p183)、地名の読み方は難しい。この※(美濃徳山の地名)には、徳山各地区の昔ばなしや、雑談コーナーと、面白い記事もりたくさん。ぜひ最寄りの図書館で借りて読んでみてください

 

★ 次回は西谷(揖斐川右岸西谷川周辺)の小話を予定!!

 

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