法蓋山(ほうがいざん)・東光寺は、新羅三郎義光が保安2年(1121)に、諸堂を建立した興国寺にはじまるといわれています。その後、わが国にはじめて、本格的な宋朝禅を伝えた蘭渓道隆(大覚禅師)が、弘長3年(1263)に入山して、荒廃した諸堂を修復し、禅刹として再興しました。
東光寺は、鎌倉幕府の執権北条高時(法名崇鑑)から、幕府の官寺として「五山」「十刹」につぐ「諸山」に列せられていました。戦国時代には、武田信玄が定めた外護、府中五山の一つに列せられた名刹になっています。天正10年(1582)、織田信長に焼かれ、住持藍田和尚は恵林寺に避難しましたが、のち快川和尚らと火定に入りました。
本堂裏山の墓地には武田義信と諏訪頼重の墓がある。長男でありながら父信玄と対立、この東光寺に幽閉され終焉を遂げさせられた義信、名族諏訪氏の当主で、信玄の妹を夫人に迎えていたが武田軍の攻撃を受けて敗れ、この寺に幽閉され切腹させられた頼重、いずれも戦国時代の悲しく厳しい歴史です。
東光寺は、鎌倉幕府の執権北条高時(法名崇鑑)から、幕府の官寺として「五山」「十刹」につぐ「諸山」に列せられていました。戦国時代には、武田信玄が定めた外護、府中五山の一つに列せられた名刹になっています。天正10年(1582)、織田信長に焼かれ、住持藍田和尚は恵林寺に避難しましたが、のち快川和尚らと火定に入りました。
本堂裏山の墓地には武田義信と諏訪頼重の墓がある。長男でありながら父信玄と対立、この東光寺に幽閉され終焉を遂げさせられた義信、名族諏訪氏の当主で、信玄の妹を夫人に迎えていたが武田軍の攻撃を受けて敗れ、この寺に幽閉され切腹させられた頼重、いずれも戦国時代の悲しく厳しい歴史です。
