回覧板

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参考資料 ―「十年やれば誰でも一人前」、鮎川信夫・吉本隆明対談より

2014年12月21日 | 回覧板

   詩人の才能(註.小見出し)

吉本 はいはい。ところで鮎川さん、詩ってものがあるでしょう。僕の感じかたなんですけれども、今の平等、不平等に関連するわけですけれど、こうなんですよ。詩ってやつも、靴屋さんが靴をつくるように、それから何屋さんが何をするようにってこととまったくおんなじで、たとえば十年詩を書いてたらね、だれでも一人前になれるっていうふうに思ってるわけです。そのことに能力の違いはないっていうふうに思ってるわけですよ、僕は。それじゃお前は一人前の詩人だとなるとするでしょう、僕の考えではそのあとに詩の問題になるのではないかと思うわけです。そうすると詩というのはきわめて意識的に、こう手を動かして書く問題になるのじゃないかと思うんです。
 だいたい日本の詩人の場合、十年やって一人前の詩人であるというところまではやるわけです。そうしておいて結局はその後がほんとに詩の問題じゃないのかなというところでは止めてしまうと思うんですよ。僕なんかそうですね。僕はもともと一人前かどうか別にしましてね(笑)。その後結局止めてしまいますよね。そして書いたとしたって、習慣的にしか書かない、っていうふうに思うんです。つまり十年の間にこう言葉が、つまりこういうふうにやればなんとなくできちゃうみたいな、こう坐ればなんか観念の流れというものに入れば、そうすれば詩というものは、習慣的にできるんだというような感じがあってね。そういうことの、まあある意味で面白さのなさと、それからある意味じゃこれから詩というものが始るんだよという、こんどは詩っていうのは苦痛だねっていう感じですよね。これは修行しなくちゃいけない(笑)、という、そういう感じで。


鮎川 いや、大工さんが一人前の大工さんになるというプロセスとある意味じゃまったくおんなじだという……。


吉本 うん、おんなじだということ。つまり僕の考えでは、その場合に十年やればこれはどんな人だって、別に文学なんか関係ない、関心ないよっていうよう人だって絶対に一人前の詩人だといわれるようになると思いますね。それでほんとうは鮎川さんの言われる能力の違いがあるかっていうような問題は、おそらくその後で始まるんではないのか、それはおそらくは意識的な、相当苦痛な過程なんじゃないかというふうに思うんですけれどもね。それでそのところでそれに耐え切ったというふうなことは、ちょっと日本の詩人の場合には少ないんじゃないかというように思うんです。つまりいろんな要因があるんだと思うんですけど、あとは結局習慣的になら書けるさっていうような感じでいくというふうな、それからもともと勘がいいから書けるという、たとえば田村さんみたいな(笑)、まあ、勘がいいから保ってるというふうな。しかし僕はだめだっていう気がするんです。つまりそれ以降の詩の問題は勘じゃない、相当意識的な修練ではないか、そしてそのときに本当の詩の問題というものが出てくるんじゃないかと、僕はそういう気がするんです。


鮎川 なるほど。


吉本 そして自分はそこで、もうこれはいかんということでね、止めちゃったような気がするんです。だからなんといいますか、そこを耐え切ったらちょっとよかったんだということになるんですけれどもね。だけどそのあとはだいたい習慣で書いているというね。それじゃたとえば明治以降、そうじゃないって言えるような詩人というのは本当に数えるほどしかないのではないか、あるいはいないのかもしれない(笑)、とそんな気がするんです。


鮎川 そうね。


吉本 そこの段階でほんとうは決まるみたいな、そういうことが僕はあるような気がするんです。それまでの問題は、能力の問題じゃないっていう感じがするんです。だからそのあとに能力の問題というのは出てくるかもしれない、あるいはやりかたいかんではいろんな思いがけない展望が開けるのかもしれないというみたいなことがあるような気がするけど、ちょっと十年の問題だったらば、能力もヘチマもないしね、文学に関心があるかないかもないと思う。とにかくやれやれってやって、十年やったらなんとかなるんじゃないかっていうのが、僕の感じかたなんですけれどもね。

(「情況への遡行」鮎川信夫・吉本隆明対談 初出「現代詩手帖」1973年3月号)

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(わたしの註)「十年やれば誰でも一人前」について

 


 以上は、鮎川信夫・吉本隆明対談の、ここで取り上げる「十年やれば誰でも一人前」の核心部分です。この引用部分の少し後で、鮎川信夫は吉本さんの考え方について「そういう考えかたっていうのは僕はやっぱりすごく科学的な感じがする。文芸批評という感じよりも、なんていうかやっぱり科学者が対象を検討するやり方っていうかね。」と語っています。

 吉本さんは、ある言葉や概念を単なる思いつきに終わらせることなく、長い年月をかけて考え、煮詰めてきています。ある場合には修正したり、またある場合には次第に深化させてきたりしています。この吉本さんがよく言ってきた「十年やれば誰でも一人前」という言葉も何度かくり返されています。ここでは、この言葉のそうした過程を明らかにすることはしませんが、上の対談からずいぶん後に語られた言葉をひとつ引用しておきます。ネットから採集してきました。


――専門家でないと物を書けないように思われがちですが?

