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『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』を読む

2016年02月28日 | 批評

『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか』を読む
     ―中世の西行を思い浮かべつつ



     1

 わたしは、本書を読みながらわたしの好きな中世の歌人、西行のことを思い浮かべた。西行は、平安末の動乱の時代を生きた北面の武士、佐藤義清(のりきよ)であったが、なぜか若くして出家してしまった。後に読まれた歌からすればこの世での生き難さから当時の流行思想である仏教の方に入り込んでいったのか、妻も子もいたらしいが、出家の動機も出家後の動向もよくはわかっていない。

 ところで、西行は平安期末の1140年23歳の時出家したと言われている。西行といくらかのつながりのあった貴族の藤原頼長の日記『台記』には、次のように描写されている。 


「そもそも西行は、もと兵衛尉(ひょうえのじょう)義清也。重代の勇士たるを以て、法皇に仕ふ。俗時より心を仏道に入る。家富み、年若く、心に愁無きに、遂に以て遁世す。人これを嘆美する也」(『台記』1142年3月15曰の記事)(http://www.intweb.co.jp/saigyou/saigyou_nenpu.htm ここから引用した)



 藤原頼長が西行とどれくらいの関わりがあったかは知らないが、訪れてきた西行の印象が簡潔に描写されている。そして日記という性格もあるだろうが、これは西行の内面には触れない外面描写になっている。これ以外にも荒唐無稽な話を含む西行の説話的な物語や伝記や記述が書かれているものがある。これらをひとくくりで外面的な描写や説話と見なせば、現在でそれに対応するのは週刊誌の記事や描写であろう。その外面的な描写や説話も現代の週刊誌の記事や描写もともに、ある特定の人物の内面を十分に描写する位置にないし、描写し得る文体でもない。

 だが、西行には歌が残されている。出家前のことや出家後のこと、あるいはとても心引かれていた桜を歌った歌など『山家集』に収められている。また、当時から人工的な美の造型である新古今派の歌と引き比べて具体像をまとった西行の歌は異質であり、すぐれたものであるという評価を歌の世界(貴族社会)では受けていた。残された西行の歌は、人間界の前景からの消失、つまり出家遁世の動機とその心模様を西行が自覚的ではない形で自ずから語ってしまっていると見なせると思う。もちろん、歌であるから、西行の内面が整序立てて明確に語られているというわけではない。しかし、歌には西行の内面が具体像を伴いながら描出されているものもある。例えば、次の『聞書集』の歌は、おそらく老年になっての歌と思われるが、若い頃を思い出しつつ「たはぶれ歌」の形式に乗って歌われている。このような日常詠の歌は、俗謡としては似たものはあったかもしれないが、日常詠の歌として本格的に歌の領域に入り込んでくるのはおそらく近世になってからだと思われる。



 ①

  嵯峨にすみけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを(八首)

うなゐ子がすさみにならす麦笛のこゑにおどろく夏の昼臥し(聞書集165)
 【通釈】うない髪の子供が戯れに吹き鳴らす麦笛の音に、はっと目が覚める、夏の昼寝。 

昔かな炒粉いりこかけとかせしことよあこめの袖に玉だすきして(聞書集166)
 【通釈】昔であるなあ。炒粉かけだったか、そんなのをしたことよ。衵(あこめ)の袖にたすきがけをして。


我もさぞ庭のいさごの土遊びさて生ひたてる身にこそありけれ(聞書集170)
 【通釈】私もそのように庭の砂の土遊びをして、そうして成長した身であったのだ。


恋しきをたはぶれられしそのかみのいはけなかりし折の心は(聞書集174)
 【通釈】恋しい思いをからかわれた、その昔のあどけなかった頃の心は、ああ。
 
 (http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html#kikigaki 「千人万首」西行 より引用)



 ②

  春立つ日よみける
なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山(1062)
 【通釈】春になったと聞いた日から、なんとなく、心にかかる吉野山である。


花に染そむ心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に(76)[千載1066]
 【通釈】花に染まるほど執する心がどうして残ったのだろうか。現世に執着する心はすっかり捨て切ったと思っている我が身なのに。


ゆくへなく月に心のすみすみて果てはいかにかならむとすらむ(353)
 【通釈】あてどもなく、月を見ているうちに心が澄みに澄んで、ついには私の心はどうなってしまうというのだろう。


あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき(710)
 【通釈】ああ、ああ。現世のことは、ままよ、どうとでもなれ。しかし、来世もこのように苦しいものなのだろうか。


  題しらず
世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ(新古1471)
 【通釈】世の中というものを思えば、すべては散る花のように滅んでゆく――そのような我が身をさてまあ、どうすればよいのやら。


  あづまのかたへ修行し侍りけるに、ふじの山をよめる
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな(新古1613)
 【通釈】風になびく富士山の煙が空に消えて、そのように行方も知れないわが心であるよ
 (同上 より引用)



 ①②の引用歌から見ても西行は、仏教の修行者というイメージとはちがっている。桜の花に心ひかれたり、出家しても残る現世への執着を隠そうともしていない。平安末の動乱期、現実世界での生き難い心が、当時の流行の思想である仏教を呼び寄せたと言うべきだろうか。自分の内面との果てしない問答がくり返されている。しかも、それがどこへどういう形で到るのかは西行自身にとってついに不明のままであった。

 ①の引用歌は、西行が眼前の子ども等の所作から自分の過去を振り返ったり、あるいは遠い過去の記憶を思い浮かべたりしている歌である。②の引用歌と比べたら、割と穏やかな内面の在処や表情が表現されている。出家後も一人きりというわけではなく、同じ出家者の親しい知り合いも居て交流もあったようだし、①の子どもの砂遊びなどを見ての歌などもあり、よくわからないという抽象性を伴いつつもある具体像を思い浮かべることができる。人が生きていくということはわたしたちの現在を内省すればわかるように、②の表現のようなある思想的な思い悩みのきびしい系列の表現もあれば、①のような自らを慰藉するような柔らかな表現もある。

 ②の引用歌は、花や月や山などの自然が詠み込まれているけれども、おそらく現世的なものと出家の世界、つまり仏教の世界との間に引き裂かれた心を持て余している表現になっている。西行は、おそらく穏やかな生を望みつつも生涯このような思い悩みを手放せなかったろうと思う。


付.

 奈良県の吉野にある西行庵を若い頃訪れたことがある。出張ついでに訪れた。残念ながら桜の季節ではなく夏だった。著者の小屋程度かそれより少し小さい小屋である。どういう生活の日々を送っていたかは想像できるわけもなく、建物をのぞいただけであった。

西行庵の写真(http://87yama.sakura.ne.jp/gallery/saigyou-an.html より) 


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