(吉本) 学問者や研究者と、僕みたいな物書きとどうちがうかというと、前者は頭と文献や書物があれば研究ができる。物書きは手を動かさないと作品が書けない。僕も手で考えてきた。頭だけで書いたらつまらないものしか出ない。考えたことでも、感じたことでも手を動かして書いていると、自分でもアッと思うことが出てくる。それは手でもって書いてないと出てこない。
  でも、年食ってくると、いちいち、しんねりしんねりしながら手を動かすのが、おっくうになる。それは研究者も同じ。本を読んで、いちいち必要なところだけメモを取るなんて、面倒ですよ。そんな辛気くさいことやってるより、どっかの会長になる方が楽だよね。しかし、手で考えるってことをやめたら、物書きは一巻の終わりですね。これはあらゆる芸術でも言えることだよね。手を動かすっていう本筋は変わらない。
  だから、もし文学者になりたければ、10年間、手を動かすことだと思います。10年間やれば、一人前になりますね。秘訣も何もない。才能があるとか、ないとか言うのは、そのあとの話ですよ。文学の場合、「気が向いたときに書いて、気が向かないときには書かない」というのがいいことみたいに言われるけど、それはウソだよ。気が向こうが向くまいが、何はともあれ書く、手を動かす。そうしたら、一人前になりますね。

(「吉本隆明さんインタビュー」(09-10-26)『不登校新聞』http://www.futoko.org/special/special-19/page1026-540.html)


 吉本さんは、上の鮎川信夫との対談で音楽家や数学者は子どもの時からやらなくてはいけない例外として語り、それ以外であれば何歳からでもひたすら十年やれば誰でもいっちょ前になれると語っています。ただ、例えば詩であれば、気が向く日だけ詩を書いていてはダメで、書けない日でも毎日机に向かうというそういうつらい修行をしなくてはいっちょ前になれないと別のところで語っています。また別の所では、手を動かすことの重要性がここよりもう少し突っ込んで語られています。

 鮎川信夫は、吉本さんの発想を「科学者が対象を検討するやり方」と語っています。鮎川信夫の感受の鏡に写った吉本さんの言葉の像が語るのは、文学の内部に居るものの視線からはそう見えるということだろうと思います。しかし、「十年やれば誰でも一人前」という吉本さんのこの考えは、文学の世界を突き抜けて、わたしたちが生活世界で日頃感じていることと合致するもので、おそらく大多数の人が受け入れ可能なものではないかと思います。逆に言えば、その言葉は職人さんとかの当人からすれば、そんなこと当たりめえじゃねえか、ということになりそうです。万人が認めるような言葉は、まさしく「当たり前」と感じられるからです。ただ、ふだんはその「当たり前」にいろんな飾りがくっついてそれが見えなくなっていることが多いと思われます。この言葉は、「やっぱ才能かよう」とつぶやいてあることから引き返す若者を励ますものを持っています。もちろん、「十年やれば誰でも一人前」ということの中身には大変な日々の過程があるとしても、です。

 このような吉本さんの対象に対するまなざしの獲得は、鮎川信夫が語ったように吉本さんの科学的な素養(実験化学)からも来ていると思われますが、それだけではないと思います。ここではそのことを明らかにはしませんが、人間界での生き方のアドバイスをする評論家が、ある場合には努力というものを強調したり、またある場合にはチャンスをつかむことが大事とか、いうふうに対象の本質の周辺を語っている場合が多い中で、つまり当てにならないことがたくさん語られている中で、吉本さんの言葉は、職人さんならその職人さんの内面を包み込むような普遍的な(万人に当てはまるような)視線を行使しています。どうしてそのようなまなざしを獲得できたのかということは、わたしたちにとっても大事なことですが、ここでは吉本さんの、そのような万人の内面に深く棹(さお)さすことができるようなまなざしや言葉を取り出すだけにしておきます。

 付け加えれば、この対談(1973年)で吉本さんは詩を書かなくなったと語っていますが、また再開しています。1975年から1984年にかけて書き継いだ詩を元に、それらを再構成して『記号の森の伝説歌』(角川書店, 1986年12月)という詩集を出しています。吉本さんにとって、詩という表現は根源的なもので、思い入れも深かったものと思います。


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